第十三話 契約を破れない女
「妙な女でございました」
南の港町から戻った細身の男は、商会ギルドの長の後ろに控えたまま言った。
大聖堂の控えの間。リリアは、窓辺の椅子に座って、男の話を聞いていた。
「船と倉庫を千五百と申しましたら、値切りもせずに、千五百でよいと。競りで二千で落としたものをですよ。それから、書面を自分で書いて、三度読みました」
「三度」
「ええ。頭から、一字ずつ。こちらが待ちくたびれるほどで」
男は、首をかしげた。
「それに、魔石問屋の話では、最後の四十枚を買う前に、金貨で払えば一枚八十で勘定して割り引く、と申し出たそうで。それを、書面には同じ札を同じ枚数と書いてある、と断って、うちのギルドから一枚百五で四十枚を買っていきました」
ギルドの長が、鼻で笑った。
「追放されて、頭がおかしくなったのでしょうな。金貨で払えば、千は浮いたものを」
リリアは、答えなかった。
◇
二人が下がったあと、リリアはひとりで窓辺に立っていた。
頭がおかしくなったのではない。
あの女は、前の世界のやり方を知っている。期日の延ばしを頼むことも、相手の申し出に乗って損を減らすことも、誰よりよく知っているはずだ。
それを、しなかった。
できなかったのだ。
リリアは、あの断罪の広間を思い出していた。
王子が婚約の破棄を宣言したとき、あの女は「承りました」とは言わなかった。「殿下のお言葉、しかと覚えておきますわ」とだけ言った。破棄を宣言したのは王子ひとり。もし婚約の契約書に、破棄を宣言した側を咎める条文があったとしたら。あの女は、まだ何も使っていない。使うときを、待っているだけかもしれない。
取り巻きの家々の借金の保証も、そうだった。身分の剥奪が宣告された瞬間に、条文が保証を解いた。
あの女は、いつも条文で勝つ。
そして、一度も条文を破らない。
破れるはずの場面でも。破ったほうが得な場面でも。
リリアは、自分の唇に指を当てた。
わたしは、嘘を口にできない。言おうとすると、喉が凍る。この世界に生まれ落ちたときから、そうだった。だから、本当のことだけで人を動かす術を磨いた。
もし、あの女にも、同じような縛りがあるとしたら。
嘘ではなく、署名した文言に背けない、という縛りが。
だから、書面を三度読む。だから、守れないことは書かない。だから、得な申し出があっても、文言から一字もはみ出せない。
「……わたしと、似た縛り」
声に出してみて、リリアは小さく笑った。
鍵のかかった扉の鍵穴が、ようやく見えた気がした。
扉の向こうにいる相手は、決して契約を破らない。それはつまり、契約さえ書かせてしまえば、相手は自分で自分を縛るということだ。
◇
リリアは、机の上の地図を広げた。
南の港町。その港に、今は商会のものになった船が二隻、泊まっている。
細身の男には、保険などなくても船は動く、と言わせておいた。本当のことだ。
ただ、港町の船乗りは、保険のない船には乗らない。あの盟約の規則書が、そういう港にしてしまった。
だから、港町の船乗りではない者を乗せればいい。
騎士団長が追っている帝国の船乗りたちは、いずれどこかの船に乗る。港を急いで出なければならない誰かを乗せて。
リリアは、地図の上の港町を、指先で軽く叩いた。
いつか、急いで出ていく日が来るかもしれない。そのとき、すぐに出られる船が、港に二隻。
備えというのは、そういうものだ。
リリアは、地図をたたんだ。
「あの人は、契約を破れない」
◇
「免罪符を、上場いたしますわ」
鈴懸の木の下で、わたくしは言った。
グリムが、帳面から顔を上げた。
「免罪符を? 大聖堂が売っている、あの紙切れをか」
「ええ。この札を持つ者の罪は赦される、と書いてありますでしょう。誰の罪、とは書いておりませんの。持っている者の罪。つまり、持参人払いですわ。売り買いができますの」
