第十話 枯れた鉱山
北の鉱山の採掘組合の持分札は、一枚の厚い羊皮紙だった。
組合の印と、鉱山の絵と、「この札を持つ者は、採掘の上がりを一口分受け取る」という一行。札を持つ者には、年に一度、魔石を売った上がりが分けられる。
港の魔石問屋の帳場で、わたくしはその札を一枚、指でつまんで眺めていた。
「今朝の値は、一枚金貨三十枚です」
問屋の主人、フーゴが言った。白髪まじりの、実直そうな男だった。この港で三十年、北から下りてくる魔石を扱ってきたという。
「王家の布告が出てから、ずっと上がっております。祝福債の利払いに、北の鉱山の税を当てるというので。鉱山が国の金庫の一部になったようなものですからな」
「フーゴさんは、この札をどれくらいお持ちですの?」
「二百枚ほど。親父の代から、少しずつ買い足してまいりました。売る気はございませんよ。年に一度の上がりで、うちの家族は食っております」
「売っていただかなくて結構ですわ」
わたくしは、札を帳場に戻した。
「お貸しいただきたいの。百枚」
フーゴは、目を瞬かせた。
◇
前の世界で、それは「株を借りる」と言った。
持っている人から借りて、今の値で売る。値が下がったら買い戻して、借りた分を返す。売った値と買い戻した値の差が、儲けになる。
空売り、と呼ばれていた。
わたくしが前の人生でいちばん得意だった仕事だ。
「借りて、どうなさるんで」
「売りますの」
「売る? 借りた札を?」
「ええ。そして期日までに同じ枚数を買って、お返しいたします。お返しするのは、同じ鉱山の、同じ札を、同じ枚数。借り賃として、銀貨二十枚をお払いしますわ」
フーゴは、しばらく黙っていた。
「……それは、値が下がると読んでおられる、ということですな」
「さあ。どうかしら」
わたくしは微笑んだ。
フーゴは、帳場の奥から札の束を取り出してきた。それから、紙とペンを。
「書面にしていただけますかな。この港では、近ごろそれが流儀だと聞いております。担保は……そうですな、港に泊まっておられる二隻の船があれば、書くまでもございません」
「借り賃が、ずいぶんお安いのね」
「札は、寝かせておいても年に一度の上がりが来るだけです。銀貨二十枚でも、うちには儲けでございますよ」
◇
書面は、短かった。
借りる札の名と、枚数。返す期日は、三十日後の日没まで。返すものは、同じ鉱山の、同じ札を、同じ枚数。借り賃は銀貨二十枚、今日払う。
わたくしは、頭から三度読んだ。それから、借り賃の銀貨を帳場に置いた。
それから、もう一つ、別のものを読んだ。
懐に入れて持ち歩いている、規則書の写しだ。
一条ずつ、一字ずつ。
――この木の下での取引は、すべて公の秤で量る。
――売り買いが成ったときは、売り値の百分の一を、手数料として盟約に納める。
――詐取した資金で振り出された手形は、振り出しの時点にさかのぼって無効とする。
偽りの噂を流してはならない、という条文は、どこにもなかった。
わたくしが、書かなかったのだ。
そして、この札の売り買いは、鈴懸の木の下ではしない。フーゴの帳場で、王都から来た買い手と、じかに。
ペンを取って、名前を書いた。
◇
「規則書を、また読んだな」
問屋を出たところで、グリムが言った。わたくしの後ろを、黙ってついてきていたのだ。
「ええ」
「鈴懸の木の外でやるのは、そのためか」
わたくしは、答えなかった。
グリムは、それ以上は聞かなかった。
◇
その夜、錨亭の酒場は、船乗りたちで混み合っていた。
わたくしは、隅の卓でスープをすすりながら、隣の卓の話を聞いていた。王都から戻った船乗りたちが、北の街道の噂話をしている。
わたくしは、椀を置いて振り返った。
「北の街道といえば、わたくしも妙な話を聞きましたわ」
