第二十七話 買い占め
「運河の舟で、祝福債が売られております」
大聖堂の控えの間に、白い外套の男が駆け込んできたのは、朝の鐘が二つ鳴り終わって間もなくだった。
「額面ちょうどで。窓口より安く。売り手の一人は、あの追放されたお嬢さんご自身です」
リリアは、窓辺の椅子から立ち上がらなかった。
「売っている札は」
「大司教様からお借りになった、あの四万だと」
リリアは、白い日傘の柄に指を置いた。
叩きはしなかった。
四万。借り物の四万。冬至までに、同じ祝福債を同じ額面分、返さなければならない四万。
あの人は、それを売っている。値が天井のうちに売って、崩れたあとで安く買い戻すつもりなのだろう。北の鉱山の札で、一度やって負けたことを、もう一度。
けれど、今度は、負けた理由が分かっている。
札を握られたからだ。
リリアは、白い外套の男を見た。
「すべて買ってください」
「すべて、ですか」
「舟に出てくる祝福債は、すべて。値は、額面のままで構いません」
リリアは、静かに続けた。
「四万を、こちらで吸い上げます。あの人が冬至までに返す祝福債は、王都の、屋根のある市場では、契約で買えない。路上でも、広場でも、王命で買えない。運河に出てくる祝福債を、握るように買ってください」
白い外套の男が、ゆっくりとうなずいた。
北の鉱山のときと、同じ形だった。今度は、売った者を、こちらが踏み上げる。
市中の祝福債を、あの人に売る者はいない。民は路上に出られず、ギルドはこちらの言うことしか聞かない。あの人が手にできるのは、舟に出てくる札だけだ。その札さえ押さえれば、あの人は冬至に、こちらの言い値で買うしかない。
リリアの計算は、札が紙にならない限り、正しかった。
ギルドの金庫に残っているのは、今日窓口へ運ぶ利払いの金貨だけだった。
「金貨は、どこから」
リリアは、一拍おいて答えた。
「今日、窓口で払う利払いの金貨を、回してください。ギルドの金庫から窓口へ運ぶ分を、運河へ」
「窓口の払いが、足りなくなります」
「払いは、そのあとに回してください。商会に、受け取った金貨をすぐ窓口へ回すよう、伝えてください。四万を吸い上げてしまえば、あの人の手から、祝福債がなくなります」
軽い金貨は、あの人の秤の市では、目方の分しか値がつかない。あの人は、紋のとおりに数えてくれる相手に、すぐ使ってしまいたいはずだ。王都でそれができる大口は、こちらの商会しかない。それに、百艘は魔石を運ぶ舟だと、あの人自身が言っていた。運河で払った金貨は、昼のうちに商会を通って、窓口へ戻ってくる。窓口が待たされるのは、ほんの数刻だ。
それに、何もしなければ、額面ちょうどの値が王都じゅうに広まる。利札の列が、そのまま売りの列に変わる。数刻の遅れと、取り付けと。比べるまでもなかった。
窓口の列が少し待たされても、聖女が祈れば、人は待つ。これまでも、そうだった。リリアは、そう計算していた。
◇
昼前、舟溜まりの浮き桟橋には、ギルドの紋の指輪をした男たちが、組合の小舟で次々に漕ぎ寄せてきた。
グリムが、一人ずつ名を聞き、帳面と照らし合わせていく。
「商会ギルド、王都本店の手代。よし」
「ギルドの両替所の番頭。よし」
「……ペーター? 職は」
「仕立屋です。祝福債が安いと聞いて」
グリムは、帳面から顔を上げた。
「その金は、店の金か。ギルドの金か」
「み、店の金です」
「舟には乗せん。帰れ」
男は、きょとんとしていた。グリムは、それ以上何も言わなかった。
わたくしは、桟橋の端から、それを見ていた。
