第三十話 逃げ道の数え方
大司教ヴァルターは、大聖堂の奥の書斎で、窓の外を見ていた。
あの火曜日の、翌朝だった。大聖堂の前の通りには、まだ人が残っていた。閉じた窓口の扉の前に座り込み、紙切れになった祝福債を握りしめている人々。
「お返しに参りましたわ」
わたくしは、書斎の卓の上に、紐で縛った紙の束を置いた。
大司教が、振り返った。
「……何をだ」
「お借りしていた祝福債ですわ。額面で、金貨四万枚分」
わたくしは、懐から、あの晩の書面を取り出した。錨亭の酒場の隅で、大司教が震える手で名を書いた書面。
「返すものは、同じ祝福債を、同じ額面分。書面のとおりに」
大司教は、束の一枚をめくった。
「……利札が、切られておる」
「書面には、同じ祝福債を同じ額面分、とだけ。利札のことは、どこにも書いてございませんわ」
大司教は、束を見下ろした。
祝福債だった。大聖堂の紋と、聖女の印が刷られた、本物の祝福債。額面も、きっちり四万枚分あった。
ただ、今朝の値で言えば、額面四万の束が、金貨二百枚にも満たない。
「……そなた」
大司教の声が、震えた。
「これを、いくらで買い戻した」
「千枚に足りませんでしたわ」
「わしが貸したときには、四万の値打ちがあったのだぞ」
「ええ。ですから、四万の値打ちのあるうちに、売らせていただきましたの。借り手は、いつでも返せる。書面に、そう書いてございますわ。期日の冬至まで、まだ幾日かございますでしょう?」
わたくしは、書面を卓の上に広げた。
――借り手は、右の日までのいつでも、返却することができる。
「早く返したくなるだろう、と笑っておいででしたわね」
大司教の顔から、血の気が引いていった。
「それから、もう一つ」
わたくしは、扇を開いた。
「大司教様が受け取っておいでだった利息は、どなたのお金だったか、ご存じ?」
「……何の話だ」
「新しく祝福債を買った方々のお金ですわ。窓口の前に、今も座っておいでの」
わたくしは、窓の外を扇で指した。
「神様が帳簿をおつけになるなら、そのお名前は、そこに書いてあるはずですわ」
大司教は、何も答えなかった。
わたくしは、祝福債の束をそのまま卓の上に残して、書斎を出た。
◇
その日の昼に王都を発ち、早馬を乗り継いだ。グリムとマルタと盟約の者たちは、水曜の夜明け前に、組合の早舟で運河から河港へ出て、秤ごと、夜通し川を下っていた。魔石を積んだ十艘も、同じ舟列だった。港町に着いたのは、火曜日から二日後の夕方だった。
取引所に借りていた古い倉の扉には、王家の紋の入った封印の紙が貼られていた。南の港町ヴェルムの取引所の建物を、閉じよ。
扉の前に、衛兵が二人立っていた。困ったような顔で。
建物の中には、誰もいなかった。
鈴懸の木の下に、全員がいたからだ。
篝火が三つ。木の根元に、公の秤。板に、今日の値が書かれている。マルタが秤の前に立ち、漁師たちの籠を一つずつ量っている。グリムが、その横で帳面をつけている。
塩商の親父が、塩の樽を転がしながら、わたくしに気づいて顎をしゃくった。
「戻ったか。建物は閉じられたが、規則書のとおりだ。建物が使えなくなっても、取引は二十四人の集う場所で続ける」
「ええ。わたくしが書いた一条ですもの」
「知っとる」
帳面から顔を上げずに、けれど輪の皆に聞こえる声で、グリムが言った。
「勅許第四十七号だ。言うときが来た。港の市を港の者が立てるのは、二百年前から許されている。王命で閉じられるのは、建物だけだ」
塩商の親父は、樽を転がしていった。
◇
日が落ちる前、鈴懸の木の下から錨亭へ戻ると、部屋で、グリムが帳面を開いた。
「この局の出入りだ」
「おいくら?」
「祝福債の売りの代金、額面で四万。紋のとおりに魔石に替えた。買い戻しに、千足らず。手元は、四万五千と二百ほど」
「中身は」
「魔石で四万。旧金貨で五千と二百ほど。前の局の六千二百から、買い戻しの分を払った。あの商会は、金貨を紋で数えた。魔石の値札は、旧金貨に値打ちがあったころのままだった。だから、魔石を旧金貨の目方で数え直しても、四万は四万だ」
