第二十五話 冬至まで
運河の水面に、百艘の平底舟が並んでいた。
王都の東、船頭組合の舟溜まり。古い石の岸に沿って、真新しい舟が三列に繋がれている。どの舟にも屋根はない。櫂が一本と、腰掛けの板が二枚。それだけの舟だ。
岸の上に、船頭組合の痩せた男が立っていた。秋に港町まで保険を頼みに来た、あの男だった。
「いつでも出せる。合図さえもらえればな。百艘、一度に」
隣で、グリムが舟の数を目で数えていた。
「合図は、大橋の上から出しますわ」
わたくしは、運河の先を見た。王宮の前にかかる、運河でいちばん低い石の大橋。その欄干の向こうに、王宮の尖塔がのぞいている。
「赤い布を、一枚」
「赤い布、な」
男がそう繰り返したとき、岸の上の通りで、蹄の音がした。
◇
太った役人が一人と、黒い騎士服の一隊だった。
役人は馬を下りると、丸めた紙を広げた。王都の市場を預かる奉行だった。
「王命に背き、集会のために舟を集めた嫌疑により、この舟溜まりの舟、百艘を差し押さえる」
下役たちが、封印の紙と太い鎖を抱えて、石段を降りてきた。
騎士の列の先頭に、背の高い影があった。
ルーカスだった。馬を下りず、鞍の上から、黙ってわたくしを見下ろしていた。
先頭の一艘の舳先に、封印の紙が貼られた。二艘目。三艘目。鎖が、舳先の環に通される音がした。
この舟が鎖につながれれば、冬至までに打てる手は、一つもなくなる。
「勅許第四十八号」
後ろで、グリムが言った。
「王都の運河は、船頭組合が自分で治める。王の命は、運河の水の上には及ばない」
奉行が、鼻で笑った。
「聞いたこともない。写しでもあるのか」
「砦の書庫にある」
「砦は南の果てだ。取りに行くあいだに、鎖は掛け終わる」
下役たちが、四艘目の舳先に鎖を回しはじめた。
そのとき、組合の男が、身をひるがえして走り出した。舟溜まりの奥の、組合の詰所へ。
戻ってきたとき、男は、煤けた木の額を両腕に抱えていた。中に、色の褪せた羊皮紙が一枚。
「詰所の梁に、二百年掛かってた」
男は、息を切らしていた。
ルーカスが、初めて馬を下りた。
額を受け取り、古い王家の紋の下の文字を、指でなぞった。鎖の音が、止まっていた。
「奉行殿」
ルーカスが言った。
「王命は、王都の路上と広場、と書いている。運河とは書いていない。この勅許を取り消すとも、書いていない」
「騎士団長。舟は、岸に繋がれておる」
「繋いでいる杭は、組合の杭だ」
グリムが、ぼそりと言った。
ルーカスは、額を船頭に返した。
「王命の文言を決める席で、運河も入れろと言ったのは、奉行殿だった。聖女が止めて、殿下も入れなかった。入っていない場所を、奉行殿の差し押さえ状で塞ぐことはできん。勅許を消すには、陛下の御璽が要る」
奉行の顔が、赤くなった。
ルーカスは、先頭の舟の舳先に手を伸ばし、封印の紙を剥がした。二艘目。三艘目。
剥がした三枚を畳んで、奉行の手に返した。
「鎖を外せ」
下役たちが、奉行の顔を見た。奉行は、何も言わなかった。
聖女が止めた。
わたくしは、その一言を胸にしまった。
◇
奉行の一行が引き揚げても、ルーカスは岸の上に残っていた。
「この舟で、何をする」
「魔石も、運びますわ」
「も、か」
わたくしは、答えなかった。
ルーカスは、しばらく運河を見ていた。それから、水際へ降りる石段を顎で示した。
「見逃したのではない。水の上には、王命も、俺の剣も届かん。それだけだ」
「存じておりますわ」
「石段から上は、王命の内だ。衛兵を置く」
緑の目が、一度だけわたくしを見た。
「水から一段でも上がれば、俺の仕事になる」
「水の上のことは、水の上で済ませますわ」
ルーカスは、何も言わずに馬に戻った。
蹄の音が遠ざかったあと、先頭の舟の舳先に、剥がした封印の糊の跡が、白く残っていた。
◇
港町に戻ると、錨亭の奥の部屋は、紙の匂いで満ちていた。
積み上がった紙の束の前で、ルッツと、ルッツが王都から連れてきた書記見習いの少年が三人、黙々とペンを走らせていた。
