9話 お嬢様はわんちゃんが欲しい
真白さんが帰った後。彼女の残り香が微かに漂う部屋で俺はスマホを手に取った。
さっき感じた腹の奥から湧き出るマグマのような衝動。その正体を知りたくて、SM系の動画をいくつか流し見る。
けど違った。
微かな性欲を感じても、所詮は動画を利用して昂らせたに過ぎない。子供の頃、動画撮影の台本に『泣け』と書いてあったから『お母さんが死んだら』を考えて泣いたのと同じ、偽物の感情だ。
真白さんとの行為の中で感じたものは、子供の頃に演じたものとは違う、生々しいものだった。
意志とは無関係に込み上げる欲情――それこそが、本物の感情だと信じられた。
だからこそ、もっと知りたいと思ったのだが――。
「避けられてるな……」
次の日の朝、教室に入ると席でスマホを見ながらそわそわしていた真白さんと目が合う。
コンマ一秒、ブンッと音がしそうな勢いで顔を背けられた。
露骨過ぎて少しムカつく。他の人に気付かれないよう回り込み、もう一度目を合わせ――また逸らされた。
必死に俺とは反対方向に顔を向けながら首筋を撫で始めたのは、きっと勢いをつけ過ぎたせいだろう。
痛めてないといいけど。
「これじゃ話すどころじゃないか」
無理に声をかけて真白さんに悲鳴をあげられでもしたら後が怖い。きっと俺のクラスカーストはゴミ箱より下になってしまうだろう。
諦めて自分の席につくと、真白さんに近付く女子が目に入った。いつも人の噂話をしている子だったと思う。名前は忘れた。
「ねぇねぇ、真白さん。昨日黒川君と一緒にお昼食べてたんだって?」
「えっ!?」
心底楽しそうな笑みを浮かべている噂好きさんと、目をまんまるにする真白さん。
なんで女子ってあんなに声がでかいんだ。男達の殺気が俺にまで飛んでくる。
「ふたりって付き合ってるの⁉ 真白さんが男子と仲良くしてるの見たことないけど、彼氏が居たからなんだ!?」
「あ、その……別にお付き合いしてるわけではなくて……」
「ああ、告白待ちみたいな? いいよねぇ、付き合う寸前って一番楽しいよね、分かるぅ~」
好き勝手言いすぎだろ。真白さんが首やら手やらをわたわたと振って必死に否定しているのに、噂好きさんは自分の世界に入りすぎだ。
楽しそうってだけで人の事情をひっかき回すのやめてくんないかなぁ。かわいそうに、真白さんはスキャンダルを撮られた芸能人みたいな顔してるよ。
「ねぇねぇ、なにがきっかけで黒川君と仲良くなったの? ふたりが話してるの、全然見たことないけどぉ」
「えっとぉ、黒川君にはお願いしたいことがあって……それで」
ああ、真白さんの目が苦しそうに泳いでる。嘘とか誤魔化すとか苦手そうだもんなぁ。
「お願い~? 真白さんにお願いされたら、うちならなんでも聞いちゃうなぁ。宿題全部見せてでも、頭を踏ませてでも――」
「え、本当ですかっ⁉ ……あっ!」
おっと、流れ変わったぞ?
「あ、ああっ……! い、いえいえ。なんでもないですっ‼」
真白さんは慌てて口元を手で押さえたが、それで失言がなくなったら苦労はしない。
「……めっちゃ食いつくじゃん。真白さん宿題やってこなかったの?」
「そ、それは……いつも遅れずに、提出しています」
「だよね。じゃあ食いついたのは、もしかして頭を――」
「ち、違います! わんちゃんですっ! 黒川君にはわんちゃんになってとお願いしたんです! って、私は何を言っているんですかあぁぁぁ‼」
悲痛な叫びが教室中に響き渡った。本当に何を言ってるんだろう。
「は? わんちゃん……?」
噂好きさんが困惑している。俺だって困惑している。
……おい、そこの男子。なにをそんなに鼻息荒くしてるんだ? 勘の良いオタクは嫌いだぞ。
「ち、ちちっ、違うんですっ! 別に黒川君をわんちゃんにしたいとか、そういう話ではなくてですね。黒川君は元からわんちゃんで、ただ私は可愛がってあげただけで……!」
「悲報。黒川氏、人間ですらなかった」
「今言ったの誰だ。名乗り出ろ」
お前か、勘の良いオタク。
「真白さんに可愛がってもらえるなら、俺は人間やめてもいいなぁ」
「わかる。彼女になんて絶対無理だろうし、せめてご主人様になってほしい」
「ご主人様に⁉ ……って、ああぁぁ、もうっ! 変なこと言わないでくださいっ!」
教室の隅でコソコソと話していた男子に過剰反応し、頭を抱える真白さん。
もうボロがボロッボロにこぼれてしまっている。このままだと男子達が真白さんをご主人様と崇め始め、教室がわんちゃんで溢れてしまいかねない。
噂好きさんも若干引いた顔をしている。好き勝手言っている男子はどうでもいいが、俺と、ついでに真白さんの名誉は守らなければならない。
俺は小さく息をはき、考えをまとめてから席を立った。
「真白さん……と、えっと……そこの噂好きさん」
「南だけど。クラスメイトの名前くらい覚えなよ」
真白さんと南さんが俺を見る。背中にもたくさんの視線を感じるのは、きっと気のせいではないだろう。
真白さんは知恵熱でも出しそうなくらい顔を真っ赤にしながら、潤んだ瞳で俺を見た。
放置してたらその表情にやられた男子が「俺をわんちゃんにしてください!」と這いつくばり、真白さんが頭を踏んづけてしまうだろう。
「俺が真白さんとご飯を食べていたのは、真白さんが拾った捨て犬……わんちゃんの相談を受けたからだ」
「黒川君がわんちゃんだって言ってたよ、真白さんは」
「人間が犬になるわけないだろ。頭おかしいのか」
後ろから「デュフフ。拙者、真白氏のためなら犬になって、お手でもちん〇んでもしましょうぞ」とか聞こえてきたけど、誰も反応しなかった。
「真白さんが飼えないから、一緒に里親になってくれる人を探したんだ。引き受けてくれそうな友達にも心当たりがあったからな」
「……黒川君、友達いたんだ? いつもひとりで居るからぼっちが好きなのかと」
さっきから「わんちゃん」だの「ぼっち」だのと……俺だって傷つくんだが?
「……で、その件で話があるから、今日もお昼一緒していいよな? 真白さん」
引きつった顔を強引に笑顔に変えて、俺は圧をこめて真白さんを見る。
彼女はびくんと肩を跳ねさせたが、もう顔を背けたりはせず、静かにコクリと頷いた。




