第十六話 囮
「甥を、ですか」
ハンスは、帳場の向こうで、しばらく言葉を探していた。
「ルッツは、姉の息子でしてね。十七になります。王都の大聖堂で、書記見習いをしております。字がきれいで、真面目で、毎朝欠かさず祈る子です」
「字がきれいなのは、存じておりますわ。お店の帳場に、甥御さんからの手紙が飾ってありますもの」
「お嬢さんは、あの子に何をさせるおつもりで」
わたくしは、正直に言った。
「大聖堂の書庫で、祝福債の利払いの帳面を写してきていただきたいの。それから、聖女様に、一つだけお尋ねしていただきたいことがございます」
「……危ないことは」
「道中には、ございますわ。王都の街道は物騒ですもの」
ハンスが、顔を上げた。
「大聖堂では?」
「あの方は、きっとすぐに気づきます。ルッツさんが、わたくしの手の者だと。けれど、気づいても、あの方のもとでは何も起きませんわ」
わたくしは言った。
「あの方は、見抜いた駒を罰しませんの。泳がせて、使います。罰すれば、わたくしに気づいたことを教えてしまいますもの。ですから、ルッツさんは無事に戻ってまいります。あの方が使いたいものを、持たされて」
ハンスは、長いことわたくしを見ていた。
「お嬢さんは、それが分かっていて送るんですか」
「ええ。持たされたものの中に、わたくしの欲しいものが入っておりますの」
ハンスは、天秤の皿を指で弾いた。かすかな音がした。
「……あの子には、お嬢さんから話してください。わたしからは、頼めません」
◇
ルッツは、ハンスによく似た丸い目をした少年だった。
錨亭の隅の卓で、わたくしは彼に二つのことを頼んだ。帳面を写すこと。聖女に一つだけ問うこと。
「お尋ねするのは、この一言だけ」
わたくしは、紙に書いて渡した。
――聖女様、王家の金庫は、大丈夫なのですか。
ルッツは、紙を見て首をかしげた。
「これだけ、ですか」
「ええ。聖女様がなんとお答えになったか、一言も違えずに覚えてきてくださいな。お顔も、手も」
「手、ですか」
「何をしていらしたか。それだけで結構」
ルッツは、真面目な顔でうなずいた。
「もし、怖いことがあったら」
わたくしは、付け加えた。
「帳面も問いも放り出して、すぐにお逃げなさい。約束も書面もいりません。逃げてよろしいの」
ルッツが王都へ発ったあと、グリムが言った。
「戻ってこなくてもいい役だな」
「いいえ。見抜かれる役ですわ」
わたくしは、湯気の消えたスープを見下ろした。
「戻ってこなければ、困りますの。あの女が何を持たせたかを、知りたいのですもの」
それから、もう一言だけ付け足した。
「……戻ってこなかったら、そのときは、わたくしが自分で迎えに参りますわ」
グリムは、何も言わずに帳面を閉じた。
十七の少年を、手紙のように使う。それが悪女のすることだと、わたくしはよく知っていた。知っていて、送ったのだ。
◇
大聖堂の書庫で、新しい書記見習いが熱心に帳面を写している。
リリアがそれに気づいたのは、彼が来て三日目のことだった。
書記見習いは、いくらでもいる。けれど、その少年の指には、南の港町でしか使わない、魚の油を混ぜた安いインクの染みがついていた。それに、出身を尋ねられて、両替商の叔父がいると答えたという。
南の港町の、両替商。
リリアは、窓辺の椅子で、畳んだ白い日傘の柄を、指で二度叩いた。考えごとをするときの癖だった。
あの人の手の者だ。
捕らえるのは簡単だった。けれど、捕らえれば、気づいたことを教えてしまう。
泳がせればいい。
翌朝、リリアは、祝福債の利払いの帳面を、書庫のいちばん目につく机の上に置かせた。開いたまま。
帳面には、本当のことしか書かれていない。何年何月、誰に、いくらの利息を払ったか。払った総額。どれも、本物の数字だった。
本当のことは、いくら写されても困らない。
困るのは、そこに書かれていないことのほうだ。そして、書かれていないことは、写しようがない。
◇
少年が問いを口にしたのは、その日の夕方、回廊でのことだった。
「せ、聖女様」
声が、少し震えていた。
「一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
リリアは、微笑んで足を止めた。
「王家の金庫は、大丈夫なのですか」
回廊に、夕方の光が斜めに差し込んでいた。
リリアは、少年の目を見た。丸い、正直な目だった。
リリアは、白い日傘の柄を、指で二度叩いた。それから、柔らかく微笑んだ。
「王家の金庫のことは、王家の方々がお考えになることです」
少年は、黙って聞いていた。
「わたしは、毎日祈っております。あなたも、祈ってくださいね」
少年は、深く頭を下げた。
リリアは、その頭を見下ろしながら、わずかに首をかしげた。
この問いを、この子が自分で思いついたとは思えない。
あの人は、帳面のほかに、問いを一つ持たせた。答えが一言で済む問いを。
リリアは、回廊を歩き出した。
何も、渡してはいない。
そのはずだった。
「……あの人の手駒は、正直すぎる」
回廊の角を曲がりながら、リリアは小さく呟いた。
正直な駒は、聞いたことを一言も違えずに持ち帰る。




