第14話 お姉さん、輪郭が二重だね
その日の午後、僕は部屋にいられなくなって外に出た。
同意書は卓袱台の上に置いたままだった。裏返すこともしなかった。裏返せば、隠したことになる。
商店街を抜けて公園に入った。
平日の昼過ぎで砂場に子どもはいない。滑り台の塗装が剥げていて、下のほうに錆が浮いている。僕はベンチに座って缶コーヒーを開けた。
榛名は隣に座った。座って足をぶらぶらさせた。ベンチの高さが彼女には少しだけ高い。
「同意書、読んだ?」
「読んだ」
「なんて書いてあったの」
「特別な条項はない。ただ、日常の中で二人分を一人分にする、それに同意しますって書いてある」
「へえ」
「読みやすい組み方だった」
「そういう感想」
榛名が笑った。
僕もつられて少しだけ笑った。笑って、それから、笑えている自分が信じられなくなった。
※
向かいのベンチに、子どもがいた。
いつからいたのかは分からない。気づいたときには座っていた。小学校の高学年くらいの男の子で、平日の昼にランドセルも持たずにいる。膝の上にゲーム機を伏せて置いて、電源は入れていない。
彼はこちらを見ていた。
僕を、ではない。僕の隣を見ていた。
僕は視線を逸らした。逸らして、缶を口に運んで、それでもまだ見られている気配があったので、もう一度そちらを見た。
目が合った。
少年は僕の目を見なかった。
彼はまっすぐ、榛名を見ていた。
「お姉さん」
声変わり前の、少し高い声だった。
榛名の足が止まった。
「輪郭が二重だね」
公園の音が遠くなった。
滑り台のところで風が鳴っている。それだけがやけに大きく聞こえた。
榛名はゆっくりとベンチから立ち上がった。
「……見えるの」
「見えるっていうか」
少年はゲーム機を持ち直した。
「二個ある」
「二個」
「生きてるのと、死んでるの。ちょっとずれて重なってる。印刷がずれてるみたいに」
僕は缶を落としそうになった。落とさなかったのは、指が固まっていたからだ。
※
「君」
僕は立ち上がった。
「名前は」
少年は僕を見上げた。警戒はしていない。むしろ、慣れている顔だった。知らない大人にこういう話をして、こういう反応をされることに慣れている顔だ。
「ケイ」
「ケイくん。いま、何が見えてる」
「お姉さんが二人」
「二人?」
「うん。ひとりはそこに立ってる」
彼は榛名を指した。
「もうひとりは、そこに寝てる」
彼が指したのは榛名の足元だった。
地面から十センチくらいの高さ。誰も寝ていない、公園の土の上。
僕はそこを見た。
何もなかった。
僕には、何もなかった。
※
「ずっと見えるの、そういうの」
僕が訊くと、ケイは頷いた。
「たまに。人が二個あるとき」
「よくあること?」
「ない。おじさんが二人目」
「一人目は」
ケイはゲーム機の画面を親指で拭いた。
「学校の先生。去年」
「その先生は」
「一個になった」
彼は顔を上げなかった。
「みんなが見たから、一個になったんだと思う」
僕の背中に、汗が伝った。
隣で榛名が僕の袖を掴んだ。
掴んだ指に、力が入っていた。
その力を、僕は、はっきりと感じた。感じたということは、いま、この瞬間、彼女はここにいるということだ。
そして、ケイにも見えているということは。
僕の事実が僕だけのものでは、なくなったということだ。




