第七話 騎士団長の来訪
ルーカスが港町に着いたのは、帝国の船が一隻、夜のうちに出ていった翌朝だった。
わたくしがそれを知ったのは、鈴懸の木の下だった。
朝の市が立ちはじめた広場で、王都の商人たちが掲げられた板を見上げていた。今朝の鯖は一斤銅貨九枚。塩は一樽銀貨二枚と半。マルタが秤の前に立ち、漁師たちの籠を一つずつ量っている。グリムがその横で、帳面に数字を書きつけている。
その人垣の向こうに、黒い騎士服が見えた。
背が高い。人混みの中でも、すぐに分かった。
「ずいぶんと、賑やかにしたものだな」
ルーカスは、板に書かれた値段を見上げたまま言った。
「おかげさまで」
わたくしは、扇を閉じて立ち上がった。
「お約束どおり、来てくださいましたのね」
「約束をした覚えはない。調べ残したことがあると言っただけだ」
「ええ。存じておりますわ」
ルーカスは、ちらりとわたくしを見た。緑の目は、王宮の広間で見たときと同じように、何も飾っていなかった。ただ、少し疲れていた。夜通し馬を飛ばしてきたのだろう。
「一隻、逃げられた」
「ええ。昨夜、月が出ていましたもの」
◇
ルーカスは、広場の端の石段に腰を下ろした。わたくしは、その隣に立ったまま、市を眺めていた。
「何が目的だ」
しばらくして、ルーカスが言った。
「王都を追われた女が、辺境の港で市を立てる。商人を集め、秤を据え、ギルドを潰す。何のためだ。金か」
「お金も、いただきますわ」
「それだけか」
わたくしは、板に書かれた値段を見上げた。正しい秤で量られた、正しい値段。誰が売っても、誰が買っても、同じ数字。
「この国の帳簿を、わたくしが付けますの」
ルーカスが、わたくしを見上げた。
「帳簿?」
「どこでどれだけの物が採れて、どこでどれだけの値がつき、誰の懐にどれだけのお金が入っているのか。この国には、それを正しく書いた帳簿がひとつもありませんわ。だから、嘘の秤がまかり通る。嘘の値段がまかり通る」
わたくしは、扇の先で広場を指した。
「ここが、その最初の一頁ですわ」
ルーカスは、長いことわたくしを見ていた。
「……大きく出たな」
「悪女ですもの。小さく出ても仕方ありませんわ」
◇
「昨夜出ていった帝国の船について、聞きたい」
ルーカスの声が、かすかに低くなった。
「港の者は、誰も何も知らんと言う。お前は」
「保険を求めませんでしたわ」
「保険?」
「盟約を結んだ晩から、この港を出る船は、盟約の積荷保険に入れますの。荷の値の百分の二を納めれば、船が沈んだときに盟約が荷の損を払う。そのかわり、出ていく前に、荷はすべて公の秤で量って、グリムの帳面に書きつけます」
わたくしは、港の奥を見た。残った一隻の帝国の船が、帆を畳んで泊まっている。
「この港の船乗りは、保険のない船には乗りません。ですから、これからは、ほとんどの船が保険を求めてくるはずですわ。求めてこないのは、積荷を量られたくない船だけ」
ルーカスの目が、港の奥へ向いた。
「……積荷を量られたくない船」
「わたくしに言えるのは、そこまでですわ」
「そこまで、とは」
ルーカスが、ゆっくりと立ち上がった。わたくしより、頭ひとつ高い。
「お前は、もっと知っているな。ローゼンタール伯爵家を潰したのはお前だ。あの家が何をしていたか、知らずに潰したはずがない」
「ええ。存じておりますわ」
「なら、話せ」
「今は、まだ申し上げません」
ルーカスの眉が動いた。
「なぜだ」
「存じているのは、あの家が何をしていたかだけ。証拠ではございませんわ。確信だけで騎士団が動けば、港の奥のもう一隻も、昨夜の船と同じように逃げますの。そして、二度とこの港には来なくなる」
「人の命だぞ」
