第六話 鈴懸の木の盟約
ボルガの店に差し押さえの札が貼られてから、十日が経った。
壁の通りは、見違えるほど騒がしくなっていた。
オットーの船は約束どおり二隻になって戻ってきた。王都で、ヴェルムの魚は目方が正しいと評判になったらしい。船を追うように、王都の商人が三人、五人と港町へやってきた。魚だけではない。塩も、干し肉も、縄も、王都の値で買っていく。
そして、騒ぎも増えた。
「この塩、昨日は一樽銀貨二枚だったろうが!」
「王都の旦那方は三枚出すって言ってんだ。嫌なら他を当たりな!」
通りのあちこちで、怒鳴り声がぶつかり合っている。値段は日ごとに、店ごとに、相手ごとに変わる。王都の商人は安く買おうとし、港町の商人は高く売ろうとする。秤は正しくなったけれど、値段はまだ、声の大きいほうが決めていた。
「秤だけでは、足りませんわね」
鈴懸の木の下で、わたくしは言った。
隣でグリムが、通りを行き交う人の数を数えていた。数えているのが分かる顔だった。
「何が要る」
「約束ですわ。誰が売っても、誰が買っても、同じ決まりで取引をする、という約束。それを守る人たち」
◇
老役人の帳面で、わたくしは人を選んだ。
この十日のあいだ、公の秤に荷を持ち込んだ者の名と、申告した目方と、量った目方が並んでいる。十日のあいだ、一度も申告と秤が食い違わなかった者。
塩商、樽屋、船大工の親方、錨亭のおかみ。干し肉屋、縄屋、帆布屋。全部で二十一人。
それに、両替商のハンス。
「わたしが、ですか」
ハンスは、帳場の向こうで目を丸くした。
「両替のできる人が要りますの。王都の商人が金貨を持ってきて、港の商人が銅貨で受け取る。その間に立つ人が」
「わたしは、祝福債で儲けてる男ですよ。お嬢さんは、あれがお嫌いでしょう」
「ええ。けれど、わたくしが首飾りをお売りした晩、金貨を数えるあなたの指は、一枚もごまかしませんでしたわ」
ハンスは、しばらくわたくしを見ていた。それから、困ったように笑った。
「……あの晩の勘定を、覚えておいででしたか。それじゃ、断れませんな」
そして、最後のひとり。
「あたしが?」
マルタは、網を繕う手を止めて、わたくしを見上げた。
「あたし、商人じゃないよ。漁師の娘だよ。歳だって、まだ十六だし」
「漁師の代わりに、秤の前に立つ人が要りますの。魚を売る者の目方を、誰よりも気にする人が」
わたくしは言った。
「秤の前で、最初に声を上げたのは、あなたでしたわ」
マルタは何か言いかけて、やめた。それから、乱暴に網を放り出して立ち上がった。
「……やる」
◇
その夜、鈴懸の木の下に、二十四人が集まった。
篝火が三つ焚かれ、木の根元には、直したばかりの公の秤が据えてある。王家の紋の刻印は、ひしゃげたままだ。その隣に、老役人が修理を検めて打った、新しい検定印が並んでいる。二つの印が並ぶ秤を、グリムはわざとそのままにした。
集まった商人たちは、落ち着かない様子で互いの顔を見ていた。追放された元令嬢に呼び出されて、何が始まるのか、誰にも分かっていなかった。
わたくしは、秤の前に立った。
「皆さまに、お願いがございます」
篝火がはぜる音がした。
「この木の下で、約束を交わしていただきたいのです。ここで取引をする者は、みな同じ秤で量り、同じ決まりに従う。その決まりを書いたものが、これですわ」
わたくしは、グリムが清書した紙の束を掲げた。
「規則書と申します。読み上げますわね」
グリムが、篝火のそばで紙を広げた。低い声で、一条ずつ読んでいく。
――この木の下での取引は、すべて公の秤で量る。売り手と買い手が値を決めて取引が成ったら、その値をその場で板に書いて掲げる。
――売り買いが成ったときは、売り値の百分の一を、手数料として盟約に納める。
商人たちが顔を見合わせた。
「手数料を取るのか」
塩商の親父が言った。
「取りますわ。秤を直すにも、篝火を焚くにも、お金がかかりますもの。そのかわり、ここでは誰も、目方も値段もごまかされません」
塩商は鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。
グリムが続けた。
――建物が使えなくなっても、取引は二十四人の集う場所で続ける。
「建物なんて、最初からないじゃないか」
樽屋の女主人が笑った。何人かがつられて笑う。
「ええ。ですから、これからできても、ということですわ」
――この規則書を改めるときは、二十四人の全員が同意しなければならない。盟約者が退くか亡くなったときは、残る全員の一致で新たな者を迎える。席が欠けているあいだ、この規則書は改められない。
「全員?」
マルタが、思わず声を上げた。
「あたしが嫌だって言ったら、それで終わり?」
「ええ。あなたが嫌だとおっしゃれば、誰にも変えられませんわ。わたくしにも」
マルタは、篝火の向こうでぽかんと口を開けていた。
――手形の判定は、判定される手形に関わる者を除いた、全員の一致による。
「手形?」
船大工の親方が、太い眉を寄せた。
「そんな紙切れ、この港で誰が使う」
「いずれ、皆さまがお使いになりますわ」
わたくしは言った。