台帳の写しだった。
グリムが三つの記録を突き合わせて組み立てた、金貨の発行の表。最後に一行。
――この表の数字は、誰でも確かめられる。金の目方は王都の荷改め所の帳面に、金貨の目方は秤の上に、利払いの数は大聖堂の書庫にある。
表のいちばん下の行は、先月の分だった。この秋の金貨は二割足りず、三割近く足りないものまである。
「何部だ」
グリムが聞いた。
「千部」
「もう六百は書きました」
ルッツが、ペンを止めて、インクで真っ黒になった指を振った。
「エレオノーラ様。これを、どうなさるんですか」
「撒きますの。王都じゅうに。いちばん人が集まる日に」
ルッツは、何か聞きたそうな顔をした。それから、黙ってペンを取り直した。
◇
祝福債の値は、天井に近かった。
借りた祝福債の期日は、冬至の日。
あと、二十日。
◇
翌朝、白い外套の男が、取引所に来た。
港の盟約が、秋から借りている古い倉の一室。その帳場だ。
男の後ろには、帆布屋が立っていた。
「為替手形を、振り出していただきたい」
男は、重い袋を帳場に置いた。旧金貨で、千枚。
マルタが、黙って金貨を秤に載せた。分銅を動かす。千枚分。ぴたりと合っていた。
「仲立ちは、こちらの帆布屋さんにお願いしております」
帆布屋は、わたくしの顔を見なかった。
盟約の外の者が手形を求めるときは、盟約の者の仲立ちが要る。秋の合議で、全員一致で足した一条だ。取引所の代表として振出人をわたくしが務めることも、そのとき決めてある。
「それから、もう一つ」
男は、穏やかに付け加えた。
「振出人の欄には、取引所の代表として、エレオノーラ様ご自身のお名前を」
男は、微笑んでいた。あの女と、同じ笑い方だった。
「承知いたしましたわ」
帳場の隅で、ハンスが金貨の山を一枚ずつ数えていた。数え終えてから、一枚をつまみ上げて、刻印を灯りにかざした。
「お嬢さん。この旧金貨、見覚えがあります。先月、うちの店で、お嬢さんの割増で王都の商人に替えた分ですよ」
白い外套の男の笑みが、ほんの少しだけ固くなった。
グリムが、手形の用紙を広げた。取引所の名。券面の金額。受取人の欄は空けたまま、持参人払い。振出人の欄。仲立ち人の欄。
そして、券面のいちばん下に、規則書どおりの一行。
――本手形は取引所規則に従う。
わたくしは、手形を頭から二度読んだ。三度目は、券面の最後の一行だけを読んだ。
振出人の欄に、名前を書いた。
エレオノーラ。
帆布屋が、仲立ち人の欄に名前を書いた。手が、わずかに震えていた。
◇
それから十日のあいだに、白い外套の男はさらに三度来た。
仲立ちは、干し肉屋、縄屋、また帆布屋。
持ち込まれた旧金貨は、合わせて六千枚を超えた。取引所は、それを盟約の預かり金として倉の奥にしまい、同じ額の為替手形を振り出した。
振出人の欄には、毎回、わたくしの名。
最後の手形を振り出した夜、グリムが帳面を閉じて言った。
「この局の出入りだ。秤と板の取り分と、旧金貨の割増で、三千。父親の給金を払って、手元は六千二百ほど。手形の預かり金は、盟約のものだ。お前の手元には数えん」
「ええ。それで結構」
わたくしは、手形の控えの束をめくった。どの控えにも、振出人の欄にわたくしの名が、仲立ち人の欄に三人のうちの誰かの名があった。
一人の客が求めた手形の控えは、一綴りに綴じておくように。グリムには、そう頼んである。
◇
暦をめくった。
冬至の前の、最後の火曜日。
大聖堂の窓口で、祝福債の利札が払われる日だった。半年に一度、王都じゅうの持ち主が利札を握りしめて、大聖堂の前の通りから王宮の前の大橋まで、列をつくる。
祈りと利払いの列は、王命の外だ。路上を塞がれたぶん、王都の人の流れは、その列へ押し込まれていく。
王都で、いちばん人が集まる日。
「グリム」
わたくしは、暦を卓に置いた。
「赤い布を、一枚用意してくださいな」
グリムが、顔を上げた。
窓の外で、鈴懸の葉が鳴っていた。
わたくしは、扇を開いた。
「火曜日に、いたしましょう」




