第十四話 免罪符の暴落
王都からの買い手は、十三日目の朝にやってきた。
黒い外套の男が三人。大聖堂の下働きらしい、腰の低い物腰だった。けれど、袋の中身は重かった。金貨だった。
「免罪符を、あるだけ」
男のひとりが、板の前で言った。
「今日の値は三十五ですが」
マルタが言った。
「四十出す。あるだけだ」
港の商人たちが、ざわめいた。
わたくしは、扇の陰で、目を細めた。
大司教ヴァルターが、動いたのだ。
◇
男たちは、毎朝やってきた。
四十。六十。八十。百。百二十。
値を吊り上げているのは、もうわたくしではなかった。大聖堂の金貨だった。
男たちの袋の金貨には、王都の商会ギルドの刻印が打たれていた。大司教は、ギルドの長から金を借りている。借りた金貨で、市場に出ている免罪符を一枚残らず買い占めようとしている。
買い占めて、値を思うままにしてから、新しく刷った免罪符を売りに出す。
そういう算段だろう。
男のひとりが板の前で広げた書付を、わたくしは見た。大司教の印が押してある。
――値にかかわらず、市に出る札は、すべて買え。
買い占めが成功すれば、値は買い占めた者の言い値になる。
ただし、買い占めには一つだけ、条件がある。
自分のほかに、買い手がいなくてはならない。
◇
「グリム。わたくしの手元の免罪符は、何枚?」
「五百」
グリムは、帳面を見もせずに答えた。
「港の皆さまの手元には?」
「盟約の者で、合わせて三百ほど。盟約の外の商人で、二百ほど。貧しい者たちの手元には、もうほとんど残っておらん。この十日で、ほぼ全員が売った」
「そう」
わたくしは、鈴懸の木の下に立った。板の前に。
それから、白墨を取って、板のいちばん下に、一行書き足した。
――エレオノーラは、明日の朝から、免罪符を買いません。
広場が、静まり返った。
港の商人たちが、板とわたくしの顔を見比べている。
「どういうことだ」
塩商の親父が言った。
「書いてあるとおりですわ。わたくしは、明日から買いません。今日のうちにお売りになりたい方は、どうぞ。大聖堂の皆さまが、銀貨百二十でお買いになりますわ」
塩商の親父は、しばらく板を睨んでいた。
それから、懐から免罪符を取り出して、黒い外套の男のほうへ歩いていった。
ひとり、またひとりと、港の商人たちがそれに続いた。王都から来ていた商人も、十枚の免罪符を抱えて列に加わった。
わたくしは、自分の五百枚を、黒い外套の男たちに売った。一枚、銀貨百二十。金貨に替えて、三千枚。
男たちは、満足そうに袋を空にしていった。
板の最後の一行を、彼らも読んだかもしれない。けれど、彼らの書付には、値にかかわらず、と書いてある。
◇
翌朝、黒い外套の男たちは、荷車を引いてやってきた。
荷車には、木箱が積まれていた。蓋を開けると、刷り上がったばかりの免罪符が、ぎっしりと詰まっている。インクの匂いが、まだ新しかった。
「売りに来た」
男が言った。
「一枚、銀貨百。昨日より安い」
広場では、誰も動かなかった。
港の商人たちは、もう一枚も持っていない。持つ気もない。板の最後の一行を、皆が読んでいた。
貧しい者たちは、もう売り終えている。
わたくしは、買わない。
「……八十」
男が言った。
誰も、動かなかった。
「五十」
「二十」
マルタが、秤の前で、あくびを噛み殺していた。
日が傾くころ、免罪符の値は、銀貨二枚になっていた。それでも、買い手はつかなかった。
黒い外套の男たちは、荷車を引いて帰っていった。木箱は、一つも減っていなかった。
◇
大司教ヴァルターが錨亭に現れたのは、それから五日後の夜だった。
粗末な旅のマントを頭からかぶって、供も連れずに。それでも、マントの裾からのぞく靴は、金糸で縫い取られていた。
「……そなたが、エレオノーラか」
酒場の隅の卓で、大司教は低い声で言った。
「お手紙を、お読みくださいましたのね」
わたくしは、スープの椀を脇に寄せた。
三日前、オットーの船に、一通の手紙を託しておいたのだ。
――お困りでしたら、お手持ちの祝福債をお貸しくださいな。貸借料として、金貨五百枚を前払いでお支払いいたします。
「ギルドの長が、借金の返済を迫ってきおる」
大司教は、苦々しげに言った。
「免罪符を買い集めた金だ。明後日までに、せめて利息の分だけでも払わねば、ギルドの長は、大聖堂の帳簿を王子殿下に見せると言うておる」
「それは、お困りですわね」
「そなたのせいだ」
大司教の目が、マントの陰で光った。
「そなたが買いを止めたせいで、免罪符は紙切れになった」
