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婚約破棄された悪役令嬢、前世は空売り屋なので偽聖女の株を暴落させますわ  作者: 朝霧ナギ


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第二話 舞踏会の破産

「騎士団長様」


扉の手前で、わたくしは足を止めた。


「ひとつだけ、お願いがございます。あの方々に、お別れのご挨拶を」


ルーカスは柱の陰の三人を一瞥し、それからわたくしのドレスの裾に目を落とした。葡萄酒の染みが、まだ乾かずに広がっている。


「手短にしろ」


「ええ。すぐに済みますわ」


わたくしはルーカスの腕から手を離し、三人の前に立った。


「ミレーヌ様、カトリーヌ様、アデール様。これまでのお付き合いに感謝いたしますわ」


わたくしは丁寧に礼をした。


「お礼の代わりに、ひとつだけ申し上げておきます。今夜、鐘が十二を打つ前に、皆さまのお屋敷に商会ギルドの方々がお見えになりますわ」


三人は顔を見合わせた。


それから、ミレーヌが噴き出した。


「まあ、お姉さま。最後まで面白いことをおっしゃるのね」


「商会ギルドが、こんな夜更けに?」とカトリーヌ。


「わたくしたちのお家は、お姉さまと違って、何も悪いことなどしておりませんもの」とアデール。


わたくしは微笑んだまま、何も言わなかった。


言う必要がなかった。


◇


一年前、成人の祝いを終えたばかりのわたくしのもとに、三人が揃って頼みに来た。家がギルドから金を借りたいけれど、確かな保証人がいなければ貸してもらえない。お姉さまのお名前を貸していただけないかしら、と。


わたくしは引き受けた。母から継いだ遺産があったから、公爵家ではなく、わたくし自身の名で保証人になった。同じ月に、殿下との婚約の書面にも、自分の名で署名し直していた。


三人の家がその金で何をするつもりかは、すぐに分かった。下町の平民に、年五割の利子で又貸しするのだ。借用書の頭には、こう刷り込まれていた。


「聖女の加護つき融資」


加護など、どこにもない。あるのは、公爵令嬢の保証という看板だけだった。


その借用書を見た日に、わたくしは決めたのだ。わたくしが落ちるときは、この方々も一緒に。


だから、契約書に三つの条文を入れさせた。


――保証人の身分剥奪が宣告された時点で、保証は解除される。


――保証人を失った借り手は、ただちに借りた金の全額を返す。


――保証が解除されたとき、それまでの保証料を精算し、借り手が保証人に預けた担保をもってこれに充てる。


ギルドは二つ目の条文を喜んだ。保証の価値が消えたら、すぐに貸した金を取り戻せる。公爵令嬢の保証は、身分があってこそ値打ちがあるのだから。


三家の当主たちは、条文など読みもせずに署名した。保証料は借りた額の三割で、保証が終わる日にまとめて払う約束だった。そんな日は来ないと、三人は笑っていた。そして形ばかりに、家宝の宝石を一つずつ、わたくしへの担保としてギルドの貸金庫に預けていった。ギルドにとっては、ただの預かり物だ。


三家が借りた額の三割は、三つの宝石を足しても、まだ少し届かないほどだった。


あの頃のわたくしは、まだ前の人生を思い出していなかった。


それでも、同じことをしていたらしい。


首輪は、昔からついていたのだ。前の人生を思い出して、その意味が分かっただけで。


◇


「済んだか」


ルーカスの声で、わたくしは扉のほうへ向き直った。


「ええ。お待たせいたしました」


ちょうど、銀の盆を持った給仕が通りかかった。わたくしはその盆から、葡萄酒のグラスをひとつ取った。


「おい」


「最後の一杯ですわ。裾にいただいた分のお返しに、少しくらい飲んでもよろしいでしょう?」


ルーカスは何か言いかけて、やめた。止めはしなかった。


わたくしは扉の前に立ち、グラスを光にかざした。深い赤の向こうに、広間が揺れて見えた。踊りを再開した貴族たち。王子と聖女。そして、柱の陰の三人。


遠くで、鐘が鳴りはじめた。


一つ。二つ。三つ。


九つ目が鳴ったとき、広間の扉が乱暴に開いた。


駆け込んできたのは、燕尾服の初老の男だった。息を切らし、額には汗が浮いている。


「お嬢様! ミレーヌお嬢様!」


ミレーヌの家の執事だった。


「しょ、商会ギルドの者が、お屋敷に! 今夜のうちに、お借りした金を全額お返しいただきたいと!」


ミレーヌの顔から、血の気が引いた。


「何を言っているの。返済の期日は、まだ先のはずよ」


「保証人を失った借り手は、ただちに全額を返す、と契約書にあると……旦那様は、お金をすべて下町に貸してしまっておいでで……」


執事は、扉の前に立つわたくしのほうを、怯えたように見た。


広間がざわめきはじめた。そのざわめきが広がりきる前に、また扉が開いた。今度はカトリーヌの家の執事。その後ろに、アデールの家の家令。どちらも同じ顔色をしていた。


鐘が、十二を打ち終えた。


わたくしはグラスを傾けた。葡萄酒は、少し甘すぎた。


「エレオノーラ様」


最後に入ってきたのは、灰色の上着の男だった。広間を先に出ていった、あの番頭だ。彼はまっすぐわたくしの前まで来て、一枚の紙を差し出した。


「保証が解除され、保証料の精算に充てることになりましたので、お預かりしていた品は契約どおりエレオノーラ様にお渡しいたします。ギルドといたしましては、三家のお屋敷と領地で十分に回収できますので。品は小箱に移して、お乗りになる馬車にお積みしておきました。こちらが受け取り証でございます」


