18話 女王様との決別
「……どうぞ」
妃奈は床に倒されたまま無防備に目を閉じた。
感情も思考も読みとれない、作り物のような表情に寒気がした。
男に押し倒されていながら、なんでそんな顔ができるのか。
「どうぞってお前……分かってるのか? ここで許すってことは、そういうことだぞ」
「……」
「いいのかよ、好きでもない男に触れられて」
「好きでもない、か。……そうですね、私は凛音君を好きだとは言えません。キラキラとした言葉で装飾していいような、綺麗なものではないです」
彼女はゆっくりと瞼を持ち上げ、
「でも、したいんですよね? 凛音君が」
青い瞳の視線が絡んだ。
「っ!」
冷たいものが背筋を走った。
俺は確かに、妃奈に自分の意志を示して欲しいと思った。だけど、これは、こんなのは――。
「違うだろ……」
俺が見たかったのは、人形から脱却してみせようとする妃奈だ。偶像の俺と一緒に、今の自分を変えようとする妃奈だったはずだ。
だからこんなのはおかしい。人形になると宣言されたようなものだ。これでは幸せになることを放棄したようなもので――、
「……ああ、そうか」
「……凛音君?」
妃奈が俺の表情を見て、訝し気に眉をひそめた。
間違っていたんだ、俺が。ひとり勝手に期待して、勝手に失望しただけだったんだ。
俺は自分のために、妃奈を利用しようとしていた。彼女のことを人形にしようとしたのは――他でもない俺だった。
「……」
力が抜け、危うく妃奈の上に倒れこみそうになった。
彼女の手首を抑える手も形だけになっている。今なら簡単に俺を押しのけられるのに、妃奈は組み敷かれたまま俺を見つめていた。
「……悪かったな、怖がらせて」
彼女の身体に触れないよう慎重に身を引き、俺はベッドの上に乱暴に座った。
妃奈は戸惑った顔をしていたが、俺にその気がなくなったのだと気付くと、胸元を片手で抑えながら静かに身を起こした。
「……いいんですか?」
床に座り、スカートの裾を正しながら、妃奈は俺を見る。
「真白さん――に、勢いで手を出したなんてクラスの連中に知られて見ろよ。明日から学校に行けなくなるだろ」
いつもの調子を意識して軽口をたたいてみるが、妃奈――真白さんは眉をひそめるだけだった。
きっと名字を強調したのが気に食わなかったからだろう。
だけどこれでいい。これ以上近づけばきっと、俺は真白さんを傷つけてしまうから。
「……あの、私……なにか間違えましたか?」
「は?」
真白さんがピクリと肩を震わせる。聞き返しただけの声が、やけに鋭くなってしまった。
「……なんで、そう思うんだ?」
「凛音君はさっき、私を求めていました。それが急にやめたってことは、私がいらなくなったってことですよね。私なにか変でしたか? いえ、たくさん変なとこはあると思いますけど、でも……機嫌を損ねたなら、謝りますから――」
……おかしいだろ。なんで自分を責めるんだ。
「何も間違ってないよ。真白さんはなにも」
悪いのは全部、俺なんだから。
「……」
青い瞳から逃げるように、窓の外に視線を移す。
見慣れた景色が茜に色づき、組み敷いた真白さんの頬の色を思い出させる。
あのまま陽が落ちるまで、ふたりだけの時間を貪る選択肢もあったかもしれない。
だけど、そうして手に入るのはただの「お人形」だ。
さっき掴んだ手は、異常なほどに冷えていた。短い付き合いだったけど、顔を真っ赤にしたり怒ったり、血の通った温かな表情を見せてくれた真白妃奈のものとは思えなかった。
だから、これでいい。俺は母さんとは、違うはずなんだから。
「もう暗くなるから帰りなよ。あまり遅いと親も心配するだろ」
今更常識人ぶっている自分に、息が詰まる。
「…………着替えてきます」
床が軋む。真白さんが立ち上がる音が、耳の中で反響する。
洗面所の音がして、真白さんが中に入ってから俺は深くため息をついた。
真白さんが無防備過ぎたとか、衣装が刺激的過ぎたとか色々思うところはあるが、全部ひっくるめて今回は俺の責任だ。
これからどんな顔で真白さんと接したらいいんだ。明日も同じ教室にいるんだぞ。
「……クラスで付き合って破局したやつら、すごく気まずそうだったな」
あの時はバカバカしいと思っていたけど、今では気持ちが良く分かる。というか、今回は俺が一方的に暴走しただけなんだからもっと悪い。
同情の余地なんてない。女子達に蔑むような目で見られるかもしれない。
いや、他の女子のことなんてどうでもいいんだが。
「この奇妙な関係も、もう終わりか」
真白さんの変な憧れから始まった関係。センシティブな行為のわりに子供のごっこ遊び並みのクオリティで、だけど悪くはなかった。
本当の自分をみつけるために協力していたのは事実だけど、それ以外にも彼女の手料理を食べられたり、ズレたことでも一生懸命になる真白さんを見るのは楽しかった。
そう、楽しかったんだ。
「……きっとこの楽しいって感情が、本物の感情ってやつだったんだろうな」
偽物なら、終わってから後悔なんかしない。
終わらないと本物かどうか分からないなんて、皮肉な話だ。
「あの、着替えました……」
扉の開く音に釣られて目を向けると、いつもの制服姿に戻った真白さんがおずおずと洗面所から出てきた。
「あ、ああ……」
「衣装は洗ってからお返ししますね。手洗いしかダメみたいなので……」
また着る機会があるのだろうか。あったとしても、それは俺の前ではないのだろう。
「それではお邪魔しました。また明日――」
「真白さん」
玄関へと向かう背中を呼び留めると、ぴくりと肩が震えた。
振り向いてはくれない。それでも足を止めてくれたので、俺はベッドから立ち上がって頭を下げた。
「今日のことは全部俺が悪かった。ごめん」
「……」
返事はない。俺の言いたいことも他にはない。だから会話は終わりだ。
真白さんもそのことに気付いていると思うが、俺に背を向けたまま立ち止まっている。
もしかして謝ったことが気に食わないのか。それとも罵倒する内容でも考えていたりするのか。
沈黙を守る銀の髪を見つめながら、俺は彼女の動きを待った。
「……芯のある強い女性になりたくて、凛音君にはたくさん協力してもらいました。……なのにこんなことになって、いったいどうすればよかったのか……私には分かりません」
「……」
「凛音君に頼ってばかりだったから、さっきも凛音君のしたいことをさせてあげるのが正しいのかなって、そう思って……だけど、違ったんですね」
潤んだ声が、しゃくりあげる声へと変わる。
言いたいことはたくさんあった。だけど何も届かない気がして、俺はただ口を噤むしかできなかった。
「凛音君は優しいから、乱暴にふるまっているようで、ずっと私のことを気遣ってくれていたのが分かりました。だから身を任せてもいいって思ったんですけど……それが悪かったんですよね」
一歩、二歩。彼女の足が玄関へと向かう。飾り物のような銀の髪が、心細そうに揺れた。
「ごめんなさい。凛音君が私は悪くないって言っても……私はそうは思えません」
開く玄関から見えた外は、もう暗くなっていた。
廊下の灯りがチカチカと点滅を繰り返し、それもお行儀の良い扉の閉まる音と共に見えなくなる。
残されるのは、いつだって俺ひとりだ。




