第三十三話 背中合わせ
リリアは、篝火に背を向けた。
広場の端に、乗ってきた馬車が待っていた。御者台の男が、手綱を握ったまま、こちらを見ている。
港の船乗りは、保険のない船には乗らない。海は、塞がっている。
リリアは、それでも馬車まで歩いた。白い衣の裾が、石畳の上を、音もなく滑っていく。
わたくしは、その後を追った。
馬車の扉の前で、リリアが振り返った。
「まだ、何か?」
「ええ。一つだけ」
わたくしは、扇を閉じた。
「前世の分も含めて、利息をいただきに参りましたわ」
◇
リリアは、わたくしの顔を見ていた。
篝火の明かりは、ここでは半分しか届かない。その薄明かりの中で、リリアの顔は、断罪の夜と同じくらい穏やかだった。
「利息、ですか」
「元本は、今夜、合議の皆さまが取り立ててくださいましたもの」
わたくしは、一歩だけ近づいた。
「撃たせたのは、あなた?」
リリアは、すぐには答えなかった。
畳んだ白い日傘の柄に、指を置いた。叩きはしなかった。
嘘は、つけない。黙ることはできる。けれど、この人は、もう黙らないだろう、とわたくしは思った。ハンスの問いに、黙らなかったように。
「ええ」
リリアは言った。
雨の音は、しなかった。耳の奥は、静かだった。
「ホロウェイさんは、わたしの話を、最後まで信じてくれた人でした。それから、あなたに、会社を取られた人でした」
リリアは、日傘の柄に置いた指を、見下ろした。
「あの夜、ホロウェイさんは、最後の最後で迷いました。あなたが振り返ったときに。だから、わたしが二度、叩いたの」
リリアは、日傘の柄から指を離した。
「あなたが先に、ホロウェイさんの会社を潰したのよ」
本当のことだった。
わたくしは、それを知っていた。前の世界で、わたくしが契約書の一行から会社ごと崩した男。雨の通りで、背後から声をかけてきた男の顔を、わたくしは、撃たれる前に一度だけ見た。知っている顔だった。
あの二度の音は、合図だった。迷った男の背を、押す合図。
詫びの言葉は、知っている。
前の世界でも、この世界でも、口にしたことがない。
あの晩、錨亭でも、口にしなかった。今夜も、口にしなかった。
「ええ」
わたくしは言った。
「あの方の分は、わたくしの帳簿に、返していない借りとして載っておりますわ。消すつもりは、ございません」
リリアは、わたくしの顔を、しばらく見ていた。
それから、ほんの少しだけ、目を細めた。表情は、暗くて読めなかった。
◇
止まっていた蹄の音が、また動き出した。広場に、入ってくる。
黒い外套の騎士が、七騎。その後ろに、窓に格子のはまった馬車が一台。篝火の明かりの縁で、馬を止めた。
先頭の一騎から、背の高い影が降りた。
ルーカスだった。
王都からずっと、南の道を、リリアの馬車の後ろについてきた音の主だった。
ルーカスは、馬車の前まで歩いてきた。わたくしには目もくれず、リリアの前に立った。
懐から、一枚の紙を取り出す。
「令状だ」
低い声だった。
「陛下の名で、騎士団長の俺が出す。王子殿下の印は、ない」
リリアの目が、紙の上を滑った。
「罪状は二つ。一つ目。伯爵家が帝国へ娘たちを送っていた経路に、金を出していたこと。砦の牢にいる帝国の船乗りが、白い外套の男から船賃を受け取ったと言っている。その男の金は、大聖堂の窓口の袋から出ていた」
ルーカスは、紙をめくった。
「二つ目。祝福債で、民の金を詐取したこと。王国の法がそれを罪と呼ぶかどうかは、王の裁きで決める。大司教ヴァルターの名も、同じ令状にある」
リリアは、紙から目を上げた。
「この国で、わたしは嘘を一度も申しておりません」
「知っている」
ルーカスは、紙を畳んだ。
「合議が済むまで、外で待った。あれは、港の裁きだ。俺の裁きは、これからだ」
ルーカスは、令状を外套の内にしまった。
