第五話 割られた秤
朝日が昇るころには、鈴懸の木の下に人だかりができていた。
倒れた秤を囲んで、漁師たちが黙り込んでいる。誰も、口に出しては言わなかった。けれど、顔に書いてあった。だから言わんこっちゃない。ボルガに逆らうから、こうなるんだ。
人垣の後ろで、誰かが籠を抱えて立ち去っていった。通りの中ほど、鉄の看板のほうへ。
「……誰がやった」
隣で、グリムが低く言った。
「誰がやったかより、何を壊したかのほうが大事ですわ」
わたくしは、泥の中から拾った刻印の欠片を、手のひらに載せた。ひしゃげた鉄の上に、王家の紋が半分だけ残っている。
「これは、砦からお借りした王の秤。壊したのは、ただの秤ではなく、王の印です」
グリムの小さな目が、細くなった。
◇
砦の老役人は、刻印の欠片を見るなり、椅子から立ち上がった。
「王の検定印を……」
「ええ。夜明け前に、何者かが」
「王の印を損なった者は、鞭打ちのうえ、財産を召し上げられる。この港の決まりだ」
老役人の顔から、いつもの退屈そうな色が消えていた。二十年、この砦で荷の出入りを見てきた男の、それでも役人としての顔だった。
「心当たりは」
「ございますわ。けれど、心当たりだけでは、裁きはできませんでしょう?」
そのとき、役所の戸口で声がした。
「あたし、見た」
振り返ると、マルタが立っていた。息を切らして、髪に潮の雫がついている。
「夜明け前、網の具合を見に浜へ出たの。そしたら、ボルガんとこのダリオとゴッツが、槌を担いで広場のほうから走ってきた。二人とも、袖に泥がついてた」
老役人は、しばらくマルタを見ていた。
「娘。それを、裁きの場でも言えるか」
マルタは、一瞬だけわたくしのほうを見た。それから、まっすぐ老役人に向き直った。
「言える」
◇
その日の昼、ダリオとゴッツは砦の衛兵に引き立てられた。
二人は最初、知らぬ存ぜぬを通した。けれど、二人の家から泥のついた槌が見つかり、鞭打ちの台が運び出されるのを見たとたん、ゴッツのほうが泣きながら白状した。
――ボルガの旦那に、言われてやった。
ボルガは、もちろん認めなかった。
「知らんな。手下が勝手にやったことだ」
役所の前でそう言い放ち、腹を揺すって笑った。
「それに、秤がなくなって困るのは、あの追放女のほうだろう。七日後の朝? 見ものだな」
わたくしは、人垣の外からそれを聞いていた。
約束の朝まで、あと六日だった。
◇
その夜、わたくしは老役人の部屋を訪ねた。
「秤の貸し出しの書面に、こうございましたわね。秤が損なわれたときは、損なった者、または損なわせた者への請求を、借り手が行うことができる」
「ああ。あんたが、わざわざ書き足させた一行だ」
老役人は、書面を引き出しから取り出して眺めた。
「……あんた、最初からこうなると読んでおったのか」
「秤を置けば、誰かが壊しに来る。それくらいは、どなたでも読めますわ」
わたくしは、書面の上に一枚の紙を置いた。
「借り手として、請求いたします。王の秤の弁償として、金貨三百枚。相手は、書面のとおり、損なわせた者に」
「三百枚か」
「王都の秤師に、王の検定に通る秤を一から作らせれば、それくらいはかかりますでしょう?」
老役人は、少し考えてからうなずいた。
「……かかるな。罰としての召し上げは、弁償を払わせた残りからにしよう。ボルガが払うと思うか」
「払わなければ、あの方の持ち物で払っていただくだけですわ。それより、お願いがひとつ」
「何だ」
「六日後の朝、荷改め所の秤を、一日だけ広場へ出していただけません? 王の秤を壊す者がいる港なら、王の秤そのもので見張っていただくのがいちばんですもの」
老役人は、しばらく黙っていた。
それから、二十年分の埃を払うように、ゆっくりと立ち上がった。
「……いいだろう。わしが自分で量ってやる」
◇
約束の朝は、霧が出ていた。
鈴懸の木の下には、荷改め所の秤が据えられていた。その脇に、老役人が椅子を置いて座っている。腰には役人の印章、膝の上には帳面。
けれど、漁師たちは来なかった。
日が高くなるにつれ、霧は少しずつ晴れていった。通りの中ほど、鉄の看板の下には、いつものように籠を抱えた列ができている。ボルガの赤ら顔が、こちらを見て笑っていた。
「船は」
グリムが、ぼそりと聞いた。
わたくしは、港のほうを見た。霧の向こうは、まだ白い。
「まだですわね」
そのときだった。
鉄の看板の前の列から、籠を抱えた女の子がひとり、抜け出した。
マルタだった。
マルタは、ボルガの前を素通りして、まっすぐこちらへ歩いてきた。列の漁師たちが、驚いたように彼女を目で追う。ボルガが何か怒鳴った。マルタは振り返らなかった。
秤の前で立ち止まり、籠を皿に載せる。
老役人が分銅を動かし、帳面に書きつけた。
「六斤と一両」
その声は、霧の晴れかけた広場によく響いた。
そして、ちょうどそのとき。
港のほうで、角笛が鳴った。
