第三十一話 仲立ち人の欄
手形の束は、思っていたより薄かった。
旧金貨で六千枚を超える。それが、紙にすれば、指でつまめるほどの厚みしかない。
わたくしは、リリアの手から、それを受け取った。
一枚目をめくる。取引所の名。券面の金額。持参人払い。振出人の欄に、わたくしの名。仲立ち人の欄に、帆布屋の名。
二枚目。干し肉屋。三枚目。縄屋。四枚目。また、帆布屋。
すべて、わたくしが振り出した手形だった。
「払いますわ」
わたくしは言った。
「書面のとおりに」
胸の奥の文字が、静かにそこにあった。
リリアが、小さく微笑んだ。篝火の光が、その頬の上で揺れた。
「ありがとうございます、エレオノーラ様」
「ただ」
わたくしは、一枚目の手形を、篝火のほうへ向けた。
券面のいちばん下。規則書どおりの一行。
――本手形は取引所規則に従う。
「書面は、ここまででございますの」
◇
最初に声を上げたのは、マルタだった。
「判定を、求めるよ」
秤の前から、マルタが一歩出た。分銅の箱を抱えたまま。
「その手形が、詐取した金で振り出されたものかどうか。規則書のとおり、合議で決めてほしい」
篝火のまわりに散っていた盟約の者たちが、一人、また一人と、鈴懸の木の下に集まってきた。塩商の親父。樽屋の女主人。船大工の親方。錨亭のおかみ。ハンス。帆布屋。干し肉屋。縄屋。
二十四人。
わたくしは、手形の束をグリムに預けて、輪の外へ出た。
篝火の明かりの届くぎりぎりのところで、足を止める。振り返って、輪のほうを見た。
振出人は、自分の振り出した手形の判定には加われない。
リリアは、輪の外のわたくしを見て、それから、輪の中に残った顔を、一つずつ数えていった。
二十三。
その目が、帆布屋のところで、一瞬止まった。
帆布屋は、篝火を見ていた。誰の顔も見ていなかった。
◇
グリムが、規則書を開いた。
港町の取引所の、最初の規則書。表紙の角が擦り切れて、紙が黄ばんでいる。わたくしが書き、二十四人が名を連ねた紙。
グリムの低い声が、篝火の上に落ちた。
「詐取した資金で振り出された手形は、振り出しの時点にさかのぼって無効とする。ただし、事情を知らずにその手形を受け取った者には、盟約が券面の金額を支払う」
一拍、間があった。
「無効とした手形の分の金は、被害を受けた者への返還と救済に充てる。手形の判定は、判定される手形に関わる者を除いた、全員の一致による」
グリムは、規則書を閉じた。
それから、わたくしが預けた手形の束を開いた。
「振出人、エレオノーラ。仲立ち人、帆布屋」
一枚目を、篝火の前の板の上に置く。
「振出人、エレオノーラ。仲立ち人、干し肉屋」
二枚目。
「振出人、エレオノーラ。仲立ち人、縄屋」
三枚目。
「振出人、エレオノーラ。仲立ち人、帆布屋」
四枚目。
板の上に、四枚の手形が並んだ。四枚とも、券面の同じ場所に、同じ欄があった。
仲立ち人の欄。
リリアが、穏やかに言った。
「グリムさん。関わる者というのは、手形を振り出した方と、手形を求めた方のことでしょう。仲立ちの方は、話をつなぐ方です。手形を払う方でも、受け取る方でもありません」
嘘ではなかった。リリアは、そう読んでいるのだ。読んだとおりのことを、口にしている。
グリムは、リリアのほうを見なかった。
「この盟約では、名が出る者は加わらん」
「名が出る者?」
「この秋だ。王都の運河で使う百艘の舟に、保険をかけるかどうかの合議があった」
グリムは、輪の外のわたくしを顎で示した。
「うちの代表は、席を外した。自分が注文する舟の話だったからだ。規則書が求めたわけではない。だが、誰も止めなかった」
リリアの目が、わたくしのほうへ動いた。
わたくしは、何も言わなかった。
「規則書は、関わる者、としか書いておらん。何が関わるかは、この盟約が決めてきた。ずっと、そうしてきた」
グリムは、板の上の四枚を、指で一度ずつ叩いた。
「手形の券面に、名が書いてある。それが、関わるということだ」
塩商の親父が、腕を組んだまま、低く言った。
「そうだ。わしらは、そうしてきた」
グリムは、手形の控えの束を持ち上げた。紐で一綴りに綴じてある。
「この四枚は、一人の男が、ひと月のうちに持ち込んだ一つの金だ。控えも、代表の言いつけで一綴りにしてある。判定も、一つだ」
グリムは、控えの綴りを板の上に置いた。
