第四話 公の秤
「秤を、お借りしたいのです」
わたくしがそう言うと、砦の老役人は、読んでいた書類から顔を上げた。
「秤?」
「荷改め所の倉庫に、使われなくなった古い秤があると伺いましたの。王の検定印が入った、正しい秤が」
老役人は、わたくしの後ろに立つグリムを見た。グリムは何も言わず、ただ一度だけうなずいた。
「……あれは、二十年前に新しい秤が入ってから、ずっと倉庫で埃をかぶっとる。貸すのは構わんが、何に使う」
「魚を量りますわ。正しい目方で」
老役人は、しばらくわたくしの顔を見ていた。それから、ふっと鼻で笑った。
「ボルガが嫌がるぞ」
「存じておりますわ」
賃料は月に金貨二枚。老役人が書いた貸し出しの書面を、わたくしは三度読んだ。それから、一行だけ書き足してもらい、もう一度頭から読み直した。
――秤が損なわれたときは、損なった者、または損なわせた者への請求を、借り手が行うことができる。
「壊れる心配でもしとるのか」
「壊すのは、たいてい自分では手を汚さない方ですもの」
◇
翌朝、鈴懸の木の下に、秤が据えられた。
大人の背丈ほどもある鉄の秤だった。古びてはいるが、竿にも分銅にも狂いはない。グリムが夜通し磨き上げ、目盛りを一つずつ確かめた。台座には、王家の紋と検定の刻印が、くっきりと浮かんでいる。
木の幹には、グリムの角ばった字で書いた板を掛けた。
――公の秤。目方を量るだけ。銅貨一枚。
漁師たちは、遠巻きに眺めて通り過ぎていった。誰も近寄ろうとしない。何の得があるのか、分からないのだろう。量ったところで、魚を売る先はギルドしかないのだから。
昼前になって、籠を抱えた女の子が通りかかった。
マルタだった。
わたくしは、木陰から声をかけた。
「その籠、ギルドへ持っていく前に、ここで量ってごらんなさい」
マルタは足を止め、怪訝そうにわたくしを見た。
「銅貨一枚、取るんでしょ」
「今日は、わたくしが払いますわ」
マルタはしばらく迷っていた。それから、何かを確かめるように、籠を秤の皿に載せた。
グリムが分銅を動かす。竿が、ゆっくりと水平に戻った。
「五斤と二両」
グリムが、ぼそりと言った。
マルタの目が、大きく見開かれた。
「……父ちゃんの秤と、同じだ」
マルタは籠を抱え直すと、何も言わずに通りの中ほどへ走っていった。魚市ギルドの店のほうへ。
わたくしは、木陰から見ていた。
マルタが鉄の看板の下で籠を差し出す。でっぷりとした男が、目盛りも見ずに何かを言う。マルタの肩が、びくりと震えた。
戻ってきたマルタの顔は、真っ赤だった。
「三斤だって」
声が震えていた。
「同じ籠なのに。さっきここで、五斤だったのに」
その声は、思っていたより大きかった。
通りの何人かが振り返った。それから、ひそひそと話す声が、波のように広がっていった。
昼過ぎには、鈴懸の木の下に、籠を抱えた漁師たちの列ができていた。
◇
ボルガが現れたのは、夕方だった。
手下を二人連れて、人垣を割って入ってくる。赤ら顔が、いっそう赤くなっていた。
「なんだ、この秤は」
「公の秤ですわ。王の検定印つきの」
わたくしは、木陰の椅子に座ったまま答えた。
ボルガは秤の台座の刻印を見て、それからわたくしを見た。値踏みをする目だった。けれど、ハンスやグリムのそれとは違う。濁っていた。
「あんたが、王都から追い出されてきた女か」
「ええ。エレオノーラと申しますわ」
「量るのは勝手だ」
ボルガは、列に並ぶ漁師たちを見回した。何人かが、目を伏せた。
「だがな、よく考えろ。いくら目方を量り直したところで、魚を王都へ運べる船を持ってるのは、うちだけだ。うちが買わなきゃ、お前らの魚は浜で腐るだけだぞ」
