第十一話 聖女の祈り
「北の鉱山が枯れた、という噂が、王都じゅうに広まっておりまして」
商会ギルドの長は、額の汗を気にしながら言った。
大聖堂の控えの間。窓の外では、夕方の鐘が鳴っている。
「札の値は、半分を割りました。祝福債を手放したいという者まで、ちらほら出てまいりまして。王家の利払いは鉱山の税から出る、と布告が出たばかりでございますから……」
「噂の出どころは、お分かりになりましたか」
リリアは、静かに尋ねた。
「船乗りどもの話では、南の港町の酒場だそうで。それに、妙なことがございましてな」
ギルドの長は、声を落とした。
「噂が王都に届く前の日に、南の港町で札が百枚、まとめて売られております。売り手は、港の魔石問屋の帳場で、王都の買い手にじかに売った。売ったのは、あの追放された女だそうで」
リリアは、何も言わなかった。
窓の硝子に、自分の顔が映っていた。
噂の前の日に、まとめて百枚。
自分の札ではない。あの女は、追放されたときに身ひとつだった。誰かから借りたのだ。借りて売り、噂を流して値を下げ、安くなったところで買い戻す。
前の世界で、何度も見た手口だった。
「ギルド長様」
リリアは、振り返った。
「今、札を手放しているのは、どのような方々でしょう」
「それはもう、噂を信じた者たちでございますよ。鉱山町の古い家、港の後家、小商いの者。祝福債の利払いが揺らぐと聞いて、慌てて札を金貨に替えようとしております」
「では、その方々から、買って差し上げてはいかがでしょう」
「買う? 枯れた山の札を?」
「困っておられる方々ですもの」
リリアは、胸の前で手を組んだ。
「わたしは、北の鉱山へ、祈りに参ります」
ギルドの長が、汗を拭きながら一礼する。下がりかけたその背に、リリアはもう一言だけ添えた。
「買い集めた札は、しばらく手放さずにお持ちくださいね。いずれ、南の港町から、買いたいという方が来られるかもしれません」
◇
王宮の書庫は、聖女に対して扉を閉ざさなかった。
王家の古い採掘記録は、書庫のいちばん奥の棚に、埃をかぶって眠っていた。二百年前、北の鉱山を最初に拓いたときの測量の記録だ。
リリアは、それを何日も前に読んでいた。
――東の斜面、浅き所に鉱脈の兆しあり。されど坑夫足らず、西の本坑を先とす。東は後日に譲る。
後日は、二百年来なかった。
西の本坑は掘り尽くされつつあり、組合の者たちも、東の斜面のことなど誰も覚えていない。記録の上にだけ、まだ誰の手もついていない鉱脈が眠っている。
リリアは、その頁を閉じた。
前の世界で、彼女は何度も同じことをした。誰も読まない書類の奥に、本当のことを見つける。そして、その本当のことを、いちばん効く時に、いちばん効く言葉で口にする。
嘘は、言わない。
言う必要がないのだ。
◇
北の鉱山の東の斜面は、冷たい風が吹いていた。
鉱山町の人々が、遠巻きに集まっていた。聖女が、枯れたと噂される山に、わざわざ祈りに来たのだ。坑夫たち。その女房たち。噂を聞いて札を手放した者たちも、その中にいた。
リリアは、斜面の中ほどにひざまずいた。
白い衣の裾が、霜の降りた土に触れる。
長い祈りだった。
風が止み、また吹いた。誰も、口をきかなかった。
やがて、リリアは立ち上がった。土のついた裾をそのままに、集まった人々のほうへ向き直る。
「ここで祈りました」
柔らかな声が、斜面に響いた。
「この山は、まだ終わっていません」
それだけだった。
奇跡を約束したわけではない。鉱脈がある、とも言わなかった。ただ、ここで祈った、と。この山はまだ終わっていない、と。
どちらも、本当のことだった。
◇
坑夫たちが東の斜面に鍬を入れたのは、その翌朝だった。
三日目の昼、浅い所から、青白く光る石が出た。
四日目には、斜面の三か所から同じ光が出た。坑夫頭が、震える手で石を掲げて、叫んだ。
「聖女様の、奇跡だ!」
鉱山町じゅうが、その叫びを繰り返した。
噂は、来たときよりも速く王都へ戻っていった。北の鉱山は枯れていない。聖女様が祈った斜面から、新しい鉱脈が出た。王家の利払いは安泰だ。祝福債は、神に守られている。
札の値は、一日で倍になった。
次の日に、また倍になった。一枚六十。
◇
「聖女様、聖女様……!」
控えの間に飛び込んできたギルドの長は、顔を真っ赤にしていた。
「札が、札が、一枚六十を超えました! 先週、十四、十五で買い集めた分が……!」
「よかった」
リリアは、微笑んだ。
「困っておられた方々は、助かりましたか」
「は? ああ、ええ、それはもう、金貨に替えられて、喜んでおりましたとも」
ギルドの長は、それ以上その話をしなかった。リリアも、聞かなかった。
噂を信じた者は、札を手放した。
祈りを信じた者は、斜面を掘った。
どちらも、自分が信じたものに従っただけだ。
信じる者からしか、奪わない。
それが、リリアの流儀だった。
◇
その夜、大聖堂の回廊で、大司教ヴァルターに呼び止められた。
「聖女殿。北の鉱山の件、見事であった」
大司教は、上機嫌だった。金糸の縫い取りのある法衣が、燭台の灯りにきらめいている。
「祝福債の売れ行きも、また伸びておる。……ところで」
大司教は、声を落とした。
「免罪符のほうは、とんと売れぬ。一枚銀貨十枚で、罪が赦されるというのに、近ごろの民は祝福債ばかり欲しがる。罪より、金のほうが大事らしい」
「免罪符も、よく売れるとよろしいですね」
リリアは言った。願いは、嘘にはならない。
大司教は、満足そうにうなずいて、回廊の奥へ去っていった。その背中を、リリアはしばらく見送っていた。
欲のある人は、扱いやすい。
◇
自室に戻ると、リリアは窓を開けた。
夜風が、冷たかった。
王都の家々の灯りの向こう、ずっと南のほうに、あの港町がある。
あの女は、今ごろ、板の値を見上げているだろう。
借りた札を、期日までに返さなければならない。一枚三十で売った札を、八十で、百で、買い戻さなければならない。売り手の少なくなった市場で。
リリアは、南の空に向かって、小さく首をかしげた。
「期日に、間に合うとよろしいですね」