船乗りたちが、こちらを見た。追放された元令嬢が、自分たちに話しかけてくるのは珍しいのだろう。
「鉱山から下りてきた荷車の男が、申しておりましたの。北の鉱山の、いちばん深い坑道に水が出た、と。掘っても掘っても、出てくるのは水ばかり。もう、あの山は枯れたのだ、と」
「本当かい」
「さあ。わたくしは、聞いただけですもの」
わたくしは、肩をすくめて椀に戻った。
嘘だった。
荷車の男など、どこにもいない。
けれど、船乗りの口は軽い。明日の朝には王都へ向かう早馬の乗り手の耳に入り、明後日には王都の市場で、話は少しずつ大きくなっていく。
酒場の喧騒の向こうで、帳場のおかみと、皿を運んでいたおかみの娘が、こちらを見ていた気がした。
◇
翌朝、わたくしは問屋の帳場で、借りた札を売りはじめた。
噂が王都に届く前に、売り切らなければならない。
王都から来た買い手たちは、まだ何も知らなかった。布告のあとの値上がりを追いかけて、札を欲しがっていた。一枚三十。わたくしは、昼までに百枚を売り切った。
売り上げは、金貨三千枚。手元は、三千五百になった。
五日目、王都から下りてきた船が、噂を運び返してきた。北の鉱山の坑道に水が出た。いや、崩れたらしい。いや、もう魔石は一粒も出ないそうだ。
札は、一枚二十二になった。
◇
「お嬢さん」
両替商の店先で、ハンスが声をかけてきた。
人の良さそうな顔に、珍しく影が差していた。
「北の鉱山の噂、お聞きになりました?」
「ええ。酒場で」
「本当ですかね」
ハンスは、帳場の脇に積んだ祝福債の束を、落ち着かなく指で叩いた。
「王家の利払いは、北の鉱山の税から出るって話でしょう。鉱山が枯れたら、祝福債の利息はどうなるんです」
「さあ」
わたくしは言った。
「祝福債のことは、聖女様にお聞きになるのがよろしいのでは?」
ハンスは、何か言いかけて、やめた。それから、小さくため息をついた。
「……お嬢さんは、最初から、あれを買いませんでしたな」
◇
七日目。
札は、一枚十五になっていた。
わたくしは、鈴懸の木の下の板を見上げていた。盟約の市でも、札の売り買いは少しずつ行われている。板に書かれた値は、毎朝、前の日より下がっていた。
売った値は三十。今の値は十五。
百枚を今買い戻せば、千五百枚の儲けだ。
けれど、まだ買い戻さない。噂が王都の隅々まで届けば、札はもっと下がる。王家の保証を疑う声が、もっと大きくなる。祝福債を新しく買う者が、減る。
崩れるのが早ければ早いほど、巻き込まれる者は少なくて済む。
兵舎の半分。孤児院の三つ。赤子を抱いた、あの母親。
早く崩してやるほうが、親切というものだ。
わたくしは、そう思っていた。
本当は、違うことも分かっていた。
わたくしは、あの女に、早く勝ちたかったのだ。
「エレオノーラ」
隣で、グリムが言った。
「帳面に、噂のことは書かんぞ」
「書いてくださいとは、申しておりませんわ」
「書いてないことを、書いてあるようには書かん」
グリムは、帳面を閉じた。
「だが、書いてあることは、書く。お前が札を百枚借りて、百枚売ったことは、書いてある」
わたくしは、板を見上げたまま、何も言わなかった。
板の値が、また書き換えられた。十四。
わたくしは、少しだけ微笑んだ。
その背後で、聞き慣れた声がした。
錨亭のおかみが、ハンスの店の帳場に、古い羊皮紙を一枚置いていた。角が擦り切れ、何度も折りたたまれた跡がある。北の鉱山の、持分札だった。
「うちの人が、死ぬ前に買っといてくれたもんだけどさ」
おかみの声は、明るかった。明るく聞こえるように、話していた。
「枯れた山の札なんか、持っててもしょうがないだろ。――あたしの分も、売っとくれ」




