第十七話 答えない聖女
ルッツは、十日後に戻ってきた。
無事だった。痩せてもいなかった。懐に、写し取った帳面の束を抱えていた。
「聖女様は、お優しい方でした」
錨亭の隅の卓で、ルッツは言った。
「書庫の机に、ちょうど利払いの帳面が開いてあったんです。それで、急いで写しました。誰にも咎められませんでした」
ちょうど、開いてあった。
わたくしは、隣のグリムと目を合わせなかった。合わせるまでもなかった。
「それで、お尋ねしたことのお返事は?」
ルッツは、背筋を伸ばした。それから、目を閉じて、一字ずつ思い出すように言った。
「王家の金庫のことは、王家の方々がお考えになることです。わたしは、毎日祈っております。あなたも、祈ってくださいね」
「それだけ?」
「それだけです」
「お手は?」
「お答えになる前に、白い日傘の柄を、指で二度叩いておられました」
わたくしは、しばらく黙っていた。
「ありがとう存じますわ、ルッツさん。一言も違えずに覚えてきてくださいましたのね」
ルッツは、少し照れくさそうに頭を下げた。
◇
その夜、わたくしはひとりで、ルッツの言葉を紙に書き写した。
――聖女様、王家の金庫は、大丈夫なのですか。
――王家の金庫のことは、王家の方々がお考えになることです。わたしは、毎日祈っております。あなたも、祈ってくださいね。
問いは、一言で答えられる。大丈夫ですよ、と。
聖女なら、そう答えるはずだった。祝福債を売っている聖女なら、なおさら。不安そうな若い書記見習いに、大丈夫ですよと微笑むのに、何の手間もかからない。
けれど、あの女は、そう言わなかった。
わざわざ回り道をして、一言も「大丈夫」と言わずに済ませた。
わたくしは、ペンを置いた。
あの広間でも、そうだった。わたくしの耳で聞いた言葉だ。恨んではおりません。あの日のことは、一生忘れません。許すとは、一度も言わなかった。
ハンスが聞いてきた大聖堂の説法でも。わたしは、毎日祈っております。損はしない、とは言わなかった。
オットーが運んできた北の鉱山の話でも。この山は、まだ終わっていません。鉱脈がある、とは言わなかった。
いつも、回り道をしている。本当のことだけを並べて、相手に勝手に思い込ませる。
あれは、手口だと思っていた。
けれど、手口なら、楽な道を使う日もあるはずだ。大丈夫ですよ、と一言言えば済む日には、一言言えばいい。嘘をついたほうが得な場面で、嘘をつかない詐欺師はいない。
ただ一人の場合を除いて。
わたくしは、自分の手を見下ろした。
破ったほうが得な場面で、わたくしは契約を破らない。破れないからだ。
嘘をついたほうが得な場面で、あの女は嘘をつかない。
「……つけないのね」
声に出してみて、わたくしは小さく笑った。
あの女は、嘘を口にできない。
◇
「次は、帳面だな」
翌朝、グリムが、ルッツの写しを卓に広げた。
祝福債の利払いの記録。何年何月、誰に、いくらの利息を払ったか。月ごとの総額。その横に、同じ月に新しく売れた祝福債の売り上げ。どの数字も、几帳面な字で並んでいる。
「本物だ。数字に、ごまかしはない」
「ええ。あの女は、本当のことしか渡せませんもの」
わたくしは、帳面を頭から読んだ。一度。二度。
それから、帳面に書かれていないものを数えた。
「払った金貨の数は、書いてありますわね。けれど、その金貨がどこから来たのかは、どこにも書いていない」
グリムが、太い指で帳面の端を押さえた。
「祝福債の売り上げだろう。新しい買い手の金で、古い買い手の利息を払っている」
「それだけなら、この帳面の総額に届きませんの」
わたくしは、ここ半年の利払いの総額と、売り上げの欄を指でなぞった。
「利払いのほうが、売り上げより多い月が続いておりますわ。足りない分を、王家が払っている。王家の保証どおりに。その金貨は、王家の造幣所で作られたはず」
「金貨の発行台帳か」
「ええ。あの女が見せたくないのは、この帳面ではなく、その台帳ですわ」
◇
台帳そのものは、王家の造幣所の奥にある。
けれど、グリムは首を振らなかった。
「造幣所へ運び込まれる金は、王都の河港で荷改めを受ける。荷改め所の帳面に、目方が残る」
「王都の荷改め所にも、お知り合いが?」
「二十年、砦で荷を量った。王都の荷改め所の帳簿係には、仕事を教えた男が三人いる」
グリムは、ぼそりと言った。
「書いてあることを写してくれと頼めば、断らん。書いてあることだからな」
二十日後、グリムのもとに、王都から三通の手紙が届いた。
この一年、造幣所へ運び込まれた金の目方。月ごとに、きっちりと。
グリムは、三つの数字を突き合わせた。
一つ目。造幣所へ入った金の目方。
二つ目。ルッツの写しから出る、利払いの総額と売り上げの差。王家が造幣所で埋めなければならなかった、金貨の数。
三つ目。王の秤で量った、新しい金貨一枚の目方。
足りない分の金貨の数に、一枚の目方を掛ければ、要った金の目方が出る。それを、造幣所に入った金の目方と比べる。
「合わん」
グリムが、帳面を閉じた。
「入った金より、要った金のほうが多い。一割薄めた金貨で数えても、だ。ほかに金の出どころがあるか、量った金貨よりもっと薄いものが出ているか、どちらかだ」
「どちらにしても、台帳を見れば分かりますわね」
「台帳には、そう書いてあるはずだ。何年何月、金をどれだけ使い、金貨を何枚作ったか」
グリムは、組み立てた数字の表を、わたくしの前に滑らせた。
台帳の写し、と呼ぶには、まだ荒い。けれど、誰でも確かめられる。金の目方は荷改め所の帳面に、金貨の目方は王の秤の上に、利払いの数は大聖堂の書庫に。三つとも、本当のことだけでできている。
わたくしは、その表を、長いこと見ていた。
◇
その夜、眠る前に、ルッツの言葉をもう一度読んだ。
――お答えになる前に、白い日傘の柄を、指で二度叩いておられました。
白い、日傘。
指で、二度。
なぜか、雨の音がした気がした。
窓の外は晴れていた。港の灯りが、静かに揺れているだけだ。
それでも、耳の奥で、雨が降っていた。ビルの谷間に打ちつける、冷たい雨。濡れた路面に広がっていく、街の灯り。それから、男の肩越しに見えた、白い――
そこで、思い出すのをやめた。
やめたのではない。その先が、まだ出てこなかった。
わたくしは、紙をたたんだ。
あの晩の翌朝――ルッツが王都へ戻る前に、わたくしは錨亭の戸口で彼を呼び止めていた。
「ルッツさん。聖女様は、また誰かに何かを尋ねられたら、同じようにお答えになると思いますかしら」
ルッツは、少し考えてから答えた。
「はい。あの方は、いつも同じようにお答えになると思います。言い方を、選んでいらっしゃるので」
「そう」
わたくしは、ルッツの外套の襟を直してやった。
「では、いつか、わたくしが直にお尋ねしますわ。嘘を口にできない方に、お尋ねしたいことが、ございますの」




