第二十九話 橋の上
日が沈んで間もなく、屋敷の門の前で、父が待っていた。
門番の外套の上から、灯りの光が斜めに差していた。手に、一枚の紙を持っている。
「王命だ」
父は言った。
「王子殿下が、たった今、出された。南の港町の取引所の建物を閉じよ、と。王家を誹謗する紙を撒いた者の市だから、と」
わたくしは、紙を受け取ろうとして、手を止めた。
父が、わたくしの目を見ていた。
和平の翌朝、王命を卓の端に置いて、目を合わせずに去っていった人が。灰色の目で、まっすぐに。
「……聖女様が、お止めにならなかったのね」
「止めようとしたそうだ。殿下が、聞かなかった」
父は、紙をわたくしの手に押しつけた。
「殿下は、もう聖女の言うことを聞かん。今日、広場で、あの方は大丈夫だと言わなかった。殿下は、それを露台のすぐ後ろで見ておられた」
わたくしは、紙を広げた。
――南の港町ヴェルムの取引所の建物を、閉じよ。
建物を。
わたくしは、紙を畳んだ。
「ありがとう存じますわ、お父様」
父は、何も言わずに門の前へ戻っていった。
門の灯りの下で、その背中が、少しだけまっすぐに見えた。
◇
夜の運河には、舟が浮かんでいた。
朝と同じ百艘。けれど、今度は、売り手と買い手の板が入れ替わっていた。
売り手の板には、ギルドの手代たちが座っていた。昼に運河で買い上げた祝福債の束を抱えて。聖女の言いつけを待つ者は、もういなかった。王都のどこにも、もう売れる場所はない。窓口も、両替所も閉じた。路上と広場は、王命で塞がれている。
残っているのは、運河だけだった。
買い手の板には、盟約の商人たちが座っていた。
「額面四万分だけ」
桟橋で、わたくしはグリムに言った。
「同じ祝福債を、同じ額面分。冬至までに、大司教様にお返しする分だけ。それ以上は、一枚も買いませんわ」
「値は」
「向こうの言い値で」
グリムが、ちらりとわたくしを見た。
「言い値など、もうない。あれは、紙だ」
「ええ。ですから、言い値で」
「なぜだ」
「叩いて買えば、底の値をつけたのは、わたくしになりますもの。払った金貨は、ギルドの空の金庫に戻りますわ。両替所の窓口から、並んでいる方々の手に」
夜半までに、額面四万分の祝福債が、盟約の商人たちの膝の上に戻ってきた。払ったのは、港から運ばせておいた旧金貨で、千枚に足りなかった。投げ売りの値より、ずっと高い。向こうが言った数字を、そのまま払ったからだ。
朝に舟で売り、夜に同じ舟で買い戻す。
同じ舟。同じ板。売り手と買い手が、入れ替わっただけ。橋の陰で受け渡さないのも、朝と同じだった。
◇
大橋の上は、群衆で埋まっていた。
窓口が閉じ、両替所が閉じ、行き場を失った人々が、王宮へ押し寄せていた。給金を払え。祝福債を返せ。聖女を出せ。叫び声が、夜の王都の石壁に跳ね返っていた。
わたくしは、運河から石段を上がり、大橋のたもとに立っていた。
橋の中ほどに、騎士団の黒い列が見えた。王宮へ向かう群衆の前に、盾を並べて立ちはだかっている。その真ん中に、背の高い影があった。
ルーカスだった。
王宮の門から、伝令が駆けてきた。ルーカスの耳元で何か告げ、すぐに引き返していく。王子殿下のご命令だ、と誰かが叫んだ。抜いてでも散らせ、と。
群衆の中から、石が一つ、飛んだ。
騎士の盾に当たって、乾いた音を立てた。
もう一つ。もう一つ。
騎士たちが、身構えた。群衆が、怒鳴り声とともに、盾の列へ押し寄せた。
ルーカスの右手が、剣の柄にかかった。
けれど、そこで止まっていた。抜くでもなく、離すでもなく。
わたくしは、群衆の肩を押しのけていた。騎士の盾の脇をすり抜け、ルーカスの隣にたどり着いた。
柄を握る手が、白くなっていた。
わたくしは、その柄を握る手の上に、自分の手を重ねた。
冷たい手だった。硬い手だった。帳簿の手ではなく、剣を握るための手。
ルーカスが、わたくしを見下ろした。
「その方々は、債権者ですわ」
わたくしは言った。自分の声が、思ったより静かだった。
「嘘で奪われた方々。斬れば、帳簿が合いません」
ルーカスの手から、力が抜けた。
それから、柄を離した。
「剣に触れるな」
ルーカスが、騎士たちに言った。低い声だった。けれど、橋の上の騒ぎを貫いて届いた。
「民に剣を向けるな。盾だけでいい」
騎士たちが、一人、また一人と、柄から手を離した。
◇
群衆の波が、少しずつ引いていった。
盾の列の前で、誰かが泣きながら地べたに座り込んだ。誰かが、その背中をさすっていた。石は、もう飛んでこなかった。
わたくしは、まだルーカスの手の上に、自分の手を重ねていた。
気づいて、離そうとした。
そのとき、ルーカスが言った。
「何をした」
「台帳を、撒きましたわ」
「知っている。王家への誹謗だ」
「ええ」
「一度だけ見逃すと言った」
「ええ」
ルーカスは、群衆のほうを見たまま、しばらく黙っていた。
「……これが、その一度か」
「いいえ」
わたくしは言った。
「まだですわ。もう一つ、お願いがございますの」
ルーカスが、わたくしを見た。
「南の街道だけは、開けておいてくださいな」
「南の?」
「関所を閉じるなら、南の道だけは残していただきたいの」
わたくしは、夜の王都の、ずっと南の空を見た。
「逃げる道は、開けておくものですわ」
ルーカスの眉が、ぴくりと動いた。
「……誰のための道だ」
「すぐに、お分かりになりますわ」
橋の下を、運河が流れていた。
わたくしの手は、まだルーカスの手の上にあった。
どちらが先に離したのか、あとになっても、わたくしは思い出せなかった。
◇
騎士たちが、群衆を橋の両側へ分けていった。
わたくしは、欄干にもたれて、それを見ていた。
手が、震えはじめていた。
石が飛んでいた。盾の列が押されていた。剣の柄に、手がかかっていた。わたくしは、その真ん中へ、帳簿も秤も持たずに走り込んだのだ。今になって、それが分かった。
扇を開こうとして、指が骨を掴み損ねた。
扇が、石畳に落ちた。
拾おうとして、拾えなかった。手が、言うことを聞かない。
ルーカスが、扇を拾った。
差し出しはしなかった。自分の手の中に、黙って持っていた。
「震えているな」
「ええ」
声までは、震えていなかった。それだけが、救いだった。
「帳簿には、つけないでくださいな」
「俺は、帳簿をつけん」
ルーカスは、群衆のほうを向いて、わたくしの前に立った。橋の上の誰からも、わたくしが見えないように。黒い外套の背中が一枚、壁のように、そこにあった。
長い時間だった。
やがて、手が止まった。
ルーカスは、振り返らずに、扇を後ろへ差し出した。わたくしは、それを受け取った。指は、触れなかった。
「エレオノーラ」
ルーカスに名を呼ばれたのは、初めてだった。
「次に剣の前へ出るときは、先に言え」
「……言えば、お止めになるでしょう」
「止める」
それだけ言って、ルーカスは、橋の上の騎士たちのほうへ歩いていった。
わたくしは、扇を開いた。今度は、骨は指に収まった。
扇の陰で、わたくしは、しばらく顔を上げられなかった。




