第三十二話 最後の一票
グリムが、卓代わりの板の上に、小箱を一つ置いた。
蓋を開ける。
中には、利札の束が二つ入っていた。祝福債から切り取った、半年ごとの利札。片方は、半年前の利払いの分。もう片方は、あの火曜日の分。
「利札だ。この取引所の代表が、大司教から借りた祝福債から切り取ったものだ。額面四万の、二回分」
輪の中の何人かが、身を乗り出した。
「半年前の分は、窓口に出さずにしまっておいた。もう片方は、窓口が払いを止めた日の分だ」
グリムは、利札を一枚つまみ上げて、篝火にかざした。
「今、窓口に出しても、この利札は払われん。払う金が、どこにもないからだ」
「金庫に、金がなかったってことかい」
錨亭のおかみが言った。
「大聖堂の窓口の金庫には、利息の分の金は、とうになかった」
グリムは、利札を小箱に戻した。
「王家の金貨は、薄めても足りなかった。足りない分を埋めていたのは、新しく祝福債を買った者の金だ。新しい買い手が金を払う。その金で、古い買い手に利息を払う。新しい買い手がいなくなった日に、利札は紙になる。それが、あの火曜日だ」
◇
「ひとつ、よろしいですか」
ハンスが、口を開いた。
輪のいちばん端で、自分の祝福債の束に手を置いたまま。
「わたしは、両替商です。だから、言っておかなけりゃならないことがある」
ハンスは、板の上の四枚の手形を見た。
「ひと月あまり前、うちの店に、王都の商人が来ました。白い外套を着た男です。新しい金貨を山ほど持って、旧金貨に替えてくれと。お嬢さんの決めた割増を払って、全部替えていきました」
「それが、この手形の旧金貨だと?」
塩商の親父が聞いた。
「手形と引き換えに取引所の倉に入った旧金貨を、わたしは数えました。うちの店から出ていった旧金貨でした。刻印の年と打ち傷を、一枚ずつ帳面につけてありますから。間違いようがない」
ハンスは、少し間を置いた。
「それから、あの商人が置いていった新しい金貨は、袋に入っていました。大聖堂の窓口の袋です。紋の入った。袋は、今もうちの店の奥にあります。中の金貨と一緒に」
輪が、静かになった。
窓口の袋。新しく祝福債を買った人々が、金を払い込む窓口。
ハンスは、篝火の向こうの白い衣に、顔を向けた。
「聖女様。袋は、使い回せます。だから、聞かせてください」
リリアが、ハンスを見た。
「この手形の旧金貨に化けたのは、窓口の金です。その窓口から、祝福債の利息は、どこから払っていたのですか」
篝火が、はぜた。
あの火曜日、露台の上で、リリアは答えなかった。群衆の前で、唇を開いて、閉じた。
けれど、今は、露台の上ではない。
二十人が、リリアの顔を見ている。ここで黙れば、合議は、黙ったことを答えとして受け取るだろう。リリアにも、それは分かっているはずだった。
そして、本当のことを言っても、まだ負けではない。リリアは、そう読んでいるのだろう。
「新しく買ってくださった方々のお金から」
リリアは、静かに言った。
「大聖堂は、そのお金で、利息を払ってまいりました」
輪の中で、誰かが息を呑んだ。
「……それを詐取だとは、王国の法は申しておりません。祝福債は、大聖堂が出し、王家が利息を保証した債券です」
どちらも、嘘ではなかった。
リリアは、嘘を一つもつかずに、自分の足場を示していた。王国の法。リリアがずっと立ってきた場所。
◇
ハンスは、しばらく黙っていた。
それから、苦い顔で笑った。
「わたしは、まだ迷っています」
ハンスは、手形の一枚を見下ろした。
「両替商にとって、手形は信用です。この取引所の手形は、王都でも帝国でも、金貨と同じに通ってきた。それを、自分たちで無効にする。そうしたら、港の手形は危ない、と言う者が出る」
「出るだろうな」
塩商の親父が、うなずいた。
「火曜日の前にも、出ましたね。お嬢さんが負けたのなら、港の手形も危ない、と言って、預け金を引き揚げていった商人が三人」
「おった」
「わたしは、あの三人の気持ちが分かる。両替商ですから」
ハンスは、一枚目の手形を指で引き寄せて、篝火に向けた。
券面のいちばん下の一行が、篝火の明かりに浮かんだ。
――本手形は取引所規則に従う。
「けど、この手形には、ちゃんと書いてある。規則に従う、と。受け取った者も、それを読んで受け取ったはずだ」
ハンスは、手形を板の上に戻した。
「書いてあるとおりにするのが、払うということです。書いてあることを、こっちの都合で曲げたら、それこそ、港の手形は二度と通らない」
