29話 お嬢様は破り捨てる
「私はたくさん勉強をして、立派な大人になりたいと思います」
将来設計の発表会。教壇に立った私――真白妃奈の声は、思ったよりも大きく響いた。
何度も、何度も、耳の奥でジンジンと。この教室にはたくさんの人が居るのに、まるで空っぽであるかのように。
あるいは、空っぽなのは私なのかもしれない。
私の中の空洞に、飾り立てられた言葉が反響する。
「まずは国立大学の経済学部を目指します――」
みんなの視線が私に集まる。
目が合うと小さく手を振ってくれる、好意的な視線。
発表そっちのけで顔や身体に注がれる、無遠慮な視線。
つけているだけのテレビ番組を流し見るような、ぼんやりとした視線。
視線を浴びることには慣れている。新学期の自己紹介の時も、ただ街を歩いているだけの時も、いつもたくさんの人が私を見てきた。
ショーケースの中のお人形を眺めるように、好奇の眼差しを向けてきた。
今もそうだ。教室のみんなが私を見ている。だけど、私の言葉に興味を持ってはいない。
「経済学を学ぶのは、就職して役に立つと思うからです」
でも、仕方ないことだと思う。
私の発表には熱がない。空っぽな私が何を言ったって、届くわけがない。
そう思うのに、なんでなの?
なんで君は、君だけは、そんな目で私を見るの?
何もかもを見透かすような目が、私を捉えて離さない。
ねぇ凛音君、知っていますか? 心の奥を覗き込むようなその瞳が、最初怖かったことを。
私が大した価値もない、見た目だけの女だけだって知られてしまいそうで、逃げ出したくなっちゃうことを。
「経済の仕組みを知ることで、早く社会の一員に――」
君だけじゃない。かのんちゃんに「また来て」と言われた時もそうだった。
私は逃げたくなった。私にはなんの価値もないのにって、なにもしていない私を求めるなんて間違ってるって、そう思ったから。
私は私が大嫌い。私は空っぽだから。誰かの言いなりになって、誰かのためにしか生きれないから。
「一杯努力して、社会の役に立てるように――」
誰かの、役に。
……誰かって、誰? その誰かは一体どこに居るの?
……社会って、何? 私はなんの役に立ちたいと思ってるの?
分からない、分からないよ。
訳も分からない存在のために役に立つ……それって本当に必要ですか?
そういう風に思ってしまうのは、私がまだ子供だから?
「……」
もし社会という存在が、知りもしない「誰か」の集まりだと言うのなら、私なんかの手が必要ありますか?
自分の力が必要だなんて、傲慢じゃないのかな。目的意識もないくせに人を助けるなんて、上から目線じゃないのかな。
みんな勝手に幸せになればいいじゃん。顔も知らない人まで幸せにするなんて、私にそんな余裕はないんだから。
目の前で寂しそうにしてるたったひとりの子供にすら、私は声を掛けてあげられなかった。そんな私に何ができるって言うの?