グリムは、帳面を閉じた。
「それから、利札だ」
卓の上に、小箱が一つ置かれた。火曜日の前の晩に切り取った、二回分の利札。グリムが、蓋を開けた。
「受け取らずに溜めた利札が、ここにある。どの利札も、新しい買い手の金で払われるはずだったものだ」
わたくしは、小箱の蓋を閉めた。
「使いますわ」
「いつだ」
「もうすぐですわ。この利札は、払えない利札。払えないものを払うと約束して集めたお金は、詐取したお金ですもの。詐取したお金なら、返す先がございますわ。大聖堂の扉の前に、紙切れを握って座っておいでの方々に」
◇
南へ向かう街道を、一台の馬車が走っていた。火曜日の夜更け、関所が閉じられてすぐに、王都を出た馬車だった。宿場で馬を替えながら、夜も止まらずに。
白い衣の女が、窓の外を見ていた。
リリアは、逃げ道を数えていた。
前の世界で覚えた習慣だった。どれほど追い詰められていても、出口の数だけは数える。
あの雨の夜も、数えてあった。ホロウェイさんが、あの女に会社を潰された男が、雨の通りで待っていた夜も。
一つ目。海。
南の港にある商会の船には、乗り手がいない。帝国の船も、もう来ない。海は、塞がっている。
二つ目。陸。
騎士団長は、王都の関所をすべて閉じさせた。北の街道も、東の街道も、西の街道も。
ただ一つ、南へ向かう街道だけが、開いていた。
なぜ南だけが開いているのか。リリアには、分かっていた。誰が開けさせたのかも。
罠だと、分かっていた。
それでも、手形がある。あの人は、署名に背けない。
三つ目。運河。
王都の運河は、王命の外だ。逃げる道として、自分で開けておいた。
けれど、船頭組合は、舟を出さなかった。盟約に追われる者の荷を積めば、積荷保険は切れる。約款に、そうあるという。
それに、運河にかかる三十いくつの低い橋は、手を伸ばせば舟の客の顔に届く高さだった。その橋の上には、あの火曜日の夜から、群衆が立っている。
運河は、使えない。
残るのは、一つだけだった。
リリアは、懐に手を当てた。
手形の束が、そこにあった。南の港町の取引所の、為替手形。旧金貨で六千枚を超える。振出人の欄には、すべて、あの人の名。
この手形は、必ず払われる。
港の規則書には、詐取した資金で振り出された手形は、さかのぼって無効とする、という一条がある。けれど、それを決めるのは盟約の合議だ。判定は、手形に関わる者を除いた全員の一致による。外れるのは、振出人のあの人だけ。残る二十三人には、帆布屋と、干し肉屋と、縄屋がいる。
一人でも首を横に振れば、手形は無効にならない。
手形を、ほかの誰かに売って逃げることも考えた。けれど、火曜日のあとの王都にも港にも、旧金貨六千枚分の手形を買える者はいない。この紙を金に替えられるのは、振り出した取引所だけだ。
リリアは、窓の外の、近づいてくる港町の灯りを見た。
馬車の後ろで、遠く蹄の音がしていた。王都を出てから、ずっと。近づきもせず、離れもせずに。
◇
鈴懸の木の下の篝火は、夜になっても焚かれていた。
わたくしは、秤の前に立っていた。マルタが、片づけを終えて、分銅を箱にしまっている。グリムは、篝火の脇で、利札の小箱を膝に置いていた。
街道のほうから、馬車の音がした。
篝火の明かりの中に、白い衣が現れた。
畳んだ白い日傘を、片手に持っている。もう片方の手に、手形の束。
広場の盟約の者たちが、一人、また一人と、手を止めて振り返った。
篝火の輪の端で、帆布屋が、手にした帳面を取り落とした。拾おうとして、その手が震えていた。
リリアは、まっすぐに鈴懸の木の下まで歩いてきた。わたくしの前で、足を止めた。
篝火の向こうで、その顔が、穏やかに微笑んでいた。
「ごきげんよう、エレオノーラ様」
リリアは、手形の束を差し出した。
「手形を、お金に替えてくださいな」