「金貨の袋を担いで王都まで歩くより、紙一枚を懐に入れて歩くほうが、ずっと楽ですもの」
グリムは、さらにいくつかの条文を読み上げた。詐取した金で振り出された手形の扱い。ただし、事情を知らずにその手形を受け取った者は、盟約が守ること。積荷の保険の決まり。手形の券面に書く文言。商人たちの顔には、だんだん、分からないものを分からないまま聞いている表情が浮かんでいった。
わたくしは、それで構わないと思っていた。
条文は、読まれるために書くのではない。いつか、効くために書くのだ。
◇
保険の条文のところで、ひとりの男が手を挙げた。
船乗りたちの親方の、ヨハンだった。日に焼けた顔に、深い皺が刻まれている。
「その、保険ってのは、何だ」
「船が沈んだときに、積荷の損を、皆で分けて背負う約束ですわ」
わたくしは答えた。
「船主は、荷を運ぶたびに、積荷の値の百分の二を盟約に納める。そのかわり、船が沈めば、盟約が積荷の値を払う。ただし、盟約が引き受けるのは、積み立てたお金で払える分まで。最初の積み立てには、ボルガ様からいただいた三百枚を、わたくしが入れますわ。二十四人で背負えば、一隻沈んだくらいで、誰も路頭には迷いません」
ヨハンは、しばらく黙っていた。
篝火の向こうで、何人かの船乗りがうつむいた。
「……十二年前に、うちの港の船が一隻、嵐で沈んだ」
ヨハンが、ぽつりと言った。
「乗ってた連中は助かった。だが、積荷は全部、海の底だ。船主は荷の弁償で家を売って、乗ってた若いのは、その借金を背負わされて、家族ごと港を出ていった。あれから、この港の船乗りは、誰も他人の荷を積みたがらねえ」
「ですから、保険ですわ」
わたくしは言った。
「盟約の保険がかかった船になら、乗っていただけます?」
ヨハンは、わたくしの顔をじっと見た。
それから、大きく息を吐いた。
「……保険のない船には、もう誰も乗らねえよ。この港の船乗りはな」
◇
署名は、ひとりずつ、篝火の明かりの下で行われた。
塩商の親父は、ぶつぶつ言いながら名前を書いた。樽屋の女主人は、さっさと書いて隣に回した。ハンスは、丁寧な字で書いた。マルタは、字が書けなかった。代わりに、魚の印を描いた。グリムが、その横に彼女の名前を書き添えた。この港では、十五になれば一人前だ。証人として、わたくしとハンスが名を添えた。
最後に、わたくしの番が来た。
ペンを取る前に、わたくしは規則書を頭から読み直した。
一条ずつ。一字ずつ。
この紙に署名すれば、わたくしは、ここに書かれたすべてに縛られる。改めるには、二十四人の全員が要る。わたくし一人の都合では、一字も変えられない。
胸の奥の文字が、静かにそこにあった。
もう一度、読んだ。
それから、もう一度。
「三度目だな」
グリムが言った。
「ええ」
わたくしは、ペンを取った。
エレオノーラ。
家名のない名前を、わたくしは、二十三の名前の隣に書いた。
◇
二十四の名前が並んだ紙を、グリムが鈴懸の木の幹に打ちつけた。
篝火の明かりの中で、商人たちはしばらく、それを見上げていた。
誰かが、ぽつりと言った。
「……これで、何が変わるんだ」
わたくしは答えた。
「明日の朝から、この木の下では、誰も嘘の値段で売り買いできなくなります。それだけですわ」
それだけ。
◇
商人たちが帰ったあと、篝火の残り火のそばで、グリムがひとつだけ付け加えた。
「この市は、勝手に立てた市ではない」
「どういうことですの?」
「砦の書庫に、二百年前の勅許がある。勅許第四十七号。港の市を、港の者が自分で立てることを許したものだ」
そんな話は、わたくしも聞いていなかった。
「どうして、それを今?」
「誰かに、この市を勝手に立てたと言われたときのためだ」
グリムは、残り火を見たまま言った。
「書いてあることは、書いておく。だが、誰にでも言うことではない」
わたくしは、その番号を胸の中で一度だけ繰り返した。
勅許第四十七号。
◇
翌朝、鈴懸の木の下に、最初の板が掲げられた。
鯖、一斤銅貨九枚。塩、一樽銀貨二枚と半。
昼前、見慣れない男が塩の樽を荷車に積んで、王都の商人に声をかけていた。元はボルガの手下だった男だ。
「旦那、この塩は上物でしてね。一樽、銀貨四枚でいかがです」
王都の商人は、ちらりと鈴懸の木のほうを見た。それから、男の樽を指で叩いた。
「板には、銀貨二枚と半とあるが」
「板? あんなもん、追放女の落書きで……」
「では、こちらで量ってみましょうか」
わたくしが声をかけると、男は振り返った。わたくしの後ろで、マルタが公の秤の皿を空けて待っている。
男は樽とわたくしを見比べ、舌打ちをして、荷車ごと通りの向こうへ消えていった。
王都の商人は、肩をすくめて板の前に戻った。
「銀貨二枚と半。三樽もらおう」
マルタが、得意そうに分銅を動かした。
◇
その夜遅く、錨亭の部屋に戻ると、窓の外で角笛が鳴った。
港のほうだった。
わたくしは窓を開けた。夜の海に、見慣れない形の帆が一つ、月明かりを受けて遠ざかっていくのが見えた。
帝国の船だった。
二隻のうちの一隻が、盟約に保険を求めることもなく、夜のうちに港を出ていく。積荷を量られたくない船の、出ていき方だった。