たくさんの知らない誰かより、私は目の前に居てくれる人の笑顔が見たい。
ちっぽけな願いだって笑われるかもしれない。それでもこれが、私の手が届く精一杯なんだから。
顔も知らない誰かより、私は私を幸せにしたい。
目の前に居てくれる人にも、笑っていてほしい。
みんながそう思えれば、みんな幸せになるんじゃないかな。お母さんから貰った「幸せになる未来の設計図」なんて、なくったってさ。
「……」
いつの間にか私は黙り込んでいたみたいだ。みんなの瞳に困惑が浮かんでいる。
それでもしっかりと、私を見てくれている君と目が合った。だから「大丈夫」だよと微笑んでみたけれど、少し硬かったかもしれない。かわいいって、思ってくれたらいいんだけど。
彼以外の視線を拒絶するように、私は背を向ける。
後ろには黒板。貼られた模造紙には、社会という顔のない怪物に奉仕する私。
「……こんなの――」
これが「幸せになる未来の設計図」だというのなら――。
「――もう、いらないっ!」
模造紙の端を掴み、力いっぱいに引き裂いた。
時間をかけて編まれた「将来」が、稲妻のようにひび割れていく。
先生の唖然とした顔が視界の端に映って、頬が緩んだ。ガラスケースのお人形が動いたんだもん、仕方ないよね。
鋭い紙の裂ける音。指先に鋭い痛みが走って、見ると血の粒が膨らんでいた。
「……なんだ。空っぽじゃないじゃん、私」
独りごちた声は、静寂に包まれた教室の中で響くことなく、落ちていく。
*
紙を裂く音が悲鳴のように聞こえ、俺――黒川凛音は目を瞠った。
教室は困惑に包まれる。眠そうに腕を組んで座っていた先生は、その光景にただただ呆然としていた。
妃奈が振り返る。銀の髪を翻し、手に持っていた模造紙の一部をぽいと床に放って。彼女の口元には、見たことのない楽し気な笑みが浮かんでいた。
「――さっきまでの話、全部なかったことにしてください」
すっと、上品なお辞儀をひとつ。それだけで教室は落ち着きを取り戻し、彼女の言葉を待った。
あれは本当に、妃奈なのだろうか。俺の知っている妃奈は、自己主張の強くない少女だ。
少し抜けたところと強烈に変な趣味はあるけれど、決して集団の輪を乱すことはせず、目立つ容姿をしていながら溶け込むことがうまい女の子だった。
なのに、これはなんだ?
「将来設計を作る時、たくさん悩みました。一度はこれでいいと、これが正解だと思おうとしましたが――やっぱり違ったみたいです。皆さんの大切な時間を浪費させてしまい、申し訳ありません」
妃奈のことが分からない。だからこそ、目が離せない。
「社会の役に立ちたいなんて、そんなだいそれた願いを私は持っていません。ただ私は幸せになりたい。でもなにが幸せなのか分からなくて……『社会奉仕』という安易な言葉に飛びついてしまいました」
教室中が、妃奈を見ていた。
「ですが、分かったんです。私は社会ではなく――目の前に居る誰かを幸せにしたい」
力強く語られる言葉に、みんなが聞き入っていた。
「知らない誰かじゃなくて、見えもしない社会なんかでもなくて。今ここに居る『君』のために、私を見てくれている人のために生きたい。……もしかしたら、こんなの子供の言うことだって、笑われるかもしれない。それでも、これが私の偽らざる本音なんです」
俺は緩む口元を、手で隠した。
バカにしたわけじゃない。彼女の発言がどんなにお粗末で、とても『将来設計』だなんて言えないものだとしても、バカにできるはずがない。
高揚か、恥じらいか。妃奈は頬を真っ赤に染めながらも、楽しそうに瞳を輝かせている。
完璧に準備されてきた模造紙は見る影もなく、もはや発表の体を成してはいない。それでも言葉は、止まらない。
「社会なんて分からないし、自分の人生を思い通りに生きることすらできない私が……将来設計なんてできるわけないんです。きっとこれから、お母さんとたくさん喧嘩すると思います。もしかしたら大学にすら行けなくなるかもしれない」
妃奈は胸に置いた手をぎゅっと握り、言った。「それでも」と。
「私は自分の足で歩きたい。お飾りの人形のままは……いやなんです」
一瞬迷うように、妃奈の視線が教室を泳ぐ。そして――。
「自分の将来は自分で選びたい。例えそれで、傷ついたとしても」
――青い瞳が、俺を捉える。
「その第一歩として、この場を借りて伝えます。……涼しい顔をして、さっきから高みの見物を決め込んでいる、黒川凛音君に」
急に名前を呼ばれて心臓が跳ねた。
クラスの視線が、音がしそうな勢いで妃奈から俺へと移る。
妃奈はそんな様子を眺めながら、悪戯が成功した子供のようにクスッと笑った。
「私を悪い子にしたのは君ですよ、凛音君。とぼけたような顔をしたってダメです。こうなった責任……取ってもらいます」
背中に冷たい汗が流れた。
女子は「責任」という言葉に好奇の視線をよこし、男はなぜか「悪い子」に反応して騒ぎ出す。空気になっていた先生まで俺を凝視しているのはなんなんだ。
「……何かを選ぶことが、こんなに怖いなんて知りませんでした。逃げ出したいのに、足が震えて動けそうにありません。熱が出たみたいに、クラクラします」
真っ赤な頬。俺を見る潤んだ瞳。明らかにおかしい妃奈の様子。
あれ、これはまずいのでは?
