27話 お嬢様とお散歩
「黒川先輩、真白先輩、今日は本当にありがとうございました!」
こども食堂が終わり公民館から出ると、赤坂が大袈裟に頭を下げてきた。
「こっちこそ色々教えてくれてありがとう。案外楽しかったよ」
「先輩、彩美ちゃんとずーっと一緒に居ましたもんね。ああいう子がタイプなんですか?」
顔をあげた赤坂がにやりと笑う。ボランティアが終わったと思えばすぐこれだよ。
彩美さんの勉強がずっと終わらなかったんだから仕方ないだろ。他の子はだいたい妃奈や赤坂の方に行ったし。
「面倒見がよくて断らないのが、凛音君のいいところですもんね」
そう言って穏やかに微笑む妃奈。……その右のつま先は、モジモジと恥じらうように地面を踏みしめている。
俺は妃奈の足が届かない距離までそっと離れる。
「真白先輩は大人気でしたね。お疲れじゃないですか?」
「とても充実していました。今日はよく眠れそうです」
「良かったらまた参加してくださいね。子供たちが喜びます。黒川先輩もぜひ、中学生の一部の女の子が喜びますので」
「えらく限定的だな」
「それでは気をつけて帰ってくださいね。時間も遅いので、真白先輩は黒川先輩に送ってもらってください」
「もちろんです、たまにはお散歩もしたいと思ってました」
リードを持つような手振りをするな。
「赤坂は送らなくていいのか?」
「私はすぐ近くなので大丈夫です。ダイエットついでに走って帰りますよ。それではまた、学校で!」
そう言うと、赤坂は本当に走り出す。角を曲がる直前でこちらを振り向き、大きく手を振ってくる。
俺達も小さく手を振り返すと、彼女はにこりと笑って角を曲がっていった。
「さて、たまにはお散歩しましょうか。わんちゃんには必要でしょう?」
「……こども食堂でわんちゃん発言はやめとけ。かのんちゃんも引いてたぞ」
「そうですか? みんな笑顔だったと思いますけど」
こてんと首を傾げる妃奈を置いて、俺がさっさと歩き始める。慌てたような駆け足の音は、すぐ後ろから横へと並んだ。
時刻は午後八時過ぎ。暗くなった空に住宅街の灯りが映る。四月の夜風は冷たくて、隣を歩く存在を無意識に意識させた。
遠くで聞こえるテレビの音。雑多な沈黙。横目に見る肩が遅れないよう、俺は密かに歩幅を合わせる。
「――ねぇ、凛音君。私ね」
妃奈は前を向いたまま、ぽつり。
「また来てって、言われちゃいました」
言葉を返さず、続きを促す。
「今回だけのつもりだったんです。凛音君が誘ってくる意味がわからなくて、行ってどうなるのって思ったんですけど。でも一応は私のことを考えてくれてるみたいだから『一度くらいは口車に乗ってあげましょう』って思って……」
「ありがとな、来てくれて」
「正直、気乗りはしませんでした。でも、中途半端な態度だと子供たちや関わってる皆さんに悪いですからね。赤坂さんも真剣でしたし、私もがんばろうって思ったんです」
「妃奈らしいな」
「でも私、全然大したことしてません。ずっと食材を切り続けて……スタッフさんは上手だって褒めてくれましたけど、あんなの遊びに来てた小学生の子だってできますよ。絵本を読むのだってそうです。誰でもできることです」
妃奈が自分の胸に手を当てる。
――ママが居ないとね、ここがきゅって痛いの。
泣きそうな顔でそう言ったかのんちゃんの姿が、重なって見えた。
「だから思ったんです。『私じゃなくてもいいじゃん』って。また行けば喜んでくれるのかもしれないけれど、行かなくても他の人がその穴を埋めてくれます。それで変わることなんて、切った野菜の形がちょびっと変わるくらいで」
妃奈の顔に陰が落ちる。
「かのんちゃんだって、私のことなんかすぐに忘れるんだろうなって思っちゃうんです。あの子の言葉を、気持ちを……全然信じてあげられませんでした」
「……」
「私はいやなやつなんです。スタッフさんが『いい子にしてたら、また来てくれる』って言ったとき、私は何も言ってあげられませんでした。それが大人にとって都合がいいだけの言葉だって、分かっているのに。いい子にしてたって、願いが叶うどころか……自分の欲しい物すら分からなくなるだけだって、知っているのに……」
夜道を埋めるように淡々と、胸の中の重いかたまりを吐き出すように。
妃奈は話し続けている間、一度も俺を見なかった。
道の先に固定された瞳は怯えていて、俺がどんな顔をしているのか、映そうとはしなかった。
