第十八話 全員一致
その男が錨亭に来たのは、雨の降る晩だった。
白い外套を着た、物腰の柔らかい男だった。王都の商会の使いだと名乗り、帳場のおかみに、上等の葡萄酒を一本注文した。
それから、おかみに言った。
「少し、お話を」
わたくしは、二階の部屋で、その話を聞いていた。床板の隙間から、声は筒抜けだった。この宿の床板がきしむのは、前から知っている。
「盟約の規則書に、一条だけ書き足していただきたいのです」
男の声は、穏やかだった。
「盟約者は、祝福債の空売りを禁ず。それだけです。賛成していただければ、旧金貨で百枚」
おかみは、すぐには答えなかった。
「……空売り、ってのは何だい」
「借りた札を売って、値が下がったら買い戻す。あの追放されたお嬢さんが、北の鉱山の札でやったことですよ。あれで、おかみさんは旦那さんの形見を半値で手放したそうですね」
床板の下が、静かになった。
「あの方が、今度は祝福債を借りて持っている。売りに出せば、祝福債を持っている人たちの札の値が下がります。それを止める一条です。悪い話ではないでしょう」
男は、嘘は言っていなかった。わたくしが北の鉱山の札でしたことも、おかみが形見を手放したことも、本当だ。
本当のことだけを並べる話し方。
あの女の、話し方だった。
◇
翌日、マルタの網小屋にも、同じ男が来たと聞いた。
それから、帆布屋と、干し肉屋と、縄屋にも。
「あの女は、おかみとマルタを狙ったな」
グリムが言った。
「お前のせいで損をした者を」
「ええ」
わたくしは、帳面を閉じた。
「それに、あの女の狙いは、改正そのものではございませんの」
「どういうことだ」
「規則書を改めるには、二十四人の全員が要りますわ。わたくしも、その一人。わたくしが嫌だと申せば、改正は通りません」
「なら、お前が拒めば済む」
「ええ。わたくし一人が拒めば」
わたくしは、窓の外の鈴懸の木を見た。
「二十三人が賛成して、わたくし一人が拒む。自分の空売りを守るために、皆さまの決めたことを、ひとりで潰す。そうなれば、盟約は二度と、わたくしを信じませんわ」
グリムが、黙った。
「あの女は、知っておりますの。わたくしが、規則書に署名した者だということを。署名した文言には、背けないということを」
書かせてしまえば、相手は自分で自分を縛る。
あの女は、わたくしに、わたくしの書いた規則書で、わたくしを縛らせようとしている。
改正が通れば、わたくしは大司教から借りた額面四万の祝福債を、一枚も売れなくなる。売れば、署名した規則書に背くことになる。改正を一人で潰せば、盟約を失う。どちらに転んでも、あの女の勝ちだ。
◇
合議は、三日後の夜、鈴懸の木の下で開かれた。
篝火が三つ。二十四人。あの盟約の夜と、同じだった。
改正を言い出したのは、帆布屋だった。
「盟約者は、祝福債の空売りを禁ず。この一条を、規則書に加えたい」
帆布屋は、わたくしのほうを見なかった。干し肉屋と縄屋が、うつむいたままうなずいた。
何人かが、ざわめいた。
「空売りってのは、北の鉱山のあれだろう」
「あれで、港の者も何人か損をした」
篝火がはぜた。
わたくしは、立ち上がった。
ここで反対すれば、空売りを守るために盟約を潰す女になる。黙っていれば、四万の祝福債を抱えたまま、何もできない女になる。
「わたくしの件ですもの」
二十三人の顔が、こちらを向いた。
「わたくしの票は、最後にいたしますわ。皆さまが先にお決めくださいな」
グリムが、規則書を広げて、一人ずつ名を呼んでいった。
塩商の親父は、賛成した。樽屋の女主人は、少し考えてから、賛成した。船大工の親方は、腕を組んだまま、黙ってうなずいた。帆布屋、干し肉屋、縄屋。賛成、賛成、賛成。
ひとり、またひとりと、賛成が積み上がっていく。
それは、わたくしが北の鉱山でしたことの、値札だった。
「マルタ」
グリムが、名を呼んだ。
マルタは、秤のそばに立っていた。腕を組んで、篝火を睨んでいた。
「嫌だ」
マルタは、きっぱりと言った。
広場が、しんとした。
全員一致は、その一言で崩れた。
マルタは、足元から布の袋を一つ持ち上げた。重そうな袋だった。それを、公の秤の皿に、どさりと載せた。
「あの白い外套の男が、あたしの網小屋に置いていったやつ。旧金貨で百枚」
