第十二話 踏み上げ
知らせは、オットーの船が運んできた。
「北の鉱山の東の斜面から、新しい鉱脈が出たそうでございます」
桟橋に降りるなり、オットーは言った。いつもの地味な顔に、珍しく困惑の色が浮かんでいた。
「聖女様が祈られた場所から、と。王都では、奇跡だと大騒ぎで」
わたくしは、しばらく何も言わなかった。
潮風が、耳元で鳴っていた。
「札の値は」
「私どもが王都を出たときで、一枚四十」
わたくしは、扇を閉じた。
◇
鈴懸の木の下の板は、その日の昼に書き換えられた。
四十。
翌朝には、五十五。
港の商人たちが、問屋の帳場に駆け込んでいく。わたくしが札を売ったのを見て、自分も札を借りて売っていた者たちだった。帆布屋。干し肉屋。盟約の外の、小さな商人が何人か。
値が上がるほど、彼らは慌てて買い戻す。買い戻すほど、値はまた上がる。
前の世界では、それを「踏み上げ」と呼んだ。売った者たちが、自分の売りに踏まれて、上へ上へと押し上げられていく。
わたくしは、その真ん中にいた。
◇
「期日まで、あと十日ですな」
問屋の帳場で、フーゴが言った。
責める調子ではなかった。帳面を開いて、日付を指で押さえているだけだった。
「百枚。同じ鉱山の、同じ札を、同じ枚数」
「ええ。存じておりますわ」
わたくしは、手持ちの金貨で、まず六十枚を買った。一枚五十五。
板の値は、その日の夕方に六十五になった。
三日後には、八十。
五日後には、九十。
残りの四十枚を探しに問屋へ行くと、フーゴは首を振った。
「売り手が、おらんのです」
「おりませんの?」
「噂のあいだに投げ売りされた札を、王都の商会ギルドがほとんど買い集めておりましてな。ギルドの長は、言い値でしか手放さんそうで。南の港町から、どうしても買いに来る者がいるはずだ、と」
わたくしは、帳場の上の板を見た。
わたくしが売った札を、噂を信じた人たちが手放し、それをギルドの長が拾っていた。ギルドの長の後ろには、誰がいるのか。考えるまでもなかった。
あの女は、わたくしの噂を、わたくしの首に巻きつけたのだ。
◇
「お嬢さん」
ハンスの店の帳場で、わたくしは小箱を開いていた。
膝の上に載せて王都から運んできた、あの小箱だ。残っている宝石は二つ。青玉の耳飾りと、金剛石の指輪。
「本当に、よろしいんですか」
「よろしいから、お持ちしましたの」
ハンスは、しばらく指輪を見ていた。それから、天秤に載せた。分銅を一つずつ動かしていく。その指は、首飾りを売ったあの晩と同じように、ゆっくりと正確だった。
「目方と石の値打ちで言えば、二つで三千五百。……ですが」
ハンスは、言いにくそうに続けた。
「今夜わたしに出せる金貨は、三千枚が全部です。この十日で、手持ちの祝福債を半分、金貨に替えておいたんですよ。お嬢さんが最初からあれを買わなかったのが、どうにも気になりましてね。待っていただければ、王都から金貨を取り寄せますが」
「待てませんの」
「でしょうな」
ハンスは、帳場の下から袋を三つ取り出した。一枚ずつ、わたくしの目の前で数えていく。
一枚も、ごまかさなかった。
「三千。確かに」
「ありがとう存じますわ」
わたくしが立ち上がると、ハンスは小さな声で言った。
「……お嬢さん。指輪は、店の奥にしまっておきますよ。売りには出しません。いつか、買い戻しにいらしてください」
それから、ハンスは少し声を落とした。
「錨亭のおかみさんの札も、店の奥にあります。あれも、売りには出しておりません」
わたくしは、振り返らなかった。
◇
船と倉庫を買いたいという男は、待っていたように現れた。
細身で、仕立てのいい外套。指には、商会ギルドの紋の指輪。
競りの日に、紙の束を抱えていた、あの王都の男だった。
「お困りだと伺いましてね」
男は、薄く笑っていた。
「船二隻と倉庫。金貨千五百で、いかがです。今度は、ちゃんと金貨を持ってまいりましたよ」
競りで落とした値は、二千。
塩は、もう盟約の皆さまに分けてしまった。その代金は、船乗りたちの給金に消えた。
「千五百。結構ですわ」
男の眉が、わずかに上がった。値切られると思っていたのだろう。
書面は、わたくしが書いた。船二隻と倉庫を引き渡す。代金は金貨千五百枚、引き渡しの日に払う。それだけ。
「保険のことは、書かないのですか」
男が言った。
「船主が替われば、盟約の保険は切れますわ。お求めになるなら、改めて盟約にお申し出くださいな。合議で決めます」
「構いませんよ」
男は、あっさり言った。
「保険など、なくても船は動きますから」
わたくしは、書面を頭から三度読んだ。
それから、名前を書いた。引き渡しは、翌朝。
◇
期日の前日。手元には、ハンスの三千と、船の千五百と、残っていた二百。合わせて四千七百。
