第二十六話 赤い布
火曜日の朝は、よく晴れていた。
夜明け前から、大聖堂の前には列ができていた。祝福債の利札を握りしめた人々が、石畳の通りを埋め、角を曲がり、王宮の前の大橋の上まで続いている。
半年に一度の、利払いの日。
列の人々は、皆、ほんのり顔を上気させていた。利札一枚につき、金貨が何枚。持っている札の数を、指で数え直している老人がいる。赤子を背負った女が、隣の女と、今度の利息で何を買うかを話している。
わたくしは、大橋の欄干にもたれて、その列を見下ろしていた。
外套の下に、赤い布が一枚。
◇
前の晩、王都の屋敷の一室で、グリムが箱を開けた。
大司教から借りた祝福債。額面で金貨四万枚分。半年前に港の箱にしまってから、一枚も減っていない。
「利札を、切る」
グリムは、小さな鋏を取り出した。
祝福債の一枚ずつに、半年ごとの利札が綴じつけてある。半年のあいだ、一枚も切らずにおいた利札だ。グリムは、そのうち二枚だけを切り取っていった。半年前に受け取らなかった分と、明日の火曜日に払われる分。切り取った利札は、別の小箱へ。その先の利札は、札に綴じたまま残し、祝福債の本体を額面ごとに束ねて紐で縛る。
「これで、明日売る札は、今度の利払いの分が落ちている。次からの利札は、買った者のものだ」
「ええ。切り取った二枚の分は、わたくしのものでも、買い手のものでもございませんもの。窓口に出したところで、払われるのは、新しく祝福債を買った方々のお金だけですわ」
わたくしは、利札の小箱の蓋を閉めた。
「いずれ、証拠になりますわ」
グリムが、もう一つ、小ぶりの箱を卓に置いた。蓋の下で、鈍い金の色が重なっている。港の金庫から運ばせておいた、旧金貨だった。
「明日の夜の分だ」
「ええ。夜には、要りますもの」
ルッツが、束ねた祝福債に、一枚ずつ証文の写しを添えていった。
――右の祝福債、額面いくら、利札落ちにて売り渡す。代金はいくら。札も代金も、受け渡しはこの舟の上にて。代金の目方は、横づけの秤舟にて量る。
舟の上にて。
ルッツは、その一行を書くたびに、ペンを止めた。
◇
太陽が、王宮の尖塔の向こうから顔を出した。
わたくしは、外套の下から赤い布を取り出した。
欄干の上で、一度だけ、大きく振った。
大橋の下を、運河が流れている。その下流、王都の東の舟溜まりで、誰かが布の赤を見た。
最初に動いたのは、舟溜まりの先頭の一艘だった。
それから、二艘、五艘、十艘。
櫂が水を打つ音が、王都の朝の運河に、少しずつ広がっていった。屋根のない平底舟が、三列になって舟溜まりを出ていく。どの舟にも、腰掛けの板が二枚。一艘目を除いて、一枚には、すでに人が座っている。盟約の商人たちだった。塩商の親父。樽屋の女主人。船大工の親方。それから、櫂を握る船頭たち。
もう一枚の板は、空いていた。
浮き桟橋に繋いだ一艘を残して、九十九艘の舟が、運河に散っていく。大橋の下は通り抜けるだけで、どの舟も橋の陰には留まらない。橋と橋の間の、空の見える水の上にだけ、舟は錨を下ろしていく。
◇
乗り場は、一か所だけだった。
舟溜まりの奥に浮かぶ、船頭組合の浮き桟橋。岸には繋がず、水の上に浮かべた組合の持ち場で、王命の及ばない運河の上だ。
舟の上の売り買いは、売り手と買い手の一対一だ。人が集まるわけでも、路上でもない。屋根もない。市場の建物でもない。王命の文言にも、和平の契約の文言にも、どこにも当たらない。
そこにグリムが立ち、帳面を開いている。祝福債を買いたい者は、この桟橋から舟に乗る。乗る前に、グリムに名を告げる。
その浮き桟橋の脇に、一艘だけ、ほかと違う舟が繋がれていた。舟の真ん中に、公の秤が据えてある。港から運んできた、ひしゃげた王の紋と新しい検定印が並んだ、あの秤だった。売り手の舟が代金を受け取るたびに、この秤舟が横づけして目方を量る。
秤の前に、マルタが座っていた。その隣に、ハンス。
「秤舟だ」
マルタが、桟橋の上のわたくしに向かって言った。
「港の外で量るのは初めてだよ。舟が揺れるから、分銅がうまく決まらないかも」
「マルタなら、決められますわ」
「決めるよ。あたしの秤だから」
わたくしは、浮き桟橋のいちばん端の、一艘目の舟に降りた。
売り手の板に、わたくしが座った。
膝の上に、祝福債の束。
◇
噂は、運河より速かった。
運河の舟で、祝福債が売られているらしい。値は、大聖堂の窓口より少しだけ安い。額面ちょうど。利札は落ちているが、次の利払いからは、買った者のものになる。
利札の列の人々が、橋の上からこちらを見下ろしていた。けれど、橋を降りて桟橋へ来る者はいなかった。王都の人々が今日手にする金は、窓口で受け取る利息だけだ。利息を受け取るために並んでいる人々に、祝福債を買い足す金はない。それに、路上から運河へ降りる石段のあたりには、王命を見張る衛兵が立っている。
祝福債を、額面ちょうどで買える。
窓口より安く。
それが王都じゅうに広まれば、窓口の値は保てない。窓口の値が崩れれば、祝福債の値が崩れる。
それを、いちばん恐れる者たちがいる。
値を支えようとすれば、四万を一日で買い支える金貨が要る。そんな金貨が、今日、王都のどこにあるか。
窓口ですわ。今日払われるはずの、利払いの金貨。
◇
朝の鐘が三つ鳴ったころ、浮き桟橋に、組合の小舟が一艘漕ぎ寄せてきた。降りてきたのは、細身の男だった。
仕立てのいい外套。商会ギルドの紋の指輪。競りの日に紙の束を抱え、わたくしから船と倉庫を買い、軽い金貨で鯖を買おうとして、空の荷車の前に立ち尽くした男。
男は、浮き桟橋の上のグリムに名を告げると、まっすぐに一艘目の舟へ歩いてきた。
わたくしと、目が合った。
男の顔が、一瞬だけ引きつった。それから、すぐに元の薄い笑みに戻った。
「……あなたでしたか」
「おはようございます。空いておりますわ、その板」
男は、もう一枚の腰掛けの板に、乱暴に腰を下ろした。舟が、ぐらりと揺れた。
「額面ちょうど、と聞いた」
「ええ。利札落ちで」
男は、わたくしの膝の上の束を見た。
男の外套の懐から、封をした紙の端がのぞいていた。白い封蝋。大聖堂の封だった。
男は、奥歯を噛みしめるように言った。
「あるだけ」




