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ハザルさんの体は獣の大きな爪のあとがあった。うつ伏せになり浮いていて明らかになっていた傷は大きく、真っ白い女性の肌を惨たらしく抉っていた。
大騒ぎになるお屋敷の中で、タイミングを見計らったように皇帝さんが大勢の兵士たちを連れてやってきた。混乱するハザルさんの旦那さんは「なぜ陛下が」と驚きながらも、皇帝さんを迎える。
「神獣の仕業だろう」
「……は?」
「そなたも知っているはずだ。この国には神獣がいた。50年ほど前から姿を消していたが、私がこの国を手に入れたことを怒り、落日に姿を現した」
「……それと、私の妻がこんな姿になったこととどう関係があるのです。我々は外国人だ。たったそれだけのことで獣の怒りを買ったとでも!?」
「すまない」
すっと、皇帝さんが頭を下げた。
兵士たちも含め、その場にいる全員が驚き、そして狼狽える。
「俺の責任だろう。俺から国を奪い返すために、神獣はイドラ・マグダレアの遺産を取り戻そうとしている。確信はなかったが……そなたの妻の所持品に、遺産があるのではないかと」
「……宝砂王女殿下はそのために?」
賢い商人である旦那さんは眉間にしわを寄せ、私の方を振り返り、そして使用人たちに引き上げられたハザルさんの亡骸を見て、眼を伏せた。
「スレイン王朝の血を持つ宝砂殿がいれば獣もうかつに動かぬだろうと思い、夫人の守りとして向かわせたのだが…………すまなかった。いたずらに不安をあおらぬようにと、混乱を避けようと、そなたにも打ち明けなかったのは俺の責任だ」
「陛下……!!」
再び謝罪する皇帝さんを商人の旦那さんは遮った。
「陛下がそのようなお言葉を……私のようなものにかける必要はございません……!私は商人、この国が陛下により良き風を受けていることをわかっております。国を見捨てた獣が今更縄張りを主張するなど……なんと愚かなことでしょう……!!」
旦那さんの目には皇帝さんへの忠誠心が浮かんでいた。権力者が頭を下げるということがどれほど重みのあることなのか、そしてドルツィア帝国の皇帝ともなれば尚更。
商人の旦那さんは神獣を「図々しい獣」と罵り、屋敷の人たちもハザルさんを悼み、悲しみ、そして神獣への怒りを膨らませた。
*
「すまなかったな宝砂王女。怖い思いをしただろう」
帰りは皇帝さんの馬車に乗せられ、そしていつもの寝室に、まるで外出などしなかったように当たり前に戻された。着替えをした私は皇帝さんの膝に乗せられ、頭を撫でられる。機嫌のよさそうな声は、私に触っていると頭痛や不快感が一切ないかららしい。
「それにしても神獣とは恐ろしいな。か弱い女であっても容赦なしか」
皇帝さんは私の返事を待たない。
ただ、私は選ぶ必要はあった。
柔らかい寝台に、花の匂い。窓は高く、格子が嵌められているのを知っている。
「殺す必要があったんですか」
「――侵略した国を統治するには民衆の感情を操ることだ。長く国を放置し、危機にのみ姿を現したかと思えば、その後特に救済する気配もない。処刑場で見せた圧倒的な力は語り草だが、それと同時に「ではなぜ国を救わなかったのか」と、所詮は守護獣ではなく、ただの気まぐれな自分本位な獣だという疑惑を植え付ける」
そこにドルツィアの人間でもこの国の人間でもない、ただ「この国でうまくやっていきたい」というだけの商人の妻を斬殺する。人民の心は離れ、そして獣を嫌悪する。
私の言葉は「貴方が殺した」と、皇帝さんの行いを理解していると知らせるものだった。なので皇帝さんは私を共犯者ではなく、囚人として扱うことを決めた。
ぐっと、両手首を掴まれてベッドに押し付けられる。
「俺は欲しいものは必ず手に入れる」
「……」
そうだろうな、と私は思った。
残るイドラ・マグダレア殿下の遺産も、この調子で神獣ソドムに罪を押し付けてこの皇帝さんは手に入れるだろう。
「宝砂王女、お前の望みも叶えてやると言っているんだ。あの獣をこっぴどく振るんだろう。そのためには俺の協力が必要なはずだ。だからお前は俺から離れない」
何も持たない、何もできない小娘と皇帝さんは正確に私を査定する。けれど皇帝さんにだけはとても価値がある金のガチョウであることも。
皇帝さんの後ろから金属音がした。神様が何を言っているのか、今は聞こえない。