「しっかり者に見えてだらしない君を、放っておけませんでした。私に興味ない振りをして、実はえっちな君に頭を抱えました。身勝手に見えて、いつも私のことを考えてくれている君に救われました」
「ひ、妃奈……」
「いつの間にか傍にはいつも凛音君がいて、君の瞳が私を映してくれることがすごく、すっごく嬉しくなっていました」
青い瞳は揺らがずに、俺を捉え続ける。
「――これからも私を凛音君の傍に置いてください。それが私の最初の選択で、願いです」
女子の歓声と男子の悲鳴が交差する。突然のことに妃奈はびくりと肩を跳ねさせ、困ったように周りを見渡した。
ぽかんとした顔しやがって。妃奈はきっと、勢いのままに自分の気持ちを伝えただけだ。
だから分かっていない、今の言葉が愛の告白にしか聞こえないことを。
紙を破るなんて大胆なことをやらかしたが、妃奈に公開告白なんてする度胸も必要もないはずだ。「好きです」とか「付き合ってください」なんて決定的なことを口にしてないし、そんな気もなかったんだと思う。
とはいえ……。
「黒川くぅ~ん。お返事はぁ?」
「黒川てめぇ……明日まで生きれると思うな」
「えっと、あの……皆さん?」
悲喜こもごもの声の中で、妃奈は困惑を深めている。みんなが俺の返事を待っていた。
「……えぇ~」
イエスかノーの二択。
妃奈の傍に居るというのに異論はないに決まっている。女王様ごっこを通して、本当の自分をみつけるという目的は達成していない。
それが無くても、彼女とは深く関わり過ぎてしまった。今更縁を切るなんてあり得ない。
俺が押し倒してから開いてしまった距離を埋め、元に戻る。妃奈が望んでいるのはそういうことだと思う。
だから当然イエスなのだが――それを言ってしまうと、俺と妃奈が付き合ったとみなされるだろう。
俺たちの関係は女王様と犬だ。彼氏彼女なんて関係を望んでいるとは思えない。
ここでイエスと言えば噂は一瞬で広まり、俺達は全校生徒公認の恋人になってしまうだろう。
そんな空気ができてしまえば、妃奈は今度こそ抗うことをやめて流されるかもしれない。
なにより俺は、妃奈のことを……どう思っているのだろう。
「妃奈」
「は、はい」
目が合う。妃奈の息を呑む気配が伝わってきた。
緊張しているのだろう。初めての自己主張だ。彼女の小さな身体の中で、心臓がはち切れそうな程大きな音を立てているのかもしれない。
俺は少しでも緊張を解いてもらおうと、柔らかく微笑む。妃奈はそんな俺に、どこか安心したように微笑み返し――。
「とりあえず、保留で」
その表情を凍りつかせた。
「おい黒川、てめぇっ‼」
「黒川君あり得なくない? マジ最低なんだけどぉ~」
今までの興奮が失望と妬みに取って代わり、罵声の嵐が降りかかる。
「ま、まてって! まずは話を――」
そう、妃奈と話をしないといけない。
お互いが何を思っているのかをすり合わせて、それから――。
「……ッ。凛音くんのっ……」
地獄の底から這い上がってくるような声に、全員の動きがぴたりと止まった。
今の声、まさか妃奈さん……?
「凛音君のっ、りおんくんのっ――」
教壇の上で肩を震わせていた妃奈が、涙の溜まった目でキッと俺を睨んだ。
「りおん君のっ……ドスケベ発情犬んっつ‼」
教室に、鞭で打たれたような音が響いた。
怒りに任せた妃奈の細腕から発射された彼女のスリッパが、俺の顔面にクリーンヒットしたのだ。
ゆっくりと、俺の顔から剥がれ落ちていくスリッパ。
暗転する視界。
どこからか聞こえた「ぶひっ、我々の業界ではご褒美でござる」という声を子守歌に、俺の意識は遠ざかっていった。




