第5話 死んだ悪役令嬢は、今日も店を開ける
広場から、音が消えた。
本当に消えたわけではない。何千人もいて、誰かは息をしているし、どこかで旗が風に鳴っている。
それでも、鉄の欠片が処刑台の床を転がる音だけが、やけに大きく聞こえた。
古い刃は、根元から折れていた。
半分は俺の手に残り、もう半分は首枷の外へ落ちている。
首枷の鉄の金具が、一か所だけ深くえぐれていた。
ロゼリアの首筋に、赤い線が一本走っている。
浅い。飛んだ欠片がかすめただけだ。
ロゼリアは伏せたまま、動かなかった。
「……何をしている」
王太子の声だった。
さっきまで罪状を読み上げていた声とは、高さが違った。
「執行を続けろ」
俺は折れた刃を見ていた。
返事はしなかった。
「聞こえないのか。替えの刃を持て」
広場が、ざわめきはじめた。
しくじった、事故だ、縁起が悪い、と、ばらばらな声が石畳の上を転がっていく。
「お待ちなされ」
バルドだった。
爺さんが、処刑台の端から一歩前に出た。
いつもの黒い祭服に、いつもの曲がった背中で、今日だけは声がよく通った。
「一の刃が、罪人の首を受け取りませんでした」
「だから何だ」
バルドは、俺を見なかった。
折れた刃も見なかった。
首枷に伏せたロゼリアだけを見ていた。
「古き執行の定めにございます。鐘ののち、執行官が王家の刃を一度振り下ろしたとき、刑は一度執り行われたものと数える。首を受け取るかどうかは、神に委ねる」
バルドは、ゆっくりと続けた。
「その一の刃が首を落とさなかったとき、神はその首をお受け取りにならなかったものとする」
王太子の顔色が変わった。
「そんな定めは、知らん」
「百二十年、使われておりませんので」
「ならば、古すぎる」
「古いことと、効き目が切れていることは、別ですな」
似たようなことを、少し前に、どこかの書庫で言った気がする。
バルドの隣で、刑法院の記録官が分厚い帳面をめくった。指が一つの頁で止まる。
「……条文は、廃されておりません」
若い記録官の声は震えていたが、はっきりしていた。
「そいつは、首を狙っていなかった。執行ではない」
王太子が、俺を指さした。
「執行官の故意であれば、執行官を後ほどお裁きになればよろしい」
バルドは、やはり俺を見なかった。
「ですが、鐘ののち、王家の刃は首枷の上へ振り下ろされました。罪人に二度目の刃を受けさせる理由には、なりませぬ」
「刑は、しくじったのだ」
「いいえ」
バルドは、静かに首を振った。
「刑は、終わりました。一度刑を執り行われた者は、同じ判決で二度、刃を受けることはできませぬ」
「まだ生きているではないか」
「身体は」
バルドは言った。
「名は、先ほど亡くなりました」
首枷の向こうで、ロゼリアの指がわずかに動いた。
「……やり直せ」
王太子が言った。
バルドは答えなかった。
俺が答えた。
「できません」
王太子がこっちを向いた。
「予備があるだろう」
「あります」
「ならば、振れ」
「振りません」
広場がざわついた。
「命令だ」
「刑は終わっています」
「まだ首がついている!」
「二の刃を振れるのは、処刑人だけです」
王太子の口が止まった。
俺は、折れた刃を床に置いた。
「そして、俺は振りません」
「貴様」
「ここから先に刃を入れるなら、それは処刑じゃない」
王太子のまわりで、近衛が剣の柄に手をかけた。
「ただの殺しです」
誰も、次の一歩を踏み出さなかった。
これから冠をかぶる男が、王都中の見ている前で、自分の国の定めを踏む。
少なくとも、冠をかぶる前の朝に、それはできない。
王太子が俺を見た。
今度は、はっきりと殺したい人間を見る目だった。
「覆面を取れ」
取った。
広場が、もう一度ざわついた。
処刑人の顔を知っている者は少ない。
ヘンラインの名を知っている者は、多い。
「ジーク・ヘンライン」
「はい」
「本日をもって、貴様を執行官の任から解く」
「王の命令ですか」
王太子の顔が歪んだ。
まだ、王ではない。
答えはなかった。
「では」
俺は、手に持っていた黒い覆面を、処刑台の床に置いた。
「今日で、辞めます」
バルドの口の端が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。知らない。
首枷に伏せたまま、ロゼリアが言った。
「……ジークさん」
「動くな」
「いつまでです?」
「今、考えてる」
「計画性が、ありませんね」
「うるさい」
首枷の向こうで、肩が一度だけ震えた。
笑ったのか泣いたのかは、見えなかった。
刑法院の記録官が、折れた刃と首枷をあらため、執行済みの欄に署名した。
