第一話 断罪の夜
■ プロローグ 雨のウォール街
十月の雨は、この街ではいつも金の匂いがする。
午後十一時を過ぎても、ウォール街のビルの窓はまだ半分ほど灯っていた。私は傘を差さずに歩いていた。濡れるのは嫌いではない。勝った夜は、とくに。
今朝六時、私のファンドは一本のレポートを公開した。ある医療機器メーカーの決算が、いかに美しく盛られているか。四十二ページにわたって丁寧に書いた。半分は事実で、残りの半分は、事実だと信じたくなるように書いた。
その会社の株価は、昼までに半分になった。値下がりに賭けていた私のファンドは、今日だけで九桁の利益を出した。
「ミズ」
背後から声がした。振り返ると、雨の中に男が立っていた。仕立てのいいコートが、肩のあたりまでずぶ濡れになっている。
知っている顔だった。三年前に私が潰した、小さな製薬会社の創業者。あのとき私は、彼の会社の契約書の一行を見つけた。誰も読まない付属書の、誰も気にしない但し書き。そこを突けば、会社は自分の重みで崩れると分かっていた。そして実際に崩れた。
「あなたは、私のすべてを奪った」
男の声は、ひどく静かだった。
「契約書に書いてあることを、書いてあるとおりに読んだだけよ」
私はいつものように答えた。それが私の仕事で、私の誇りだった。
男の手の中で、何かが鈍く光った。男の肩越しの暗がりで、何か白いものが、小さく二度動いた。
音は思ったより小さかった。胸のあたりが熱くなり、それから急に冷たくなった。膝が濡れた石畳に落ちる。雨粒が、やけにゆっくりと頬を打つ。
倒れていく視界の端に、男の背後の暗がりが映った。
そこに、女がひとり立っていた。
顔は見えなかった。ただ、白い傘の縁と、まっすぐに伸びた背筋だけが見えた。女は男の肩越しに一度だけこちらを見て、それから、何事もなかったように背を向けた。
白い傘が、雨の向こうへ遠ざかっていく。
それが、最後に見たものだった。
そして私は、ウォール街で死んだ。
■ 断罪の夜
「エレオノーラ・フォン・ヴァイスベルク!」
王宮の大広間に、王子セドリックの声が響いた。
楽団の弦が、ひとつ、またひとつと止まっていく。踊っていた貴族たちが足を止め、輪がほどけ、気がつけばわたくしの周りだけがぽっかりと空いていた。千本の蝋燭が照らす床の上に、わたくしはひとりで立っていた。
正面には、金の髪に青い目の婚約者。その腕に寄り添うように、白い衣の少女がひとり。
聖女リリア。
人垣の端に、灰色の上着の男がいるのが見えた。王都の商会ギルドの番頭だ。舞踏会に商人がいる理由は、ひとつしかない。今夜、誰かの身分が動くと聞きつけたのだ。
「貴様の罪を、ここに読み上げる」
王子は羊皮紙を広げた。芝居がかった仕草だった。きっと鏡の前で何度も練習したのだろう。
「一つ。聖女リリアの紅茶に毒を盛り、その命を奪わんとした罪」
広間がざわめく。
「二つ。ローゼンタール伯爵家を偽りの証文で陥れ、一家を破滅させた罪」
ざわめきが大きくなる。
「三つ。王家の転覆を企てた罪」
そのとき、頭の奥で何かが割れた。
痛みではなかった。もっと冷たいもの。雨の匂いがした。この広間には降るはずのない、濡れた石畳の匂い。誰かのクラクション。胸を撃ち抜く、小さな音。
――ああ。
膝が崩れそうになるのを、わたくしは扇を握りしめて堪えた。
思い出した。何もかも。
雨の街。光る窓。潰した会社の数。そして、死。
前の人生のわたくしは、ウォール街で嘘と契約書を売り買いして生きていた。そして、その報いで撃たれて死んだ。
記憶の奔流が引いていくと、胸の奥に、焼きつけられた文字のようなものが残っていた。読んだ覚えはないのに、意味だけが分かる。
――署名した契約の文言に、背くことあたわず。
罰が何かは書かれていなかった。書く必要もないのだろう。背けば死ぬ。それだけは、言葉より確かに分かった。
なるほど、と思った。契約書で人を殺してきた女には、似合いの首輪だ。
頭が、驚くほど澄んでいた。わたくしは読み上げられた罪状を、一つずつ吟味した。あの雨の街で、決算書の数字をそうしていたように。
一つ目。毒を盛った。
ええ、盛りましたわ。致死量を。
孤児院が潰れるのを見た日だった。院長は泣きながら、聖女様を信じていたのに、と繰り返していた。胸に抱えていたのは、祝福債の束。聖女の名で売り出され、持っているだけで祝福と利息を授かるという紙切れだ。わたくしはあのとき、理屈ではなく匂いで分かったのだ。この聖女は、わたくしと同じ種類の生き物だと。
二つ目。伯爵家を陥れた。
ええ、陥れましたわ。偽の借用書で。
あの家の着ている絹は、「帝国での奉公」という嘘で娘たちを売った金でできていた。嘘で得た金なら、奪っても構わない。それが、わたくしの流儀だ。
三つ目。王家の転覆。
これは、嘘だ。
わたくしは王家に興味がない。転覆させる価値のあるものを、あの家は何ひとつ持っていない。
