第八話 複利の聖女
王都の大聖堂は、朝の光で満ちていた。
高い窓から射し込む光が、白い石の床に色とりどりの模様を落としている。その光の中に、粗末な身なりの女たちが、肩を寄せ合って座っていた。夫を戦で亡くした女たち。孤児院の院長たち。小さな店の女房たち。
祭壇の前に、聖女リリアが立っていた。
「皆さま、ようこそおいでくださいました」
柔らかな声が、高い天井に響いた。
「今日は、祝福債のことを、少しだけお話しさせてください」
リリアは、一枚の紙を掲げた。祝福債の証書だった。聖女の印と、大聖堂の紋が刷られている。
「証書には、一年ごとに二割の利息と記されております。金貨十枚の祝福債なら、一年で金貨二枚」
女たちが、小さくうなずいた。そこまでは、皆が知っている話だった。
「では、その二枚を受け取らずに、そのまま祝福債に替えておいたら、どうなるでしょう」
リリアは、少しだけ間を置いた。
「二年目には、十二枚に、また二割の利息がつく。そういう仕組みでございます。利息にも、また利息がつくのです。十年、持ち続けたなら、金貨十枚の祝福債は、六十枚を超える計算になります」
聖堂がざわめいた。
前のほうに座っていた年老いた女が、思わず口元を押さえた。後ろの列で、誰かが指を折って数えはじめた。
「祝福は、祝福を生むのです。お金が倍になるまでの年数は、七十二を利息の割合で割れば、おおよそ分かります。二割なら、三年半あまり」
リリアは、静かに微笑んだ。
その横で、大司教ヴァルターが一歩前に出た。
「祝福債には、聖なる加護がある。神の御名において、決して損なわれることはない」
続いて、祭壇の脇の椅子から、金の髪の青年が立ち上がった。王子セドリックだった。
「王家もまた、祝福債の利息を保証する。民の皆よ、安心して聖女の祝福を受けるがよい」
女たちが、涙ぐみながら手を合わせた。
最前列で、ひとりの若い母親が、おずおずと手を挙げた。腕の中で、赤子が眠っている。
「聖女様……本当に、損は、しないのでしょうか」
リリアは、母親の前まで歩み寄った。そして、眠る赤子の額に、そっと指を触れた。
「わたしは、毎日、祈っております」
母親の目から、涙がこぼれた。
◇
説法を終えて控えの間に戻ると、リリアはひとりで窓辺に立った。
聖堂の扉の前に、祝福債を買い求める女たちの列ができていた。
利息に利息がつく。
この世界の人々も、それを知らないわけではない。高利貸しが証文を書き換えるときの、汚い手口として。けれど、それを夢として売った者はいない。だから、十年で六倍、という数字を見せるだけで、目の色が変わる。
七十二で割る、という勘定も、この世界の誰も知らない。前の世界では、金融の教科書の最初の数頁に載っていた。
リリアは、窓の硝子に映る自分の顔を見た。
わたしは、一度も嘘を言っていない。
二割の利息は、払っている。新しい買い手が払った金で。利息に利息がつく仕組みも、本当のことだ。十年持ち続けたなら、という計算も。ただ、十年続くとは言っていない。祈っているのも、本当だ。
ただ、誰も、何に祈っているのかを聞かないだけ。
◇
扉を叩く音がした。
入ってきたのは、王都の商会ギルドの長だった。恰幅のいい男で、祝福債の扱いでこのところ懐を太らせている。
「聖女様。お耳に入れておきたいものが」
男は、一束の紙を差し出した。
「南の港町ヴェルムで、妙な市が立ちましてな。うちの番頭が出入りしているのですが、そこの決まりごとの写しです。王都の商人の間で、ちょっとした評判になっておりまして」
リリアは、紙束を受け取った。
規則書、と表に書いてあった。
一枚目をめくる。
――この木の下での取引は、すべて公の秤で量る。売り手と買い手が値を決めて取引が成ったら、その値をその場で板に書いて掲げる。
――売り買いが成ったときは、売り値の百分の一を、手数料として盟約に納める。
二枚目。
――この規則書を改めるときは、二十四人の全員が同意しなければならない。
三枚目。積荷の保険。手形の扱い。
リリアの指が、紙の上で止まった。