わたくしは、懐から一枚の免罪符を取り出した。港の教会の前で、老人から銀貨十枚で買ったものだ。
「大聖堂は、これを一枚銀貨十枚で、貧しい人たちに売りました。罪が消える、と言って」
「消えるのか」
「消えませんわ。それは、売った者がいちばんよく知っております」
わたくしは、免罪符を板の前に掲げた。
「嘘で売られた紙ですもの。買った方々に、損をさせたままにはしておけませんわね」
グリムは、しばらくわたくしを見ていた。
「……今度は、嘘の噂は流さんのか」
「流しませんわ」
わたくしは言った。
「今度は、間違えませんの」
その夕方、騎士団の早馬が、錨亭に手紙を一通置いていった。
――帝国の船乗りどもは、商会の船に雇われた。港を出る気配は、まだない。
――言い忘れた。負けを認めるのは、悪いことではない。
――以上。
今度も、以上、で終わっていた。わたくしは、それを三度は読まなかった。二度で、たたんだ。
◇
最初の朝、鈴懸の木の下の板に、新しい行が加わった。
免罪符、一枚銀貨十枚。
買い手は、わたくしだった。
手元に残った五百枚の金貨で、わたくしは港町に出てきた免罪符を、片端から買っていった。売り手は、港の後家や、年寄りや、鉱山町から流れてきた者たち。罪が消えると言われて買った紙を、銀貨十枚で引き取ってもらえるなら、と持ってくる。
二日目、板の値は十二になった。
わたくしは、十二で買った。
三日目、十五。
港の商人たちが、板を見上げて首をかしげはじめた。紙切れの値が、毎日上がっている。誰かが買い集めている。
四日目、王都から来た商人が、十八で十枚買っていった。
五日目には、港の商人たちも買いはじめた。
値が上がるから、買う。買うから、値が上がる。
泡のように膨らんで、泡のように弾けるもの。前の世界で、何度も見た。
わたくしは、自分で泡を吹いていた。
◇
ハンスが王都から戻ってきたのは、十日目のことだった。
ひとりではなかった。
荷馬車の後ろに、十人ほどの男女が乗っていた。痩せた老人。継ぎの当たった服の女たち。それから、腕に赤子を抱いた、若い母親。
「お嬢さんに言われたとおり、王都の貧民街で触れて回りましたよ」
ハンスは、荷馬車から飛び降りながら言った。
「港町の市で、免罪符を買った値より高く引き取る者がいる、と。半分の人は信じませんでしたがね。信じた人を、連れてまいりました」
若い母親が、おずおずと荷馬車から降りてきた。赤子を片腕に抱き直して、もう片方の手で、懐から紙を出す。
大聖堂の紋が刷られた、免罪符が三枚。
「……あの、本当に、ここで」
「ええ」
マルタが、秤の前から答えた。わたくしより先に。
「板を見て。今日の値は、一枚銀貨三十。あんたが大聖堂で十で買ったなら、三倍だよ」
母親は、板を見上げた。字は読めないのかもしれない。それでも、マルタの指さす数字を、長いこと見つめていた。
わたくしは、母親から三枚の免罪符を受け取り、銀貨を九十枚、数えて渡した。
母親は、銀貨を握りしめた。
それから、泣きそうな顔で、笑った。
「この子の、冬の分の乳が、買えます」
赤子が、母親の腕の中で、小さくあくびをした。
「説法の日に、最前列にいた方ですよ」
ハンスが、わたくしの耳元でささやいた。
「聖女様が、あの子の額に指を触れておられました」
わたくしは、赤子の額を見た。
マルタが、わたくしの横顔をちらりと見て、秤の皿を布で拭いた。それから、次の売り手を呼んだ。
◇
その夜、王都の大聖堂では、大司教ヴァルターが、商会ギルドの長から届いた手紙を読んでいた。
――南の港町の市にて、免罪符、一枚銀貨三十。なお値上がりの見込み。
大司教は、手紙を二度読んだ。
それから、書庫の奥の、免罪符を刷るための版木の箱に目をやった。
「……刷れば、売れるのだな」




