第三話 壁の通りの帳簿係
「三斤」
秤の前の男が、目盛りも見ずに言った。
南の港町ヴェルムに着いて、まだ半刻も経っていなかった。
男は、でっぷりと肥えた赤ら顔だった。店先には大人の背丈ほどもある鉄の秤が据えてあり、軒には秤の絵と魚市ギルドの紋章を描いた看板が下がっている。
秤の皿には、魚の詰まった籠が載っていた。籠を載せたのは、漁師らしい女の子だった。歳は十五、六だろうか。日に焼けた腕に、網の擦り傷がいくつもある。
「そんなはずない。うちの父ちゃんが、朝、五斤は量ったんだ」
「なら、親父の秤が狂ってるんだろうよ。ギルドの秤は、この町でいちばん正確だ」
男は銅貨を数枚、女の子の手に落とした。
「文句があるなら、よそで売りな、マルタ。よそがあるならな」
女の子は唇を噛んだ。けれど、何も言い返さなかった。周りの漁師たちも、誰ひとり目を合わせなかった。
男は、目盛りを見なかった。
見る必要がないのだ、とわたくしは思った。あの秤は、最初から答えが決まっている。
この町で、王都へ魚を運ぶ船を持っているのは魚市ギルドだけ。王都の買い手との伝手を持っているのも、ギルドだけ。漁師は、ギルドが量ったとおりの目方で、ギルドが決めた値で売るしかない。
嘘で得た金だ。
女の子が、空になった籠を抱えて通り過ぎていった。すれ違いざま、日に焼けた頬に、一筋だけ光るものが見えた。
わたくしは、見なかったことにした。
それでも、名前だけは覚えておいた。マルタ。
それから、店の看板の下に掛かった名札を見上げた。ギルド長ボルガ。
こちらも、覚えておきますわ。
◇
七日の旅だった。護送の馬車は、宿場ごとに一夜ずつ止まった。
王都の門で、わたくしに追放の令状を手渡したのはルーカスだった。南へ向かう護送の騎士たちに引き渡す前、彼は一言だけ言った。
「南の港には、いずれ俺も行く。あの港には、調べ残したことがある」
「お待ちしております、とは申しませんわよ」
ルーカスは何も答えなかった。ただ、門が閉まるまで、そこを動かなかった。揺れる馬車の中で、わたくしは令状を三度読んだ。――右の者、身分を剥奪し、以後の住まいを南の港町ヴェルムと定める。住まいを定める、とだけ書いてある。どこへも行くな、とは、どこにも書いていなかった。
ヴェルムの町は、真ん中を古い灰色の壁が横切っていた。二百年前、海賊よけに築かれた城塞の名残だという。その壁に沿って、露店がずらりと並んでいる。魚、塩、干し肉、縄、樽。壁の通り、と町の者は呼んでいるらしい。
通りの端と端で、同じ大きさの鯖が、銅貨三枚と五枚で売られていた。売り手は客の身なりを見て値を変え、客は比べる暇もなく買っていく。誰も、本当の値打ちを知らない。
目のある者なら、こんな通りは一日で食い荒らす。そして、この町で最初に食い荒らしたのが、あの秤だった。
港の奥に、見慣れない形の帆を張った船が二隻、泊まっていた。帝国の船だ。
そういえば、ローゼンタール伯爵家の「奉公」の娘たちが送り出されていたのも、南の港からだったはずだ。
◇
元手は、膝の上に載せてきた小箱だけだった。
中には宝石が三つ。そのうちの一つを金に替えなければ、今夜の宿代もない。そのことは、最後まで顔に出さないと決めていた。
壁の通りの外れに、両替商の看板があった。
「両替、質入れ。祝福債、買取・販売いたします」
店の中は狭く、小柄で丸い体つきの男が帳場に座っていた。人の良さそうな顔に、よく動く小さな目がついている。
「いらっしゃいまし。両替ですか、それとも祝福債で?」
「祝福債は、この町でも売れますの?」
「売れるなんてもんじゃありません」
男は帳場の脇に積んである紙束を、愛おしそうに叩いた。
「聖女様の祝福がついて、持ってるだけで年に二割の利息ですよ。王都じゃ品薄でしてね。わたしも、売り買いの儲けは、ぜんぶこれに替えてるんです」
年に二割。
わたくしは何も言わず、紅玉の首飾りを帳場に置いた。ミレーヌの家の家宝だった品だ。
男の小さな目が、一瞬だけ大きくなった。それからすぐに、元の人の良さそうな顔に戻った。
「ほう、これは……。まあ、金貨で八百枚というところですかな。なにしろ、先週潰れたお家の刻印入りだ。王都じゃ、まず買い叩かれます」
「ですから、王都ではなく、帝国の商人にお売りなさいな」
男の手が、止まった。
「港に帝国の船が二隻、着いておりましたわ。あちらの方々は、この国の家の刻印など気にもなさいません。石の値打ちだけで買っていかれます。千五百枚」
男は、しばらく黙ってわたくしを見ていた。
「……よく、ご覧になってる」
それから、ふっと笑った。
「千二百」
「千五百。そのかわり、残りの品も、手放すときはまずあなたのところへ参りますわ」
男はため息をつき、帳場の下から金貨の袋を引っぱり出した。
「お嬢さん、いったいどこで、そんな値踏みを覚えたんで?」
「雨の多い街で、少し」
男は金貨を数えながら、ついでのように言った。
「なんでしたら、半分は祝福債でお支払いしましょうか。金貨のまま持っていても、増えやしませんよ」
「いいえ。金貨で、結構ですわ」