最後の四十枚を買いに出る前に、問屋の帳場で、フーゴが帳面を閉じた。
「エレオノーラ様。ひとつ、申し上げてよろしいか」
「何かしら」
「残りの四十枚、札で返すのが大変なら、金貨で払っていただいてもよい。一枚八十で勘定して、割り引いて差し上げます。今の値で札を買うより、ずっとお安く済む」
フーゴは、目をそらさずに言った。
「札は一枚残らず戻してほしい。ですが、あなたが首を括るのを見るくらいなら、金貨でいい」
帳場の椅子に腰を下ろしたまま、わたくしは膝の上の手を、ほんのわずかに浮かせた。金貨で払えば、まだ立っていられる。
その瞬間、胸の奥が冷えた。氷の指で、心臓をつかまれたように。署名した書面の文字が、胸の内側から、わたくしを見ていた。
わたくしは、その手を握りしめた。フーゴの顔を見た。
三十年、この港で正直に魔石を扱ってきた男の顔だった。
「書面には、同じ札を、同じ枚数、と書いてございますわ」
「書面は、わしとあなたのものです。わしが構わんと言えば……」
「お口でお許しいただいても、書面は変わりませんの」
わたくしは言った。
「それに、あなたが正直に持っていた札ですもの。値引きは、いただけませんわ」
フーゴは、長いこと黙っていた。
その日の昼、わたくしは商会ギルドの長の手代から、最後の四十枚を買った。一枚百五。ギルドの長が噂のあいだに十四、十五で拾った札だった。
これで百枚。売った値で三千枚分だった札を、買い戻すのに七千五百枚かかった。
手元に残った金貨は、五百枚。
期日の日没前、フーゴの帳場に札の束を置いた。フーゴは一枚ずつ、ゆっくりと数えた。
「九十八、九十九……百」
それから、帳面に「返済、済」と書いた。
◇
鈴懸の木の下に戻ると、マルタが待っていた。
腕を組んで、秤の前に立っていた。
「噂、流したの、あんたでしょ」
わたくしは、立ち止まった。
「錨亭で、あんたが船乗りに話してるの、おかみさんの娘が聞いてたんだよ。北の鉱山に水が出たって」
「ええ」
わたくしは言った。
「わたくしですわ」
マルタの顔が、くしゃりと歪んだ。
「おかみさん、旦那さんの形見の札、半値で売っちゃったんだよ。十四で。今、百だよ。百」
「存じておりますわ」
「知ってて……」
マルタは、何か言いかけて、唇を噛んだ。あの日、ボルガの秤の前で唇を噛んでいたときと、同じ顔だった。
それから、秤の皿に手を置いた。
「規則書、あたし、全部覚えたんだ。グリムに読んでもらって」
「そう」
「あたしが嫌って言えば、何も変えられないんだよね。誰にも。あんたにも」
「ええ」
「なら、覚えといて」
マルタは、それだけ言って、網小屋のほうへ走っていった。
◇
錨亭に戻ったのは、日が暮れてからだった。
帳場で、おかみが勘定書きをつけていた。いつもと同じ、明るい顔だった。
わたくしは、帳場に銀貨の袋を置いた。手元に残った金貨には、手をつけなかった。
「三か月分、先にお払いしておきますわ」
おかみが、顔を上げた。
「なんだい、急に」
「今のうちに払っておかないと、払えなくなりそうですもの」
おかみは、袋とわたくしの顔を見比べた。
何か言うかと思った。言わなかった。袋を帳場の下にしまって、また勘定書きに目を落とした。
わたくしも、何も言わなかった。
詫びの言葉は、知っている。前の世界でも、この世界でも、口にしたことがないだけだ。
酒場の隅で、年寄りがひとり、一枚の紙を両手で握りしめて、ぶつぶつと祈っていた。大聖堂の紋が刷られた紙。免罪符だった。
罪が消える、と言われて買った紙。
わたくしは、その紙から、しばらく目を離せなかった。
◇
夜の港は、静かだった。
桟橋の先に、黒い影がひとつ立っていた。
背が高い。闇の中でも、すぐに分かった。
「……いらしていたのね」
「三日前からな」
ルーカスは、振り返らずに言った。
「帝国の船乗りが、十人ほど港町に入った。王都の街道で足取りを追ってきた。どこかの船に乗るつもりらしい」
港の奥に、帆を畳んだ船が二隻泊まっていた。数日前まで、わたくしの船だった船だ。
その甲板に、灯りがひとつ揺れていた。
わたくしは、ルーカスの隣まで歩いていった。それから、彼に背を向けて立った。
彼は海を見ていた。わたくしは、町のほうを見ていた。錨亭の窓の灯り。鈴懸の木の黒い影。網小屋の屋根。
触れてはいない。けれど、背中のすぐ後ろに、彼の気配があった。
「負けたそうだな」
「ええ」
わたくしは言った。
「わたくしの負けですわ」
しばらく、波の音だけがしていた。
背中越しに、ルーカスが小さく息を吐くのが分かった。
「お前が負けを認めるのを、初めて聞いた」
わたくしは、町の灯りを見たまま答えた。
「……ええ。一度目ですわ。二度目は、ございません」