「わたくしは、板に書きましたわ。明日から買いません、と」
わたくしは、首をかしげた。
「大聖堂の方々は、お読みにならなかったのかしら。それとも、値にかかわらず、とお書きになったのは、どなた?」
大司教は、口を開きかけて、閉じた。
◇
「祝福債は、どれくらいお持ちですの?」
「……額面で、金貨四万枚分」
「大聖堂が出したものを、大司教様ご自身が?」
「聖女殿から、受け取ったものだ」
大司教は、目をそらした。
「祝福債を、大聖堂が出す名義を貸した。その見返りにな」
わたくしは、紙とペンを取り出した。
書面は、わたくしが書いた。
貸し手と借り手の名。貸すのは、祝福債、額面金貨四万枚分。借り賃は金貨五百枚、今夜払う。返すものは、同じ祝福債を、同じ額面分。貸借のあいだの利息を、借り手は貸し手に払わない。
それから、返却の期日の欄を、空けたまま、大司教のほうへ紙を滑らせた。
「期日は、いつがよろしいかしら」
大司教は、書面を眺めた。眺めるうちに、マントの陰の口元が、少しずつゆるんでいった。
「……そなた、祝福債を借りて、売るつもりだな。値が下がると読んで」
「さあ。どうかしら」
「愚かな女だ。北の鉱山の札で、懲りたのではなかったのか」
大司教は、笑った。
「祝福債は、聖なる加護で守られておる。王家が利息を保証しておる。下がりはせん。上がり続ける。返すときには、今よりずっと高い値で買い戻さねばならんぞ」
「存じておりますわ」
「期日は、遠いほうがよいのか」
「ええ。できるだけ」
大司教は、もう一度笑った。
「好きにするがいい。遠ければ遠いほど、そなたの損が膨らむだけのことだ」
◇
わたくしは、書面を頭から三度読んだ。
一条ずつ。一字ずつ。
借りるのは、祝福債。返すのは、同じ祝福債を、同じ額面分。値がいくらであろうと、額面が同じなら、同じ祝福債だ。
借り手は、利息を払わない。大司教は、そこを読んで満足そうにうなずいた。利息は、これまでどおり大聖堂から自分に入る、と思っているのだろう。
借りた祝福債を売ってしまえば、利息を受け取るのは、新しい持ち主だ。大司教様の手元には、一枚の利札も届かない。そして借り手が払うとは、どこにも書いていない。
わたくしは、空けておいた期日の欄に、ペンを置いた。
書き込んだのは、今年の冬至の日。
それから、その横に、もう一行。
――借り手は、右の日までのいつでも、返却することができる。
大司教が、その一行を読んで、鼻で笑った。
「いつでも返せる、とな。値が上がるのに怯えて、早く返したくなるだろうよ」
わたくしは、署名を書き終えて、ペンを置いた。大司教も、震える手で名を書いた。
金貨五百枚の袋を、卓の上に置く。大司教は、それを奪うようにマントの下へしまい込んだ。
「ひとつ、お尋ねしてよろしいかしら」
立ち上がりかけた大司教に、わたくしは言った。
「何だ」
「お買いになった免罪符は、どうなさいますの? 罪が消える紙が、まだ木箱にたくさん残っておりますでしょう」
大司教の顔が、マントの陰で引きつった。
「ご自分の分も、お持ちになったら? 一枚で、どれほどの罪が消えるのか、存じませんけれど」
わたくしは、にっこりと微笑んだ。
「罪が消える紙を売った方が、その紙で首が回らなくなるなんて。神様も、帳簿をおつけになるのね」
大司教は、何も言わずに錨亭を出ていった。
扉が閉まる音に、帳場のおかみが顔を上げた。それから、わたくしのほうを見た。
おかみは、小さく鼻を鳴らした。
笑ったのだと、わたくしは思うことにした。
◇
部屋に戻ると、グリムが待っていた。
卓の上には、帳面が広げてある。
「この局の出入りだ」
グリムは、太い指で帳面をなぞった。
「免罪符の売り、金貨三千。貸借料、金貨五百。免罪符の買い入れと市の手数料は、銀貨で払ってある。差し引きで、手元に二千五百」
「船も、倉庫も、宝石もなくなって」
「二千五百だ」
グリムは、帳面を閉じた。
「最初に港に来た晩より、ずっと多い」
わたくしは、笑った。
窓の外で、鈴懸の葉が鳴っていた。
卓の上には、大司教と交わした書面が置いてある。額面四万の祝福債を借りる、と書かれた紙。
わたくしは、期日の欄を、指でなぞった。
今年の冬至の日。
祝福債は、それより前に崩れる。崩れれば、紙切れになる。紙切れを、同じ額面分だけ買い戻して返せばいい。
崩れる前に売り、崩れたあとで買う。
それが、いつになるかは、わたくしが決める。
わたくしは、書面に向かって、そっと言った。
「返却は、わたくしの決めた日に」