「断罪の夜から、お前たちを見ていた。高すぎる利息は、どこかで誰かが損をしている印だ。嘘をつかずに奪った金も、金は金だ」
◇
リリアは、抗わなかった。
騎士の一人が、格子の窓の馬車の扉を開けた。
リリアは、乗ってきた馬車の座席に、白い日傘を置いた。
畳んだまま、柄を上にして。
それから、格子の窓の馬車のほうへ歩いていった。扉の前で、一度だけ、わたくしを振り返った。
「エレオノーラ様」
「何かしら」
「あなたの帳簿が、いつか合わなくなる日を、祈っております」
祈りだった。嘘ではない。
扉が閉まった。
馬車が、篝火の明かりの外へ、ゆっくりと出ていった。騎士が四騎、その前後についた。
乗ってきた馬車の座席に、白い日傘が残っていた。
誰も、それを叩かなかった。
◇
ルーカスが、わたくしのほうへ向き直った。
二騎の騎士が、少し離れたところで待っている。
「台帳を撒いたな」
「ええ」
「王都の利札の列に、千部。王家の金貨の発行台帳を。王家への誹謗だ」
「ええ」
ルーカスは、しばらく黙っていた。
「お前は、南の道を、その一度に数えさせる気だったろう」
わたくしは、答えなかった。
「数えん。あれは、俺の仕事だ。聖女を王都の群衆に触れさせずに外へ行かせるには、道を一本だけ開けて、後ろからついていくのがいちばんだった。頼まれなくても、俺はそうした」
ルーカスは、懐の令状を、外套の上から一度押さえた。
「だから、台帳の件を、一度と数える」
それから、短く言った。
「見逃す」
わたくしは、扇で口元を隠した。
「……ずるい方」
ルーカスは、何も答えなかった。
◇
港の桟橋の先は、静かだった。
篝火の明かりは、もうここまでは届かない。鈴懸の木の下で、マルタが分銅を片づける音が、遠くかすかに聞こえるだけだった。
ルーカスは、桟橋の先に立って、海を見ていた。
わたくしは、その隣まで歩いていった。それから、彼に背を向けて立った。
彼は海を見ていた。わたくしは、町のほうを見ていた。錨亭の窓の灯り。鈴懸の木の下の篝火。封印の紙が貼られた、古い倉の黒い影。
あの夜と、同じ形だった。
触れてはいない。けれど、背中のすぐ後ろに、彼の気配があった。
「今度は、勝ったのか」
背中越しに、ルーカスが言った。
「二度目はございません、と申しましたでしょう」
波の音がした。
ルーカスが、小さく息を吐くのが分かった。
「借りは返した」
ルーカスは言った。
「次はお前だ」
次に捕らえるのは、お前だ。そういう意味なのだろう。
けれど、その声は、令状を読み上げたときの声とは、わずかに違っていた。
わたくしは、町の灯りを見たまま答えた。
「ええ。帳簿につけておきますわ」
貸しにか、借りにか。どちらに書くかは、まだ決めていない。
背中の気配が、離れていった。
足音が、桟橋の板を鳴らして、遠ざかっていく。
わたくしは、振り返らなかった。
◇
夜明け前に、王都から早馬が来た。
錨亭の戸口で、夜通し馬を替えてきた泥だらけの使者が、封をした書状を差し出した。王家の紋の封蝋。
宛名は、こうあった。
――盟約の代表、エレオノーラ殿。
取引所の、ではなく、盟約の。王子殿下は、二十四人のことを、もうご存じなのだ。
封を切る。日付は、一昨日の夜だった。今夜ここで何があったのか、書いた方はまだご存じない。
中身は、短かった。王家の金庫のこと。倉の封印のこと。冬至の前の晩、王立図書館にて、話し合いの席を設けたい、と。
書状のいちばん下に、署名があった。
――婚約者 セドリック。
わたくしは、その署名を眺めた。
断罪の夜、あの方は、広間の真ん中で婚約の破棄を宣言なさった。口で。書面ではなく。
成人の月に、わたくし自身の名で結び直した婚約の書面は、今も、破られないまま残っている。
まだ、婚約者でいらっしゃるおつもりなのね。
わたくしは、書状を畳んで、懐にしまった。
窓の外で、空が白みはじめていた。




