第二十八話 千枚の紙
「グリム」
昼の鐘のあと、舟溜まりの桟橋で、わたくしは帳面を閉じたグリムに言った。
「これから、台帳を配りますわ」
「分かっている」
わたくしは、運河の向こうの大橋を見た。利札の列が、まだ橋の上まで続いている。
「崩れる日が遅いほど、新しく買う人が増えますわ」
グリムは、黙って聞いていた。
「今弾ければ、民の損は半分で済みますわ。冬至まで膨らんでから弾けた場合に比べて」
グリムは、しばらくわたくしの顔を見ていた。
「お前のための儲けでもある」
「ええ。わたくしは悪女ですもの」
わたくしは、扇を閉じた。
「ただ、どちらか一つではなかった、というだけ」
窓口の払いが止まったのは、わたくしが朝から売ったからだ。届かなかった金貨も、もとは新しく祝福債を買った方々の金だった。それでも、止まった払いの前に並んでいるのは、正直な人たちだ。
だから、今日のうちに終わらせる。
◇
台帳の写しは、千部あった。
ルッツと、ルッツが連れてきた書記見習いの少年たちが、それを抱えて利札の列へ向かった。船頭たちも、櫂を置いて紙の束を担いだ。
祈りと利払いの列は、王命の外だ。列に並ぶ人に、紙を一枚渡すのは、売り買いでも集会でもない。
「どうぞ。お読みください」
ルッツが、列の老人に紙を渡した。老人は、目を細めて紙を眺め、それから首をかしげた。
「なんだ、これは。数字ばかりだ」
「王家の金貨の、作られ方です」
ルッツの声が、かすかに震えた。
「王家が、金貨をどれだけ作って、利息にどれだけ払ったか、です。金貨の数は増えているのに、金は増えていません」
老人は、紙をもう一度見た。
それから、懐から、先月の給金でもらった新しい金貨を一枚取り出した。
◇
大橋のたもとの運河に、秤舟が浮かんでいた。
橋の下ではない。橋から少し離れた、空の見える水の上。公の秤の前に、マルタとハンスが座っている。
岸の石段の上から、利札の列の人々がこちらを見下ろしていた。紙を握りしめて。金貨を握りしめて。
「量りますよ」
ハンスが、岸に向かって声を上げた。
「量ってほしい方は、列を離れずに、金貨を籠に入れて、縄で降ろしてください。石段を降りてこなくて結構です。量ったら、籠ごとお返しします」
籠は、列の中から手渡しで回され、最初の一つが縄で降りてきた。金貨が三枚。
マルタが、分銅を動かした。舟が揺れる。マルタは、揺れが止まるのを待ってから、もう一度分銅を動かした。
「旧金貨の、二枚と半分」
岸の上が、ざわめいた。
二つ目の籠。三つ目の籠。
量るたびに、マルタが目方を読み上げる。一割足りない。二割足りない。三割近く足りない金貨もあった。
ハンスは、黙って分銅を並べ直していた。
その膝の上に、紐で縛った紙の束が載っていた。ハンス自身の祝福債だ。両替の売り買いの儲けを、ずっと替えてきた札。半分は金貨に戻したが、残りの半分は、まだそこにある。
「ハンス」
秤舟の舳先から、わたくしは声をかけた。
「量っても、よろしいの? あなたの札も、紙になりますわ」
ハンスは、顔を上げなかった。
「量らなけりゃ、もっと紙になります」
それから、次の籠の金貨を、皿の上に並べた。
「わたしは、両替商ですよ、お嬢さん。目方をごまかしたことは、一度もない」
◇
列が、崩れた。
利札の列の人々が、大聖堂の窓口へ押し寄せた。祝福債を、額面で引き取ってくれ。利息はいらない。元の金を返してくれ。窓口の役人は、空の金貨袋を抱えて立ち尽くした。昼から払うはずだった利払いの金貨は、わたくしの読みどおり、運河の舟の上で祝福債に化けている。
人々は、ギルドの両替所へ走った。
ギルドは、祝福債の値を支えるために、額面に近い値で買い取ってきた。その両替所の窓も、日が傾くころには閉じられた。金庫が空だった。
王宮の前では、兵たちが騒いでいた。今月の給金として受け取った新しい金貨を、店で受け取ってもらえない。秤で量れ、と言われる。量れば、二割足りない。
夕方、わたくしは秤舟を降り、石段を上がって大橋の欄干の前に立った。橋の上からなら、低い屋根越しに、大聖堂の露台が見える。
そこに、白い衣の人影が現れた。
聖女リリア。
広場を埋めた群衆が、一斉に露台を見上げた。王命の及ぶ広場だった。衛兵は、もう群衆を散らそうとしなかった。散らせる数ではなかった。
リリアは、露台の手すりの前に立った。白い日傘を、胸の前で閉じて持っている。
群衆が、静まり返った。
誰もが、聖女の言葉を待っていた。祈りを口にする、あの柔らかな声を。
そのとき、広場の端の、利札の列の中から、一人の少年の声がした。
「聖女様!」
ルッツだった。台帳の写しを、胸に抱えていた。
「聖女様、王家の金庫は、大丈夫なのですか」
広場が、しんとした。
ルッツは、震える声で続けた。
「今日は、祈ってくださいと言わないでください。大丈夫かどうかだけ、お聞きしたいんです」
◇
露台の上で、リリアの唇が動いた。
開いて、閉じた。
もう一度、開いた。
広場の誰もが、その唇を見ていた。大丈夫ですよ。その一言を。
けれど、その一言は、出てこなかった。
リリアの胸の前で、畳んだ白い日傘の先が、二度、小さく揺れた。柄を叩いたのだ。
遠くて、音は聞こえなかった。けれど、わたくしの耳の奥では、雨が鳴っていた。
あの夜。撃たれる直前、男の肩越しの暗がりにあった白い傘。その柄に添えられた、白い手袋の指が、二度、柄を叩いた。目に入っていたことに、あのときは気づかなかった。あれが何の合図だったのか、わたくしはまだ知らない。
今度は、何も起きなかった。
答えは、来なかった。
広場の前のほうで、人々の肩が、一つ、また一つと揺れた。その揺れが、さざ波のように、広場の奥へ広がっていくのが見えた。
聖女は、大丈夫だと言わなかった。
言えなかったのだ。
◇
日が沈むまでに、祝福債の値は、崩れ落ちていた。
ギルドの買い支えは尽きていた。窓口は閉じ、両替所も閉じた。祝福債を売りたい者は王都じゅうにいて、買いたい者は一人もいなかった。
窓口では額面を少し上回り、運河の舟の上では額面ちょうど。それが、昼までの値だった。
夜の鐘が鳴るころには、額面十枚の札が、銀貨一枚でも買い手がつかなかった。
暴落の、火曜日だった。