両替商ハンス、と帳場の札に書いてあった。
◇
宿は、港に近い錨亭という店にした。
一階が酒場で、二階が客室。床はきしみ、窓には隙間風が入る。それでも、屋根と寝台と温かいスープがある。今夜のわたくしには、それで十分だった。
酒場の隅でスープをすすっていたとき、低い声がした。
「七十三」
壁際の卓に、ドワーフがひとり座っていた。背丈はわたくしの胸ほど。灰色の髭を三つ編みにして、革の前掛けをしている。卓の上には、空の杯が四つ並んでいた。
宿のおかみが、彼の前で勘定書きを読み上げているところだった。
「麦酒が四杯に、塩漬けの鰊と黒パンで、締めて銅貨八十……」
「七十三」
ドワーフは勘定書きを見もせずに繰り返した。
おかみは指を折って数え直し、顔をしかめた。
「……七十三だね。あんたには敵わないよ、グリム」
ドワーフは黙って銅貨を卓に置いた。きっちり七十三枚だった。
わたくしは、スープの椀を持って席を立った。
「ご一緒してもよろしいかしら」
ドワーフはわたくしを見上げ、それから、空いた椅子を顎で示した。
「グリム様、とおっしゃいますのね」
「様はいらん」
「では、グリム。お仕事は?」
「ない」
おかみが、新しい麦酒を運んできながら口を挟んだ。
「グリムはね、砦の荷改め所で、王都へ出ていく荷を二十年量ってきたのさ。それがこの春、魚市ギルドから数字を少し減らせって言われて、断ったら追い出されちまった」
グリムは何も言わなかった。麦酒を一口飲んだだけだった。
わたくしは少し考えて、尋ねた。
「グリム。去年一年で、この港から王都へ出ていった魚は、どれくらいですの?」
「十二万四千斤」
答えは、ほとんど間を置かずに返ってきた。
「では、魚市ギルドの帳簿では、漁師から買い入れた魚は?」
グリムの手が、杯の上で止まった。
「……七万五千」
十二万四千斤の魚を王都へ売るために、ギルドは七万五千斤ぶんの代金しか漁師に払っていない。
あの鉄の秤は、四割を嘘にしている。
「ギルドが減らせと言ったのは、出ていく荷の数字ですわね。その差が、ギルドの帳簿の嘘の証拠になるから。そしてあなたは、その差を消さなかった」
「書いてないことを、書いてあるようには書かん」
それだけ言って、グリムはまた麦酒を飲んだ。
わたくしは、椀を卓に置いた。
「わたくし、この壁の通りに市場を作りたいのです」
「市場なら、もうある」
「いいえ。あれは市場ではありませんわ。値段のない場所は、ただの喧嘩場です。わたくしが作りたいのは、誰が売っても、誰が買っても、同じ秤で量られて、同じ値段がつく場所」
グリムは、杯越しにわたくしを見た。値踏みをする目だった。両替商のハンスと同じ種類の。ただ、こちらのほうがずっと静かだった。
「そのために、数字を忘れない方が要りますの。わたくしに、雇われていただけません?」
「給金は」
「月に金貨十枚。それから、帳簿の数字を書き換えろとは、決して申しません」
グリムは長いこと黙っていた。それから、短く言った。
「書面にしろ」
わたくしは、おかみから紙とペンを借りた。
雇い主と雇われる者の名。給金の額と、支払いの日。仕事の中身。どちらかが申し出れば、ひと月の後に契約は終わること。それから、少し考えて、最後に一行を足した。
――雇い主が身柄を拘束されたときは、この契約は終わる。
書き終えてから、頭から読み直した。もう一度。それから、もう一度。
一字一句、守れないことは書いていないか。守れることだけが書いてあるか。
胸の奥の文字が、静かにそこにあった。
グリムは、わたくしの手元をじっと見ていた。
「契約書を三度読む雇い主は、初めてだ」
「わたくしは、署名したことは必ず守りますの」
ペンを置いて、わたくしは紙を彼のほうへ滑らせた。
「だから、守れないことは書きませんわ」
グリムは紙を取り、一度だけ目を通した。それで十分らしかった。太い指でペンを握り、角ばった字で名前を書いた。
それから、ぼそりと言った。
「砦の書庫にある帳簿は、全部読んだ」
「どれくらい前の分まで?」
「二百年分だ」
わたくしは、思わず笑った。
「頼もしいですわ」
◇
その夜、わたくしは眠る前に、もう一度だけ壁の通りへ出た。
露店はすべて片づけられ、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。通りの突き当たり、港を見下ろす小さな広場に、一本の大きな木が立っていた。
鈴懸の木だった。月の光の下で、広場いっぱいに枝を広げている。
前の世界でいちばん大きな市場も、始まりは一本の鈴懸の木だった。二十四人の仲買人がその下に集まり、互いの手数料を下げないと約束した。世界でいちばん大きな市場の始まりは、ささやかな談合だったのだ。
わたくしは、その話が嫌いではなかった。
木の根元に手を当てる。ざらりとした樹皮が、ひんやりと冷たかった。
「ここに、市場を立てますわ」
それから、昼間の鉄の秤を思い出した。目盛りを見ない男。唇を噛んでいたマルタ。
「まずは、あの秤からですわね」
鈴懸の葉が、さらさらと鳴った。