「誰でもいいじゃないですか。食材を切るのも、絵本を読むのも。私じゃなくてもいいじゃないですか。……いえ、違います。私じゃない方がいいんです。私なんかよりもきっと、ずっとずっといい人が――」
「妃奈」
続きを遮るように、彼女の名前を呼んだ。
「……っ!」
掴んだ温もりが、震える。
妃奈の恐怖に染まっていた瞳が、やっと俺を映した。
いきなり過ぎだったとは思う。また怒られるかもしれない。
それでも俺は妃奈の手を強く、強く握り締めた。
小さな手は握り返そうとも、離れようともしない。ただ力が抜けていくのを感じた。
「誰がやっても変わらないことなんて、ないんじゃないか。俺は妃奈の作った料理が好きだ。気付いてるからな。俺のために作ってくれる料理は、いつも俺の食べやすい大きさに切ってくれてるんだって」
「凛音君……」
「かのんちゃんのことだって同じだよ。今日あの子の傍に居てあげられたのは、他でもない妃奈なんだ」
「それは、そうですけど……」
「子供でもできる仕事だったとしても、それをしたのは妃奈だ。絵本なんて誰でも読めるかもしれないけど、読んだのは妃奈だ。今日かのんちゃんを笑顔にしたのは、他でもない、妃奈なんだよ」
「だけど、代わりはいくらだっています。私じゃなくたって……」
「結局さ、俺たちの小さな手じゃ……目の前の人に届けるだけで、精一杯なんだ」
子供の頃の俺は、母さんの笑顔を見れれば十分だった。最初はそれだけだったのに、動画を見た人のコメントを見れば見るほど、『喜ばせないといけない人が』増えていった。
両手いっぱいに広げて、痛くて痛くて千切れそうになって――それでも増えていく『喜ばせないといけない人』の数に悲鳴をあげて、限界になる。
そうして最後は、溢れて零れていった。母さんも、父さんも。
「今ここに居る人に優しくする。それはここに居ない誰かには、絶対できないことだろ」
「……」
「最初は大勢の中の誰かでもさ、積み重ねた思い出が特別に変えていくんだ。……俺たちだってそうだろ」
「私達が、ですか?」
「妃奈が女王様の衣装を買おうか悩んでるのを見た時は衝撃的だった。清楚代表みたいな顔しておきながら、なんて趣味を持ってるんだって。その後変な趣味に巻き込まれるしさ」
「そ、そんなの今言わなくても……」
慌てて俺から離れようとする妃奈。その手を強く握り、俺は言葉を続ける。
「だけどさ、今ではあの時みつけたのが俺で良かったって思ってる。他の男子がみつけて、妃奈が今俺に接してるように、その男に接しているのを想像したら……嫌な気持ちになる」
妃奈は俯き黙ったままだ。繋がれた手が、仄かに上がった彼女の体温を教えてくれた。
「……つまりさ、俺が言いたいのは、人間どう転ぶか分からないってことだ。目の前に居た子が『妃奈が一緒で嬉しい』って笑うなら、素直に受け取っておけばいいだろ」
「……ひとつだけ、訂正させてください」
「ん?」
「あの日衣装を選んでる私を他の男子がみつけたとして、凛音君とやっていることをその人とするなんて思われているのは心外です。私にだって、わんちゃんを選ぶ権利はあります」
そこかよ。
「他の男子達は、みんな下心が見え透いてますもん。一緒に居ても安心できません。凛音君だから……いいかなって思ったんです」
「それは光栄です、女王様」
「まぁ、消去法みたいな感じではありますけど」
「喜んで損した」
「だって、結局凛音君もむっつりでしたし。私のこと押し倒しましたし」
妃奈は悪戯っぽく笑う。俺を覗き込む目は楽し気で、もう怯えの色はなくなっていた。
「……最初は仕方なくでも、積み重ねた思い出が、特別に変えていくのなら――」
隣を歩いていた妃奈の足が、止まった。
「ねぇ、凛音君――」
数歩遅れて俺も足を止め、後ろを振り返る。
青い瞳と、目が合った。
「――真白妃奈は、黒川凛音の、特別ですか?」
それは、風に掻き消えてしまいそうな儚い声で。
だけど、心臓を鷲掴みにするような重い言葉だ。
視線が絡み、胸を打つ鼓動の音が、静寂を掻き消していく。
月下のふたり。昔の文豪のように気の利いた言い回しなんか、思いつかず――。
「――ああ、真白妃奈は特別だ」
率直過ぎる、精一杯の言葉。真白さんの顔を見れず、俺は視線を逸らした。
繋がれたままになっていた手が、強く握り返してくる。
それはとてもぽかぽかとしていて、優しい温もりだった。