それから、リリアのほうを見た。
「聖女様のおっしゃるとおり、王国の法は、そう言わんでしょうね。王家が保証していたんですから。けど、ここで決めるのは、王国の法じゃない。この木の下の、二十人です」
◇
ハンスは、膝の上の祝福債の束を持ち上げた。
紐を解かずに、そのまま、篝火の前の板の上に置いた。四枚の手形の隣に。
「わたしは、この札で、ずいぶん儲けました。聖女様の言うとおりです。窓口と港の値の差で、何年も」
ハンスは、札から手を離した。
「無効になった手形の金は、祝福債で損をした者に返る。わたしの札も紙になったから、損をした者の一人に、数えられるのかもしれない。規則は、わたしに辞退しろとは言っていません」
ハンスは、首を横に振った。
「けど、わたしの札は、返す先には入れないでください。儲けた分で、もう払ってもらっています」
グリムが、帳面に何かを書きつけた。
それから、顔を上げずに付け加えた。
「取引所の代表の利札二回分も、同じだ。返す先には入れん。それから、白い外套の男がハンスの店で旧金貨に替えたときの割増。代表の取り分になった分も、返す先に回す。本人が、そう決めている」
輪の外で、わたくしは黙っていた。
ハンスは、手を挙げた。
「無効に」
◇
グリムが、一人ずつ名を呼んだ。
「塩商」
「無効だ」
「樽屋」
「無効に」
「船大工」
親方は、腕を組んだまま、黙って手を挙げた。
「錨亭」
「無効だよ」
「マルタ」
マルタは、分銅の箱を足元に置いた。
「無効」
名が呼ばれるたびに、篝火の明かりの中に、手が一本ずつ上がっていった。
最初に名を呼ばれる前から、ハンスの手は上がっていた。
「二十人、全員の一致だ」
グリムは、規則書を開いた。それから、先ほどのただし書きを、もう一度読み上げた。
「ただし、事情を知らずにその手形を受け取った者には、盟約が券面の金額を支払う」
グリムは、規則書から顔を上げて、リリアを見た。
「持参人に聞く。この手形を、事情を知らずに受け取ったか」
リリアは、答えなかった。
知りませんでした、とは言えない。言えば、嘘になる。
篝火の音だけがした。
「持参人は、窓口の金の出どころを、自分の口で言った。ただし書きには当たらん。盟約が払う分は、ない」
グリムは、帳面と規則書を並べた。
「四枚の手形は、振り出しの時点にさかのぼって無効とする。手形と引き換えに預かった旧金貨は、規則書のとおり、被害を受けた者への返還と救済に充てる。この手形なら、祝福債で損をした者だ」
それから、かすかに顔をしかめた。
「預かり金は、倉の奥だ。倉には、王家の封印が貼ってある。封印が解けたら、マルタが量って、返す」
グリムは、帳面の一行に、短く書きつけた。
――返還。
暗がりの木箱の上から、帆布屋と干し肉屋と縄屋が立ち上がった。三人とも、それぞれの家へ走っていった。
戻ってきたとき、三人はそれぞれ、袋を抱えていた。改正のときに一人百枚ずつ受け取った礼と、三人で分けた仲立ちの礼。マルタが無言で受け取って、一つずつ秤の皿に載せた。
「改正の礼が三百、仲立ちの礼が百。揃った」
マルタは、分銅を片づけながら、誰にともなく言った。
「けど、預かり金と合わせたって、大聖堂の前に座ってる人たちの損の、半分にも届かないよ」
グリムは、何も答えなかった。
わたくしも、答えなかった。答えは、まだ、この木の下にはない。
◇
リリアが、輪の外のわたくしを見た。
篝火の向こうで、その目は、まだ穏やかだった。穏やかなまま、底のほうが冷えていた。
「エレオノーラ様。あなたは、署名に背けないはずでしょう」
わたくしは、輪の外から、一歩だけ篝火に近づいた。
合議のあいだ、一度も口を開かなかった。開く必要がなかった。
「背いておりませんわ」
わたくしは言った。
「払いますわ、と申し上げました。書面のとおりに、と。書面は、券面の最後の一行まででございます。規則に従う、と書いてある手形を、規則に従って扱っただけ。一字も、曲げておりませんの」
リリアは、わたくしの顔から目を離さなかった。
「……あなたは、悪い人ですね」
わたくしは、扇を開いた。
「ええ。悪女ですもの」
◇
篝火の外の闇の中で、蹄の音がしていた。
街道のほうから。王都を出てからずっと、リリアの馬車についてきたはずの音。
その音が、広場の外で、止まった。