「四枚のどれかに名がある者は、この判定に関わる。帆布屋、干し肉屋、縄屋。三人とも、外れる。異存のある者は」
輪の中で、誰も口を開かなかった。
リリアの唇が、かすかに動いた。けれど、言葉にはならなかった。
リリアが読んできたのは、条文だった。この木の下で二十四人が何を当たり前にしてきたかは、どの写しにも書いていない。
◇
篝火の音だけがしていた。
誰も、動かなかった。
それから、輪の中で、一人の男が立ち上がった。
帆布屋だった。
痩せた男だった。港でいちばんの帆を縫う手を、腰の前で固く組んでいる。その手が、震えていた。
「……外れるのは、当たり前だ。おれの名は、二枚に書いてある」
帆布屋は、板の上の手形を見下ろした。
「それだけじゃない。仲立ちの礼を、もらった」
輪が、ざわめいた。
「白い外套の男からだ。一度目の手形のときに、四度分まとめて。旧金貨で、百枚」
帆布屋は、干し肉屋と縄屋のほうを見た。二人とも、下を向いていた。
「三人で、分けた。四枚とも、おれたち三人の手形だ」
マルタが、帆布屋を見ていた。何も言わずに。
「あの改正のときも、そうだった」
帆布屋は、ほとんど聞こえないほどの声で続けた。
「空売りを禁ずる一条を足せと言い出したのは、おれだ。あの男が、店に来た。あのときも、礼を受け取った。仲立ちの礼の話が来たのは、手形の前の月だ」
グリムは、帆布屋から目を離さずに、帳面に一行書きつけた。
帆布屋は、篝火から離れた。
輪の外へ、出ていく。
干し肉屋が、立ち上がった。縄屋が、続いた。
三人が、わたくしと同じ側の暗がりに立った。
輪の中に残ったのは、二十人だった。
◇
リリアの顔から、微笑みが消えたわけではなかった。
ただ、その微笑みが、少しだけ硬くなった。
わたくしには、それが分かった。
リリアは、この市を、建物と法で数えてきた。王都の路上と広場を王命で塞げば、わたくしの売り場はなくなると考えた。規則書の条文を王国の法で測れば、祝福債は詐取にならないと考えた。合議は、二十四の票の数だと考えた。
二十四人の、一人一人の顔は、数えなかった。
盟約の外の者が手形を求めるときは、盟約の者の仲立ちが要る。秋の合議に、その一条を出したのは、わたくしだった。誰が仲立ちに立つかで、誰が票を失うかが決まる。一人の客の控えを一綴りにさせたのも、そのためだった。空売りを禁ずる改正の合議で揺らいだ三人を、わたくしは、あの日から一度も責めなかった。責めずに、そのまま盟約の席に座らせておいた。
いつか、あの三人の名が、リリアの手形に書かれる日のために。
◇
帆布屋が、暗がりの中で、わたくしのほうを向いた。
「お嬢さん。おれは、盟約を退く。礼にもらった金は、改正のときの分も、仲立ちの分も、返す。どこに返せばいいのか分からんが」
干し肉屋と縄屋が、うなずいた。
「退くな」
声を上げたのは、マルタだった。
マルタは、輪の中から、暗がりの三人を睨んでいた。
「席が欠けたら、新しい者を迎えるまで、規則書は直せない。迎えるのにも、全員の一致が要る。あんたたちが退いたら、この盟約は止まっちまう」
「けど、マルタ」
「座ってな。票を持たずに」
マルタは、分銅の箱を抱え直した。
「礼の金は、量って、返す先に回す。返す先は、今夜決まる。それまで、そこに座ってな」
帆布屋は、しばらくマルタの顔を見ていた。
それから、暗がりの中の、木箱の上に腰を下ろした。干し肉屋と縄屋も、その隣に座った。
わたくしは、輪へ向き直ったマルタの背中に、心の中で礼を言った。三人の席は、わたくしにも要る。この先、二十四人の名が一つも欠けずに揃わなければ書けない紙が、一枚ある。
◇
グリムが、輪の中の二十人を見回した。
「判定は、今夜のうちにする。二十人の、全員の一致だ」
リリアは、二十人の顔を見ていた。今度は、一人ずつ、ゆっくりと。
塩商の親父。樽屋の女主人。船大工の親方。錨亭のおかみ。マルタ。
その目が、輪のいちばん端で止まった。
ハンスが、そこに座っていた。
膝の上に、紐で縛った紙の束が載っていた。王都の運河の上でも抱えていた、自分の祝福債。今は、額面十枚で銀貨一枚にもならない紙。
「ハンスさん」
リリアが、柔らかく呼びかけた。
「あなたは、祝福債の売り買いで、ずいぶんお儲けになりましたね」
本当のことだった。
ハンスは、膝の上の紙の束を見下ろしたまま、何も答えなかった。