――詐取した資金で振り出された手形は、振り出しの時点にさかのぼって無効とする。ただし、事情を知らずにその手形を受け取った者には、盟約が券面の金額を支払う。
「聖女様?」
ギルドの長が、怪訝そうに声をかけた。
リリアは、答えなかった。
この並び方を、知っている。
取引を公の場に集め、値を掲げる。手数料を定め、規則の改正を縛る。手形の券面に規則を及ぼし、詐取された資金を遡って無効にする。
これは、市の決まりではない。
取引所の規則だ。
それも、この世界のものではない。あちらの世界で、何百年もかけて、何度も破られては書き直されてきた規則の、骨組みそのものだった。
リリアは、無効の条文をもう一度読んだ。
詐取した資金。
祝福債は、王国の法で認められた債券だ。大聖堂が発行し、王家が利息を保証している。詐取ではない。この条文が、わたしの祝福債に届くことはない。
それでも、リリアは、その条文から目を離せなかった。
最後の一枚に、署名が並んでいた。
二十四の名前。商人らしい名前、魚の絵の印。その中に、ひとつだけ、家名のない名前があった。
エレオノーラ。
リリアは、長いことその名前を見ていた。
それから、紙束を胸に抱いて、小さく笑った。
「……市場、作ったのね」
◇
その日の夕方、王宮の回廊で、リリアは騎士団長とすれ違った。
ルーカスは、南から戻ったばかりらしかった。黒い騎士服の裾に、まだ街道の土埃がついている。
「騎士団長様。お帰りなさいませ」
ルーカスは足を止め、短く頭を下げた。
「港町は、いかがでしたか」
「賑やかだった」
「エレオノーラ様は、お元気でいらっしゃいましたか」
ルーカスの目が動いた。
「元気だった」
「……そうですか」
リリアは、胸の前で手を組んだ。
「わたしは、あの方のことを、毎日思い出しております」
そう言って、リリアは一礼し、回廊の奥へ歩いていった。
回廊の角を曲がる前に、リリアは一度だけ振り返った。
騎士団長は、まだそこに立っていた。緑の目が、まっすぐにこちらを見ていた。何も言わずに。
リリアは微笑んで、角を曲がった。
◇
ハンスが王都から戻ってきたのは、それから五日後のことだった。
「いやあ、王都はすごいことになってますよ、お嬢さん」
両替商の店先で、ハンスは興奮気味にまくしたてた。帳場には、王都で仕入れてきたらしい祝福債の束が積まれている。
「聖女様の説法を聞いてきたんですがね。いや、ありがたいお話でした。祝福債の利息を受け取らずにそのまま祝福債に替えておくと、利息にもまた利息がつくんだそうで。十年で六倍ですよ、六倍。それに聖女様は、金が倍になる年数は、七十二を利息の割合で割れば、おおよそ分かるとおっしゃって」
わたくしは、帳場に置きかけた手を止めた。
「……利息にも、利息が」
「ええ。聖女様は、祝福は祝福を生む、と」
わたくしは、隣に立っていたグリムを見た。
「グリム。七十二で割る、という勘定を、聞いたことがありまして?」
グリムは、しばらく黙っていた。
「……ない」
やがて、グリムは言った。
「利息に利息を乗せるのは、高利貸しが証文を書き換えるときの手口だ。だが、それを売り文句にした者は知らん。七十二で割る、などというのも聞いたことがない」
わたくしは、店の外に出た。
壁の通りは、今日も騒がしかった。鈴懸の木の下で、マルタが秤の前に立っている。板に書かれた今日の値段を、王都の商人たちが見上げている。
七十二の法則。
あちらの世界の金融の教科書の、最初の数頁に載っている計算だ。前の人生のわたくしは、それを暗算で使いながら、何億という金を動かしてきた。
この世界の誰が、そんなものを思いつく?
聖女リリア。
わたくしは、あの広間の光景を思い出していた。恨んではおりません。あの日のことは、一生忘れません。美しく、正確で、何ひとつ許すとは言っていなかった言葉。
なるほど、と思った。
あれは、詐欺師の話し方だった。あちらの世界で、わたくしが何度も相手にしてきた種類の。
「……そう」
わたくしは、王都の方角を見た。
「あなたも、あちらから来たのね」
潮風が、壁の通りを吹き抜けていった。鈴懸の葉が、さらさらと鳴った。
わたくしは、扇を開いた。
「ごきげんよう、同業者さん」