「ご丁寧に、ありがとう存じますわ」


わたくしは受け取り証に目を通した。宝石の名前が三つ。どれも、それぞれの家に代々伝わってきた品だ。


「待て」


隣で、ルーカスが低く言った。


「お前の財産は、裁きが確定すれば没収される。その宝石も同じだ」


「いいえ」


わたくしは受け取り証を折りたたみ、袖の中にしまった。


「殿下は『公爵令嬢として有する財産』とおっしゃいました。けれど、この品がわたくしのものになったのは、身分を剥奪されたあと。公爵令嬢ではない、ただのエレオノーラが受け取ったものですわ」


「詭弁だな」


「殿下ご自身のお言葉ですわ。文言を選んだのは殿下で、わたくしではございません」


ルーカスは黙ってわたくしを見ていた。


母の遺産は、裁きが確定すれば没収される。あれは公爵令嬢のわたくしが持っていたものだから。惜しくないと言えば嘘になる。けれど、手元に残るものと引き換えなら、安い代償だった。


やがて、ルーカスはゆっくりと息を吐いた。


「……法の上では、そうなるな」


「お姉さま!」


ミレーヌが、人垣をかき分けて駆け寄ってきた。さっきまでの笑みは、もうどこにもない。


「お姉さま、何をなさったの! あの宝石は、わたくしの家の――」


「わたくしは、何もしておりませんわ」


わたくしは静かに答えた。


「ただ、皆さまのお父様が署名なさった契約が、書いてあるとおりに働いただけ」


「そんな、そんなの、読んでいるはずが……」


「ええ。お読みにならなかったのは、存じておりましたわ」


カトリーヌが泣き出した。アデールは膝から崩れ落ちた。広間中の視線が、三人とわたくしの間を行き来していた。


「ひどい……」とミレーヌが呟いた。「お姉さまは、悪女だわ」


「それから、ミレーヌ様。首飾りのお預かりのお申し出、ありがたくお断りいたしますわ。預かり物がどうなるか、今夜はよくお分かりになったでしょう?」


ミレーヌの唇が、震えたまま動かなくなった。


わたくしは、空になったグラスを給仕の盆に戻した。


そして、三人に向かって、最後の礼をした。


「ええ、わたくしは悪女ですもの。それが何か?」


◇


王宮の外は、冷たい夜風が吹いていた。


用意された馬車は、公爵家の紋章もない、ただの黒い箱だった。ルーカスが扉を開け、わたくしが乗り込むのを待つ。


「ひとつ聞かせろ」


踏み台に足をかけたところで、ルーカスが言った。


「お前は、自分が断罪されることまで計算に入れていたのか」


わたくしは少し考えた。


「いいえ。保険をかけていただけですわ」


「保険?」


「最悪の日に備えて、ほんの少し、契約書に書き足しておくこと。商いをする者の、たしなみですわ」


ルーカスは何も言わなかった。けれど、扉を閉める直前、その口の端がほんのわずかに動いた気がした。笑ったのか、呆れたのか、わたくしには分からなかった。


馬車が動き出す。王宮の灯りが、窓の外を流れていく。


わたくしは膝の上の小箱に指先で触れた。


署名した契約は、わたくしを守る。そして、同じだけわたくしを縛る。胸の奥の文字が、それを忘れるなと言っていた。


三家が借りた金の行き先、下町の借用書は、ギルドの手に渡るだろう。年五割の紙切れを、ギルドがいつまで抱えていたがるか。


辺境の港町には、まだ市場がない。


ないのなら、作ればいい。


◇


広間の喧騒が遠のいたあと、聖女リリアは、バルコニーでひとり夜風に当たっていた。


畳んだ白い日傘の柄に置いた指先が、少し冷たい。


あの日、エレオノーラが紅茶に何かを落とすのを、リリアは見ていた。見ていて、何も言わなかった。カップを口元まで運び、飲むふりをして、それから床に倒れた。


それだけのことだ。


紅茶は、一滴も飲んでいない。


毒を盛ったのはエレオノーラで、それは本当のことだった。だから王子も、公爵も、広間の誰もが、迷わずあの女を裁いた。本当のことほど、人を動かすものはない。リリアは、それをよく知っていた。


けれど。


扉の前で葡萄酒を傾けていた、あの女の横顔が頭から離れなかった。


昨日までのエレオノーラは、もっと分かりやすい女だった。気位が高く、勘だけは鋭く、それなのに毒などという雑な手を使う令嬢。


今夜の、あの目は違った。


怯えも、怒りもない。ただ、静かに何かを数えている目。


前の世界でも、ああいう目をした女を、ひとりだけ知っていた。


「……まさか、ね」


リリアは小さく呟いて、夜の向こうへ消えていく黒い馬車を見送った。


仮にそうだとしても、と思う。辺境の港には、取引所も、帳簿もない。


――市場のない相場師なんて、ただの女よ。

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