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白鯨


 ソドムは一瞬驚いたように目を見開き、しばし何か考えるべく思考を巡らせた。けれど諦めるしかない、観念するかという長考の後に、神獣、人外、人でなし、呼び方は何でもよいのだが、とにかく、ソドムは身の程を弁えることにした。


「残念だが、それは無理だ」

「はぁ!?」

「貴女の望む感情を、私は貴女に与えられないだろう。元来、私とはそういうものなのだ。我が友が妻に向けたような目をして貴女を見ることができない」


 ソドムは今も覚えている。あの夜の庭で己の友が愛しい相手へ向けた顔。なるほどこれが恋に落ちた男の顔なのだなとソドムは感心してみていた。終ぞ自分にはできないだろうと思って余計に「良いな」と思ったものだ。


「貴女の黒い髪に妃の冠はさぞ似合うだろう、宝砂殿」

「鏡って見たことありますかッ!!!!!!」


 ぐいっと、宝砂はうんざりした顔でソドムに寝台の脇にある手鏡を押し付けた。

 鏡。ソドムは首を傾げる。身なりを整えることにそれほど執着はなく、鏡を見たことがこれまで殆どない。水面に映る姿を視界に入れたことがある程度かもしれない。


「鏡」

「ちょっとよくご覧いただいてよろしいでしょうか!」


 ぐいぐいと、宝砂はソドムを月明りの下に押し出す。当人は真剣に押しているのだろうが、ソドムからすれば戯れをするような気持ちになる。鏡を見ろというのなら、そのくらいのささやかな願いは叶えてやりたい。月の光を受けて鏡の中に映る自分の顔を見た。


「……………………室内であるというのに、妙に顔が冷たくなるな、とは思っていたが」


 雨でも降っているのか、あるいは湿気が強いのかと、そんなことを頭の隅で思っていた。女人の部屋だからそうした仕掛けをしたほうが喜ぶだろうと皇帝がしているのかもしれない、趣味がよくわからないな、などと。


「自分が泣けないと思い込んでる人外はこれだから……」


 ッチ、と宝砂は舌打ちをした。苛立ち、ため息を吐いて、ごしごしとソドムの目元、頬を手で拭う。こういう時は柔らかい布だろうが、彼女が今持つすべては皇帝から与えられたもので、皇帝の所有物でソドムの涙を拭うのは嫌だった。


「泣くほど私のことを手放しがたいと思ってるのに、そうするべきだと思って貫く。――私への恋心が足りないんですよ。アゼルさんのものがたりの中に恋と愛の違いってなかったんですか。ソドムさん足りないのは圧倒的、私への恋ですね」

「……よくわからないのだが?」

「鯨が陸の人を愛しても、伝わるわけがないでしょう。恋して焦がれて溺れるような醜態を見せて「あ、あの鯨、私の気を引きたいのか」ってわからせてくださいよ」


 恋というのは一方的で押しつけがましく自分本位。不安にさせ、束縛させるもの。




*



 恋。


 ソドムは目を瞬かせた。

 この己が、恋などと。


 宝砂を慈しんでいる。愛している。ほかの生き物が宝砂をそうして包むように大切にしてやろうとそう思った。


 しかしソドムは同時に思い返す。

 断頭台に上がる宝砂をソドムは黙って眺めていた。大事大事に隠していた子だった。だが、イドラ・マグダレアの気配が消えて、アゼルも消えて、いつまでもいつまでもあの異形の子を世に残し続ける、それは憐れだろうと眺めていた。ここで終わるのならばそれもよいだろうと、ソドムに人のこころは終ぞわからず、愛しいと守ると決めた子が断頭台で儚く散るのも、それはそれで、子にとってしあわせだろうかと思っていた。


 だがそうはならなかった。


 ソドムは断頭台を破壊して、死んだ方が幸福な娘に己の角を砕いて飲ませ、連れ去った。


 叫んだのだ。

 断頭台で。死ぬはずの娘が叫んだ。何もできぬ小さな子が、己の気を引こうとその言葉を叫んだのをソドムはわかった。


 なんと愛らしいことだ!


 腕の中に納めて、大事にしていた赤子の頃とはまた違う。

 すぐに跳ねて飛んでいきそうなほど、活気のある娘。

 あれこれと表情を変え、ソドムのすることなすことを怯えるくせに、受け止めようとする。火傷のひとつや二つ程度したところで、ソドムが嬉しそうに笑うのなら「まぁいいか」というような顔をする。


「……」


 ソドムはみるみる、自分の首から上が真っ赤になるのを感じ取った。目の奥がカッと火でも飲み込んだかのように熱い。


 目の前にいるのはソドムが大事に育てた友の忘れ形見ではない。愛しい、庇護しなければならないか弱い存在に違いないが、しかし、そうか。


 はっと、反射的にソドムは自身の口元に手を持っていきそうになった。真顔で自分を見上げる宝砂を見下ろす。


 その瞳には顔を真っ赤にして、ぐるぐると混乱しているなんとも情けない男が映っていた。


「私は貴女に恋をしているのか」


 ぽつりと呟くと、宝砂が深い溜息をついた。


「貴方の奇妙な行動のすべては、愛というより恋に決まってるじゃないですか」




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