第十九話 運河の勅許
帝国の船は、来なくなった。
ひと月待っても、ふた月待っても、港の沖に、あの見慣れない形の帆は現れなかった。
「帝国の港で、受け取るはずだった者が捕まったらしい。王都の騎士団長が、向こうの役人に書付を回したって話だ」
鈴懸の木の下で、船乗りの親方ヨハンが言った。
港の奥では、商会の船が二隻、帆を畳んだまま泊まっていた。港の船乗りは乗らず、帝国の船乗りは砦の牢の中だ。
いつか誰かが急いで港を出るための船だった。今は、どこへも行けない。
◇
「勅許第四十七号を、覚えているか」
その夜、錨亭の部屋で、グリムが言った。
「港の市を、港の者が自分で立てる勅許ですわね」
「砦の書庫には、同じ年の勅許が、もう一つある。あのときは、言わなかった」
グリムは、卓の上に指で数字を書いた。
「第四十八号。王都の運河は、船頭組合が自分で治める。王の命は、運河の水の上には及ばない」
なぜ今、と問う前に、グリムは続けた。
「お前が、王都の地図ばかり見ているからだ」
「あの女は、王子を動かせる。いずれ、王命で王都の市を閉じにくる。お前は、それを待っている顔をしている」
「待ってなど、おりませんわ。備えているだけ」
「同じことだ」
わたくしは、地図の上の、王都を縫うように流れる運河をなぞった。
市を閉じられても、水の上は閉じられない。
◇
船頭組合の使いが港町に来たのは、半月後のことだった。
ヨハンの古い知り合いで、王都の運河で四十年、平底舟の櫂を握ってきたという痩せた男だった。
「運河の舟にも、保険をかけてもらえんかと思ってな」
鈴懸の木の下で、男は帽子を握りしめて言った。
「王都の商会は、払うと言った金を、目方の足りん新しい金貨で払う。南の港の盟約は、秤で量って払うと聞いた。それに、舟も古いのばかりで、足りておらん」
合議は、その日のうちに開かれた。
わたくしは、一つだけ付け加えた。
「舟が足りませんのでしょう? 運河の舟を百艘、わたくしが注文いたしますわ。船頭組合にお貸しして、その荷に保険をかけていただく」
船大工の親方が、太い眉を寄せた。
「百艘? 何を運ぶ」
二十三人の顔の中に、帆布屋と、干し肉屋と、縄屋の顔もあった。
「魔石ですわ。王家は、金貨を薄めております。いずれ王都で取り付け騒ぎが起きれば、金貨のかわりに魔石を運ぶ舟は、いくらあっても足りませんわ」
嘘ではなかった。ただ、それが舟を頼む理由の全部ではないだけだ。
採決のとき、わたくしは席を外した。自分が注文する舟の話を、自分で決めるわけにはいかない。
合議は、通った。
◇
注文書は、船大工の親方の仕事場で書いた。
「運河の舟なら、平底だ。屋根はつけられん」
親方は、王都の運河の絵図を広げた。
「運河には、低い石橋が三十いくつかかっている。屋根をつけた舟は、くぐれん。船頭組合の決まりで、運河の舟は屋根なしだ」
親方は、橋の印を指で順に叩いていき、一つのところで止めた。
「とくに、この大橋だ。王宮の前の。ここが、いちばん低い」
わたくしは、その印を、しばらく見ていた。
「では、書いておいてくださいな。組合の決まりのとおり、と」
――平底舟百艘。船頭組合の定めに従い、屋根を設けぬこと。代金は金貨二千枚、今日払う。
わたくしは、注文書を読み直してから名前を書き、金貨二千枚の袋を卓の上に置いた。
「急いでくれ、とは言わんのか」
「急ぎませんわ。ただ、出来上がったら、王都の運河に浮かべておいてくださいな。いつでも漕ぎ出せるように」
◇
数日後、帆布屋が、王都へ向かう船に乗った。
王都の商会の裏口で、帆布屋が白い外套の男と長く話していた。オットーが、そう教えてくれた。わたくしは礼を言い、それ以上は何も頼まなかった。
その夜、グリムに規則書を開いてもらった。
――詐取した資金で振り出された手形は、振り出しの時点にさかのぼって無効とする。
この港で、まだ一度も使われたことのない一条だった。
「なぜ、今それを読む」
「いずれ、使いますもの」
わたくしは、運河の絵図の上に、規則書の写しを重ねた。
舟と、橋と、手形。三つとも、まだ誰の目にも、何の関わりもない。
◇
大聖堂の控えの間で、リリアは、白い外套の男の話を聞いていた。
「南の港の盟約が、王都の運河に舟を百艘浮かべるそうです。魔石を運んで、取り付け騒ぎに備えるのだとか。あの追放されたお嬢さんが、自分の金で注文したそうで」
泳がされている駒は、運ばされる話を運ぶ。リリアは、それをいちばんよく知っていた。
「確かめてください。注文が本物か。代金が払われたか。それから、運河の舟の決まりを」
十日後、男は三つの答えを持って戻ってきた。
百艘は本当に作られている。代金は注文の日に払われている。屋根がないのは、低い橋をくぐるための、組合の古い決まりだ。どれも、本当のことだった。
あの人は、王家が金貨を薄めていることに気づいている。だから、崩れる前に、価値のあるものを持って運河から逃げる。
賢い人だ。
けれど、逃げ支度をする者は、もう攻めてはこない。
リリアは、窓の外の運河の鈍い光を眺めた。
「……あの人も、逃げ支度かしら」