霧の向こうから、一隻の船がゆっくりと姿を現した。帆に描かれているのは、王都の商会ギルドの紋章だった。
◇
船から最初に降りてきたのは、灰色の上着の男だった。
「エレオノーラ様」
番頭のオットーは、断罪の夜と同じ地味な身なりで、わたくしの前に立った。
「儲けの匂いがいたしましたので、自分で参りました。船倉には塩も積んでまいりました。ここで塩をして運べば、鯖も王都まで持ちます」
「お待ちしておりましたわ」
わたくしは、手紙に書いたとおりのことを、もう一度だけ口にした。
「漁師が売ると申した魚を、王の秤で量って、魚市ギルドを通さずにお引き合わせいたします。値は、王都の相場から運び賃と手数料を引いたもの。量るのも値をつけるのも、皆さまの目の前で」
オットーは、秤と老役人と、帳面を順に見た。それから、マルタの籠をのぞき込んだ。
「王都の相場で、この鯖が一斤あたり銅貨十二枚。運び賃と私どもの一割を引いて、ここでお支払いするのは一斤九枚。六斤と一両なら……」
「五十五枚」
グリムが、オットーより先に言った。
オットーは目を瞬かせ、それから笑った。
「そのとおりで」
マルタの手のひらに、銅貨が五十五枚、積み上げられた。
マルタは、それをじっと見ていた。指先が、少しだけ震えていた。
いつもなら、ボルガの秤で三斤と言われ、手に落とされるのは銅貨が数枚。それが、五十五枚。
「……嘘でしょ」
「嘘ではありませんわ」
わたくしは言った。
「これが、あなたの魚の、本当の値段です」
◇
それからのことは、早かった。
マルタの手のひらの銅貨を見た漁師が、ひとり、またひとりと、鉄の看板の前の列を離れた。籠を抱えて、霧の晴れた広場を横切ってくる。最初はおずおずと。やがて、走って。
昼前には、ボルガの秤の前には、誰も並んでいなかった。
◇
ボルガが、手下も連れずに広場へ乗り込んできたのは、昼過ぎだった。
赤ら顔は、もう赤を通り越して紫色になっていた。
「貴様……! 王都の商人を連れ込みやがって。この港で魚を扱えるのは、魚市ギルドだけだ!」
「そうでしたかしら」
わたくしは、老役人のほうを見た。
老役人は、帳面を閉じて立ち上がった。
「ボルガ。この港から王都へ荷を出すには、荷改め所の許しがいる。お前のギルドに出していた許しは、今朝、取り消した。王の印を損なわせた者を、王の港で商いさせるわけにはいかん」
「な……」
わたくしは、袖から一枚の紙を取り出した。
「それから、こちらは借り手からのご請求ですわ」
砦の書面の写しを、ボルガの目の前に広げる。
「秤が損なわれたときは、損なった者、または損なわせた者への請求を、借り手が行うことができる。損なったのはダリオとゴッツ。損なわせたのは、あなた。ゴッツがそう申しましたわね」
「あれは、手下が勝手に――」
「勝手にやった手下に、なぜ槌を買い与えましたの? 二人の槌は、どちらも先週、あなたのお店の帳面で買われておりましたわ。グリムが、砦に出された帳面の写しを読みましたの」
ボルガの顔から、色が消えた。
「金貨三百枚。払えなければ、店と秤で払っていただきます」
ボルガの口が、開いたまま動かなくなった。
広場の漁師たちが、静まり返ってこちらを見ていた。
わたくしは、扇を開いた。
「ボルガ様。七日前に、申し上げましたでしょう? 七日後の朝、あなたの秤の前には、誰も並んでいない、と」
「この……悪女め……!」
わたくしは、にっこりと微笑んだ。
「ええ、悪女ですわ。悪女は、書面をよく読みますの」
その日の夕方、ボルガの店の戸口に、差し押さえの札が貼られた。ボルガは店の前に座り込んだまま、鉄の秤が運び出されていくのを、口を開けて見ていた。
◇
夕暮れの港で、オットーの船は、王都へ向かう魚を積み終えようとしていた。
「次は、十日後に参ります」
オットーは、帳面を閉じながら言った。
「船を二隻にしても、よろしいかもしれませんな」
「お任せしますわ。ただし、量るのはいつも、あの秤で」
「心得ております」
オットーは一礼し、それから、ふと思い出したように付け加えた。
「そういえば、エレオノーラ様。王都では近ごろ、聖女様の祝福債が、ますますよく売れておりますよ。私どものギルドでも、扱い高が倍になりました」
「そうですの」
「エレオノーラ様も、おひとついかがです?」
わたくしは、遠ざかっていく王都の方角を見た。
「いいえ。結構ですわ」
船が岸を離れていく。夕日を受けて、商会ギルドの帆が赤く染まっていた。
広場では、老役人が帳面を広げたまま、まだ秤の前に座っていた。その脇で、マルタが籠に残った最後の一匹を量っている。グリムが、それを黙って見ている。
壊れた公の秤は、鈴懸の木の根元に立てかけてあった。竿は折れ、皿は割れたまま。
わたくしは、その秤をしばらく眺めていた。
それから、グリムに言った。
「あの秤、直しましょう。直して、ここに置いておきますの。この広場で、二度と嘘の秤が使われないように」




