第15話 まだ開けないでください
宗像教授に会いに行くのに、二日かかった。
電話番号は変わっていた。大学に問い合わせると、去年退官したという。転居先を教えてもらうのに、事務室で三十分かけて事情を説明した。説明しながら、僕は自分の口が嘘を組み立てていくのを聞いていた。学位論文の件で確認したいことがある、と僕は言った。学位は取っていない。
教えられた住所は、国立の、古い一戸建てだった。
※
宗像は庭にいた。
七十近い。三年前より痩せていた。剪定鋏を持って椿の枝を切っている。
「先生」
彼は振り向いて、僕を見て、鋏を持ったまま二秒ほど止まった。
その二秒に、いろいろなものが入っていた。
「……高梨か」
「ご無沙汰しています」
「上がれ」
それだけ言って、彼は縁側のほうへ歩いていった。
※
茶が出た。ほうじ茶だった。宗像は昔から、研究室でもほうじ茶しか飲まなかった。コーヒーは味が強すぎて考えごとの邪魔になる、というのが持論だった。
「元気か」
「校正の仕事をしています」
「本の」
「はい」
「向いてるだろうな、お前は」
宗像は湯呑みを両手で持った。榛名と同じ持ち方だった。
「先生」
「うん」
「三年前のことを、伺いに来ました」
庭で鳥が鳴いた。
宗像は湯呑みを置かなかった。持ったまま、庭の椿を見ていた。
「矢口が言ってたな。お前から電話が来たと」
「はい」
「あいつ、余計なことを言ったか」
「先生が、僕のことを『見ちゃったんだよ』と言ったと」
宗像の指が湯呑みの縁を撫でた。
※
「高梨」
しばらくして彼は言った。
「お前は、あの日、なぜ相模原にいた」
「……いません」
「いた」
「僕は大学にいました。先生の論文の図を作っていました。第三章のグラフの、軸のラベルが」
「作っていた」
宗像は僕を遮らなかった。遮らずに、最後まで言わせて、それから静かに続けた。
「作っていたな。あれは十月二十日に上がってきた」
僕は口を閉じた。
「二十日だ。私は覚えている。締切が二十二日で、二日前に上がってきたから、珍しく余裕があると思った」
湯呑みが卓に置かれた。
「十七日には、お前は大学にいない」
僕は両手を膝の上で握った。
握った手が自分のものではないような感じがした。
「じゃあ僕の記憶は」
「私はお前の記憶を否定しに来られても困る」
宗像は初めて僕の顔をまっすぐ見た。
「私が知っているのは私が見たことだけだ。私が見たのは二十日にお前が図を持ってきたことと、十八日の朝に機構から電話が来たことだ」
「電話」
「事故があった、と。共同研究の学生が現場にいたから、大学にも連絡が要ると」
僕の指の関節が白くなっていた。
「私はその日、相模原まで行った」
宗像の声が少しだけ低くなった。
「お前は、実験室の外の廊下にいた。座り込んでガラスに片手をついていた」
「僕は」
「六時間、そこにいたそうだ」
風が吹いて、椿の葉が鳴った。
「私が声をかけたら、お前はこう言った」
宗像はそこで一度、言葉を切った。
切ってからはっきりと言った。
「——まだ開けないでください、と」