列の中で、誰かが籠を抱え直す音がした。
わたくしは、扇を閉じた。
「ボルガ様。ひとつ、申し上げておきますわ」
「何だ」
「七日後の朝。あなたの秤の前には、誰も並んでいませんわ」
一瞬、静かになった。
それから、ボルガが腹を抱えて笑い出した。手下たちも、つられて笑った。
「船も持ってねえ追放女が、何を言いやがる。七日後に浜で腐った魚を数えて、泣きべそをかくのはそっちだ」
ボルガは唾を吐き捨て、肩を揺すって去っていった。
列は、少し短くなった。
◇
人垣がはけたあと、マルタがひとり残っていた。
「ねえ」
「何かしら」
「なんで、こんなことするの。あんた、あたしたちを助けて、何の得があるの」
わたくしは、少し考えた。
「あなたのためではありませんわ」
マルタが眉をひそめる。
「嘘の秤が、目障りなだけ。それに、正しい秤があれば、いずれ正しい値段がつきます。正しい値段がつく場所には、人とお金が集まりますの。わたくしは、それが欲しいだけですわ」
マルタは、わたくしの顔をじっと見ていた。日に焼けた顔の中で、目だけがやけに澄んでいた。
「……変な人」
そう言って、マルタは籠を抱えて帰っていった。
◇
日が暮れてから、わたくしは両替商の店を訪ねた。
「おや、お嬢さん。今日は、ずいぶん通りを騒がせたそうで」
ハンスは、人の良さそうな顔で笑った。
「ひとつ伺いたいことがありますの。港の奥の、帝国の船。あれは、魚を買っていきますの?」
ハンスの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
「……いいえ」
ハンスは帳場の帳面を閉じ、声を落とした。
「あの船が買っていくのは、魚じゃありませんよ。お嬢さんは、関わらないほうがいい」
それ以上、ハンスは何も言わなかった。
店を出ると、港のほうから潮風が吹いてきた。闇の中に、見慣れない形の帆が二つ、黒く浮かんでいる。
あの港には、調べ残したことがある。
王都の門で聞いた声を、わたくしは思い出していた。
◇
錨亭の部屋に戻ると、わたくしは一通の手紙を書いた。
宛先は、王都の商会ギルドの番頭、オットー。断罪の夜、灰色の上着で広間を出ていった、あの男だ。
――七日後の朝、ヴェルムの港へ、空の船を一隻。漁師が売ると申した魚を、王の検定印の秤で量り、魚市ギルドを通さずにお引き合わせいたします。手数料は、売り値の一割をお取りください。
封をして、グリムに渡す。明朝いちばんの早馬で、王都へ届けてもらうためだ。
早馬なら王都まで一日半。オットーの支度に二日。王都の河港から、川を下る船で二日。合わせて五日半。七日後の朝なら、まだ半日ほどの余裕がある。
グリムは手紙を受け取り、しばらくそれを見ていた。
「来るのか」
「あの方は、断罪の夜、誰よりも先に広間を出ていった方ですわ。儲けの匂いには、誰より鼻が利きます」
「来なければ」
「わたくしの負け。それだけですわ」
グリムは何も言わずに、手紙を懐にしまった。
◇
夜明け前、窓の外の物音で目が覚めた。
鈍い、金属を打つような音が、二度、三度。それから、走り去る足音。
わたくしは外套を羽織って、壁の通りへ出た。
まだ薄暗い広場で、鈴懸の木だけが黒々と枝を広げていた。
その下で、公の秤が倒れていた。
竿は折れ、皿は二つに割れ、分銅が泥の中に散らばっている。台座の鉄が大きくへこみ、王家の紋の刻印が、無残にひしゃげていた。
わたくしは、しゃがみ込んで、泥に落ちた刻印の欠片を拾い上げた。
冷たい鉄だった。
「……まあ」
思わず、笑みがこぼれた。
「思っていたより、一日早かったですわね」