その声には、怒りがあった。王宮の広間で「お前の罪は本物だ」と言ったときとは、違う種類の。
わたくしは、まっすぐにその目を見返した。
「ですから、積荷を量る決まりを作りましたの」
ルーカスの目が、見開かれた。
「この港の船乗りは、保険のない船には乗りません。保険に入りたければ、荷を量らせるしかない。量らせたくない船は、夜に逃げるしかない。逃げる船の数と日付を書きつけておけば、いずれ証拠のほうから出てまいりますわ」
「……最初から、それが狙いか」
「証拠が手に入ったら――高く買っていただきますわ、騎士団長様」
ルーカスは、しばらく何も言わなかった。
港のほうから、潮風が吹いてきた。広場の板が、かたかたと鳴った。
「……お前は、本当に嫌な女だな」
「よく言われますわ」
◇
その日の午後、ルーカスは部下を連れて、残った帝国の船を改めた。
わたくしは、広場から遠目にそれを見ていた。
船長らしい髭の男が、甲板で両手を広げて何か言っている。騎士たちが船倉に降り、しばらくして上がってくる。ルーカスが首を振る。船長が、にやりと笑うのが見えた。
何も出なかったのだ。
当然だった。荷を積むのは、出ていく夜だけ。それまでは、空の船を泊めておけばいい。
夕方、ルーカスが広場に戻ってきた。
彼は何も言わずに、石段に腰を下ろした。わたくしも、何も聞かなかった。
マルタが、秤の片づけをしながら、ちらちらとこちらを見ていた。グリムは、いつものように帳面をつけていた。
「その手は」
ふいに、ルーカスが言った。
わたくしは、自分の手を見下ろした。指先に、黒いものが染みついていた。昼のあいだ、グリムと帳面を突き合わせていたときのインクだった。
「令嬢の手ではないな」
「帳簿の手ですわ」
わたくしは、指先を扇の陰に隠した。
「お見苦しいところを」
「見苦しいとは言っていない」
ルーカスは、立ち上がった。
◇
ルーカスは、その日のうちに王都へ戻ると言った。
「残りの一隻には、部下を二人つけておく。動けば知らせが来る」
港の門の前で、ルーカスは馬の手綱を取った。
「それから、王都の話をひとつ」
「何かしら」
「聖女の祝福債が、どこへ行っても売られている。孤児院でも、兵舎でもだ。先月、王子殿下が、祝福債の利息は王家が保証すると宣言された」
わたくしは、扇を握る手に、少しだけ力を込めた。
「兵舎でも、と、おっしゃいましたわね」
「部下の半分が持っている。俺は持っていない」
「なぜですの?」
ルーカスは、少し考えてから答えた。
「利息が、高すぎる。高すぎる利息は、どこかで誰かが損をしている印だ。ガキのころ、それで親父が身を持ち崩した」
わたくしは、何も言わなかった。
ルーカスは馬に跨った。
「次に来るときは、お前の手札を買いに来る」
「お待ちしております、とは申しませんわよ」
「知っている」
馬が駆け出す。黒い騎士服が、夕暮れの街道へ小さくなっていった。
わたくしは、しばらく門の前に立っていた。
インクの染みた指先を、扇の陰から出して眺める。
見苦しいとは言っていない。
……そういう言い方は、ずるいと思う。
「エレオノーラ」
背後で、グリムの声がした。振り返ると、帳面を抱えた小さな影が、夕日の中に立っていた。
「今日の手数料だ」
「ありがとう存じますわ。おいくら?」
「銀貨七枚と銅貨十二枚」
わたくしは、わずかに笑った。
それから、帳面を受け取って、市のほうへ歩き出した。
歩きながら、門の前で聞いた言葉を思い出していた。
祝福債の利息は、王家が保証する。
王家が保証する。つまり、祝福債が崩れるときは、王家の金庫ごと崩れる。
「……崩す場所が、決まりましたわね」