「この最後の罪については、証人がいる」
王子の声に応えて、人垣の中からひとりの男が進み出た。白いものの混じった髭。わたくしと同じ灰色の目。
父だった。
「娘は、王家転覆を企てておりました」
ヴァイスベルク公爵は、床を見つめたままそう言った。
「わたくしは父として、これを見過ごすことはできませぬ」
父は、一度もわたくしの目を見なかった。
この人は、何と引き換えに娘を売ったのだろう。鉱山の利権あたりだろうか。いずれ帳簿を見れば分かることだ。
「エレオノーラ様」
柔らかな声がした。王子の腕の中から、聖女リリアがわたくしを見ていた。
「わたしは、貴女を恨んではおりません」
一歩、王子の腕から前に出て、リリアは静かに続けた。
「あの日のことは、一生忘れません」
広間のあちこちから、感嘆のため息が漏れた。毒を盛られてなお、加害者を許す聖女。なんという慈悲深さ。
リリアは胸の前で手を組み、目を伏せた。
「どうかこれ以上、わたしのために誰も傷つきませんように」
涙ぐむ貴婦人がいた。王子はリリアの肩を抱き寄せ、憎しみのこもった目でわたくしを睨んだ。
わたくしは、リリアの顔から目を離さなかった。
奇妙な言い方だ、と思った。恨んでいない。忘れない。そして、祈り。どれも美しく、そしてどれも、許すとは言っていなかった。
相場師の勘が、何かを囁いていた。けれど、それが何なのかを確かめるには、今は材料が足りない。
「王の名代として、申し渡す」
王子が一歩前に出た。
「本日このときをもって、貴様の公爵令嬢としての身分を剥奪する。平民となった貴様との婚約は、当然破棄する。公爵令嬢として有する財産は、裁きの確定をもって没収し、身柄は南の港町へ追放とする」
広間が静まり返った。
誰もが、わたくしの言葉を待っていた。泣き崩れるのか。取り乱すのか。それとも、聖女に許しを乞うのか。
わたくしは扇を閉じ、ゆっくりと礼をした。
「殿下のお言葉、しかと覚えておきますわ」
それだけだった。
一瞬の間があって、それから、どこかで小さな笑いが起きた。負け惜しみだ、と誰かが囁いた。往生際が悪い、と別の誰かが言った。王子は鼻で笑い、もう用はないとばかりに背を向けた。
人垣の端で、灰色の上着の番頭が、足早に広間を出ていくのが見えた。
「連行しろ」
王子の命令で、人垣が割れた。現れたのは、黒い騎士服の男だった。
背が高い。歳は二十代の半ばほどだろうか。腰の剣は飾りではなく、使い込まれた革の柄をしている。舞踏会の華やかさの中で、その男だけが、まるで別の場所から来たように見えた。
騎士団長ルーカス。王国の騎士団を率いる男で、平民の出だと聞いたことがある。
「失礼する」
ルーカスはわたくしの前で短く頭を下げ、それから腕を差し出した。縄でも枷でもなく、ただの腕だった。
「歩けるか」
「ええ。ご心配なく」
わたくしはその腕に手を添え、広間の出口へ向かって歩き出した。左右から、かつての友人たちの視線が刺さる。ひそひそ声。扇の陰の笑い。
半分ほど進んだところで、ルーカスが低い声で言った。わたくしにだけ聞こえる声だった。
「お前の罪は本物だ」
わたくしは前を向いたまま答えた。
「存じておりますわ」
「だが」
ルーカスは、ほんの一瞬だけ、背後の王子と聖女のほうへ目をやった。
「あの聖女も、何か隠している」
わたくしは初めて、その男の顔を見上げた。
父の灰色の目でも、王子の青い目でもない。夜の森のような、深い緑の目だった。その目は、何も飾っていなかった。
「騎士団長様は、ずいぶん正直な方ですのね」
「嘘は苦手だ」
「それは、この王宮では珍しい才能ですわ」
ルーカスは何も答えなかった。ただ、歩く速さをわずかに緩めた。
出口の扉が近づいてくる。その手前、柱の陰に、三人の令嬢が固まって立っていた。
ミレーヌ。カトリーヌ。それにアデール。
昨日まで、わたくしを「お姉さま」と呼んでいた娘たちだった。わたくしの隣でお茶を飲み、わたくしの保証で家に金を借りさせ、それを平民に高利で貸して小遣いを稼いでいた娘たち。断罪が始まった瞬間、真っ先にわたくしから離れていったのも、この三人だった。
すれ違いざま、カトリーヌの手からグラスが傾いた。
赤い葡萄酒が、わたくしのドレスの裾に散った。
「あら、ごめんあそばせ」
カトリーヌは扇で口元を隠し、少しも悪びれずに言った。アデールが小さく噴き出す。
ミレーヌが、わたくしの首元を見てくすりと笑った。
「お可哀想なお姉さま。その首飾りも、どうせ没収されてしまうのでしょう? なんでしたら、わたくしがお預かりしてさしあげましょうか」
三人の笑い声が、扇の陰でさざめいた。
わたくしは足を止めなかった。ただ、三人のほうへ顔を向け、微笑んだ。
あの雨の街で、決算発表の前夜にだけ浮かべていた微笑みだった。
そして、誰にも聞こえない声で、小さく呟いた。
「あの契約には、条項がありましたわね」