マルタは、分銅を動かした。
「ちゃんと本物。目方も足りてる。だから、余計に嫌だった」
それから、篝火の向こうの暗がりに向かって、声を張り上げた。
「聞こえてんでしょ! 持って帰んな! あたしの票は、あたしが決める。金貨で決めない!」
暗がりで、誰かが身じろぎした。白い外套の裾が、篝火の光の端をかすめて、すぐに消えた。
マルタは、わたくしのほうを向いた。
「勘違いしないでよ。あんたのためじゃない」
「存じておりますわ」
マルタは、規則書を指さした。
「覚えといてって、言ったでしょ」
「ええ。覚えておりましたわ」
グリムが、次の名を呼んだ。
「錨亭のおかみ」
おかみは、篝火の向こうで、前掛けの端を握っていた。
それから、前掛けの隠しから、古い羊皮紙を一枚取り出した。角が擦り切れた、北の鉱山の持分札。
「これさ、戻ってきたんだよ」
おかみは、札を篝火にかざした。
「ハンスの旦那が持ってきた。誰から、とは言わなかったけどね」
「あたしは、この札を半値で売った。噂を信じてさ。噂を流したのが誰かも、知ってる」
おかみは、わたくしのほうを見なかった。
「それでも、戻ってきた。買った値でね。今の値じゃなくて」
おかみは、札を前掛けの隠しに戻した。
「もう決まってるけどさ。あたしも嫌だね」
グリムが、規則書を閉じた。
「改正は、成らん。全員一致にならなかった」
わたくしの番は、来なかった。
◇
合議が終わったあと、帆布屋と干し肉屋と縄屋は、目を合わせずに帰っていった。
「三人、どうする」
グリムが聞いた。
「どうもいたしませんわ」
わたくしは言った。
「名前は、覚えておきますけれど」
「泳がせるのか」
「あの方々は、王都の商会と話す道をお持ちですもの。いずれ、わたくしが王都へ届けたい話を、運んでいただきますわ」
◇
その翌日、ルーカスが港町に来た。
錨亭の奥の部屋で、わたくしは卓の上に書類の束を置いた。
グリムの帳面の写し。盟約の夜から書きつけてきた、夜のうちに港を出た船の名と日付。それから、砦の荷改め所の古い帳面の写し。ローゼンタール伯爵家の名で、「奉公」の娘たちが乗せられた船の記録。娘たちの名と、年と、船の行き先。
ルーカスは、卓を挟んで向かいに座り、一枚ずつ読んでいった。
長い時間がかかった。
最後の一枚を読み終えたとき、ルーカスは顔を上げなかった。
「……いつから、持っていた」
「娘たちの名は、断罪の前から。船の日付は、この港に来てから」
「なぜ、今だ」
「確かな値になりましたもの」
わたくしは言った。
「確信だけではなく、証拠になりましたの。積荷を量る決まりを作ってから、逃げた船の数と日付を書きつけてまいりました。荷改め所の古い帳面と、日付が合いますわ」
ルーカスは、書類の束を手で押さえた。
「対価は」
「何も」
「高く買え、と言ったのはお前だ」
「ええ。申しましたわ」
わたくしは、書類の束から手を離した。
「けれど、値をつけてみたら、つけられない品でしたの。人の命ですもの。売る手札ではございませんでしたわ」
ルーカスが、初めて顔を上げた。緑の目が、まっすぐにわたくしを見た。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて、ルーカスが言った。
「お前の罪を、一度だけ見逃す」
わたくしは、目を瞬かせた。
「書面には、なさいませんの?」
「しない」
ルーカスは、書類の束を抱えて立ち上がった。
「書面にすれば、お前の側にも何か書かねばならん。お前に、借りを作らせる気はない。これは、俺が勝手に言っているだけだ」
扉の前で、ルーカスは一度だけ振り返った。
「借りは、俺の側にある」
◇
その夜、港で騒ぎがあった。
商会の船二隻。わたくしがかつて売った、保険の切れた船だ。その甲板で寝泊まりしていた帝国の船乗りたちのもとへ、騎士団が踏み込んだ。
十人。一人も逃がさなかったという。
帝国の船乗りたちの荷からは、王都の商会の名の入った雇い入れの証文と、帝国の港に宛てた、娘たちの「受け取り」の書付が出てきた。
窓の外で、松明の列が、ゆっくりと砦へ向かっていった。
わたくしは、それを見送りながら、扇を閉じた。
港の奥で、乗り手を失った二隻の船が、暗い海に揺れていた。