ギルドの者は通す。値を支えるために、ギルドの金庫の金で買う者は通す。自分の暮らしの金で祝福債を買おうとする者は、一人も通さない。グリムの頭の中の帳簿には、王都の商会の者の名と顔が、全部入っている。
舟が一艘、桟橋に戻ってくる。売り手の板の盟約の商人が、空になった膝の上を見せて笑う。買い手の板のギルドの手代が、祝福債の束を抱えて桟橋に上がる。
舟が、また出ていく。
祝福債の束が、一つ、また一つと、ギルドの手の中へ吸い込まれていった。
◇
昼の鐘が鳴ったとき、四万は、売り切れていた。
売り手の舟に横づけした秤舟で、マルタが最後の代金を量り終えた。
「全部、新しい金貨。ちゃんと紋は打ってある。目方は、一割から三割、足りない」
「ええ。それでよろしいの」
代金の金貨は、売り手の舟の上で木箱に移され、舟ごと舟溜まりの奥に集められていた。額面で四万。目方で量れば、もっと少ない。
わたくしは、その木箱を、十艘の舟に分けて積ませた。魔石は重い。帰りの荷は、舟一艘では運べない。百艘の舟を集めたのは、このためでもあった。
十艘の舟が向かったのは、運河の西の、ある商会の荷揚げ口だった。運河に面して、倉の扉が水の上に開いている。北の鉱山の東の斜面から出た新しい魔石を、王都でただ一軒、扱っている店。リリアの息のかかった商会だ。
あの商会は、金貨を秤で量らない。紋で受け取り、紋で数える。祝福債を売りさばき、その金貨を紋のまま受け取ってきた店だから。
「魔石を、いただきたいの」
わたくしは、商会の番頭に言った。
「この金貨で。紋のとおりに数えてくださいな」
番頭は、木箱の金貨を見た。それから、わたくしの顔を見た。
何か言いたそうだった。けれど、言えなかった。紋の打たれた金貨を、紋のとおりに受け取らない、と言えば、自分の店が今まで受け取ってきた金貨のことを、口にしなければならない。
番頭は、黙って倉の鍵を開けた。
青白く光る石が、木箱に詰められていく。紋で数えた金貨と同じだけの値の、魔石。
受け渡しは、舟の上で済ませた。舟が離れると、番頭は倉に鍵をかけ、店の戸を閉じた。紋で受け取った金貨を、窓口へ戻す気はないようだった。番頭は、木箱を開けたとき、金貨の山の目方を手で量っていた。誰の言いつけがあったにせよ、この男は、自分の店の金庫を選ぶ。紋で受け取った軽い金貨まで窓口へ回せば、店には魔石も金貨も残らない。そんな言いつけに従う番頭は、いない。
十艘の舟は、喫水を深く沈めて、舟溜まりへ戻っていった。
正直な者には、一枚も渡さない。紋でしか金を数えない者にだけ、紋の金貨を返す。
◇
その少しあと、利札の列から、ルッツが息を切らして戻ってきた。
「窓口が、払いを始められません。利払いの金貨が、まだ届いていないそうです」
わたくしは、大橋の上を見上げた。
列が、ざわめきはじめていた。
◇
控えの間で、リリアは、白い外套の男の報告を聞いていた。
「運河の祝福債は、すべて買い上げました。額面で四万」
「ご苦労さまでした」
リリアは、窓の外を見た。大聖堂の前の通りから、王宮の前の大橋まで。利札の列は、朝と同じように延びている。どこか、ざわついているようにも見える。
窓口の払いは、少し遅れる。それだけのことだ。
あの人は、冬至までに、同じ祝福債を四万、大司教に返さなければならない。その札は、すべて、こちらの手の中にある。あの人は、北の鉱山のときと同じように、こちらの言い値で買い戻すしかない。
いや。
買い戻すことさえ、できないかもしれない。王都で、あの人に祝福債を売る相手は、一人もいないのだから。
リリアは、小さく微笑んだ。
「あの人の手に、祝福債は、もう一枚もない」
それから、ほとんど聞こえないほどの声で、付け加えた。
「――返すための祝福債も」




