第二十二話 罠はございますか
茶は、すっかり冷めていた。
わたくしは、二つの条文が残った紙を、卓の真ん中に置いた。
「一つ、お尋ねしてよろしいかしら」
「ええ、どうぞ」
わたくしは、リリアの目を見た。
「この契約に、罠はございますか」
窓の外で、鳩が羽ばたいた。
リリアは、すぐには答えなかった。
答えは、一言で済む。ございません、と。
けれど、あの女は、そう言わなかった。
かわりに、小さく首をかしげて、微笑んだ。
「それを確かめるのが、あなたのお仕事ではなくて?」
◇
罠は、ある。
ございません、と言えなかった。それが、答えだった。
リリアの笑みは消えていなかった。けれど、その目の奥で、何かがゆっくりと形を変えていくのが分かった。
「……あなた、気づいているのね」
問いではなかった。
わたくしは、答えなかった。答えなくても、同じことだった。
あの女は、わたくしが署名した文言に背けないことを知っている。わたくしは、あの女が嘘を口にできないことを知っている。そして今、互いに、相手が知っていることを知った。
もう、どちらも、知らないふりはできない。
これ以上は、尋ねなかった。尋ねれば、あの女は署名をためらうだろう。
◇
罠があるのは、一条目だ。
王都の、市場で。
市場とは、どこまでを言うのか。大市場の建物か。両替所か。路上の露店か。広場の朝市か。
広い言葉は、書いた側の都合で、いくらでも広がる。
わたくしは、ペンを取った。
「一語だけ、書き足させていただけるかしら」
「どうぞ」
わたくしは、一条目の「市場」の前に、小さく書き加えた。
――一、エレオノーラは、王都の屋根のある市場で祝福債を売買しない。
リリアが、その一語を見た。
「屋根のある」
「ええ。王都にも、屋根のない市はございましょう? 朝市も、露店も。わたくしは、露天の市の者ですもの。屋根のない市まで縛られては、商いができませんわ」
リリアは、何も言わなかった。
ただ、紙の上の一語を、長いこと見ていた。
それから、その口元に、ほんのかすかな笑みが浮かんだ。茶館に入ってきてからずっと浮かべていた穏やかな笑みとは、わずかに違う笑みだった。
鈴懸の木の下の市を、あの女は規則書の写しで読んでいる。だから、この一語の意味も読んだはずだ。わたくしが、王都の屋根のない場所で祝福債を売るつもりだと。
◇
二条目は、あの女の側を縛るように見える。けれど、あの女は嘘を口にできないだけで、署名した契約を破ることはできる。縛られるのは、わたくしだけだ。
それで、構わなかった。
書き足した一条目を含めて、頭から三度読んだ。
王都の屋根のある市場で、祝福債を売買しない。
守れる。
わたくしは、二通ともに同じ一語を書き足して署名し、紙をリリアのほうへ滑らせた。
リリアがペンを取った。その手が、ほんのわずかに速かった。
迷いなく名前を書き、同じ文面の二通のうち、一通をわたくしに渡した。茶館に入ってから、あの女がいちばん速く動いた瞬間だった。
「よいお話になりましたわ」
それは、本当なのだろう。あの女にとっては。
◇
茶館を出ると、夕日が王都の屋根を赤く染めていた。
リリアは、白い日傘を開いて、丘の下へ去っていった。
あの女は、わたくしが何を読んだかを、読んだ。
そして、その先まで読んで、笑ったのだ。