ロゼリア・ヴァルシュタインの名は、死者の名簿に書き移された。
侯爵家の娘としても、王太子のもと婚約者としても、毒薔薇の令嬢としても、一度死んだ。
だから、父親の取引は崩れなかった。
侯爵家は約束どおり罪人を差し出したことになり、母親と弟は、そのまま残った。
ロゼリアが守ろうとしたものは、一つも欠けなかった。
神に拒まれた処刑台は、縁起が悪いという理由で、二度と使わないことに決まった。
「それ、どうなさるのです」
数日後、解体された処刑台の板を荷車に積んでいると、バルドが訊いてきた。
「買った」
「見れば分かります」
「誰かに似てきたな」
「長く見ておりますので」
「何に使うかは、まだ決めてない」
「では、なぜ」
「安かった」
「そういうことに、しておきましょう」
爺さんはそれ以上訊かなかったし、俺も言わなかった。
処刑台だった木を、何か別のものにしたかった。
それだけだ。
ロゼリアとは、しばらく会えなかった。
名前は死んでいても、身体は生きている。
死んだ女を牢に戻すのか、放すのか、誰が面倒を見るのかで役所が揉めて、結局、教会の預かりになった。
そのあいだに、俺はもう一度、記録の写しを出した。
毒商人ベルク・オーランドの収監記録。
証人二人の恩赦の記録。
ハンナ・レイスの刑罰記録。
ヴァルシュタイン侯爵の証言書。
刑が済んだ今なら、侯爵家への追及は戻らない。
今度は刑法院だけには出さなかった。
高等審問院と、教会と、王都の公示板に、同じ写しを何枚も。
黙って捨てるには、少し多すぎるくらいに。
そのあとの細かいことまでは、知らない。
アルフォンスの戴冠は取り消され、王太子の位も、審問が終わるまで凍結された。
裁判は、やり直しになった。
何人かが捕まり、何人かが逃げ、何人かが急に、最初から怪しいと思っていた、と言いはじめた。
人間は便利だ。
俺も、似たようなものかもしれない。
春が来るころ、教会の裏門から、日傘を差した女が一人出てきた。
門の外で荷車の御者台に座っていた俺を見て、ロゼリアは言った。
「お待たせしました」
「待ってない」
「そうですか」
「審問院は」
「全部、話してきました。父のことも、殿下のことも」
「……そうか」
「今度は、信じていただけました」
ロゼリアは、少しだけ笑った。
それから、笑うのをやめた。
「まだ、怒っています」
「知ってる」
「処刑人だったことでは、ありません。助けるつもりだったのを、私に黙っていたことに」
「言えば、お前は止めた」
「止めました。あなたが死ぬかもしれなかったので」
「だから、言わなかった」
「それでも、決めるのは私です」
返す言葉は、一つしかなかった。
「……悪かった」
「はい」
ロゼリアは、荷車を見た。
乗れとは、言わなかった。
日傘を畳んで、ロゼリアは自分で御者台に上がってきた。
荷台には、処刑台だった板が積んであった。
三年後。
「ただいま」
「遅いです」
店の戸を開けた途端に、言われた。
国境沿いの小さな町の、街道から一本外れたところに、食堂が一軒ある。
店の名は、台の下。
俺は反対した。趣味が悪い。
却下された。
「再審が長引いた」
「三年も?」
「今日の話だ」
「分かっています」
ロゼリアは鍋の蓋を開けた。
湯気の向こうの髪は、三年前より少し短い。
首には、細いリボンを一本結んでいる。
客にいちいち訊かれるのが面倒だから、だそうだ。
「それで?」
俺は、空いている椅子に腰を下ろした。
「無罪になった」
ロゼリアの手が止まった。
「全部?」
「ああ」
「毒も」
「ああ」
「内通も」
「ああ」
「侍女への虐待も?」
「ああ」
少し、黙った。
「そうですか」
それだけだった。
「名前も、戻せる」
ロゼリアが、こっちを見た。
「ロゼリア・ヴァルシュタインとして。母上と弟君にも、大っぴらに会える」
「手紙は、来ています」
「知ってる」
月に二度、多いときは三度、母親と弟から手紙が届く。
ロゼリアは毎回、返事を書いている。
家族を捨てたわけではない。侯爵令嬢に戻らなかっただけだ。
「どうする」
ロゼリアは店の中を見回した。
四人掛けの卓が三つと、二人掛けが二つ。
壁の献立は、煮込みと、焼いた鳥と、豆のスープ。
窓際に、焼き菓子の籠。
「戻したら」
ロゼリアが言った。
「このお店は、どうなります?」
「知らない」
「侯爵家の娘が、食堂を続けても?」
「法には、何も書いてなかった」
「また、古い法を探したのですか」
「今回は、新しいほうだ」
「そうですか」
ロゼリアは、少し考えた。
本当に、少しだけ。
「では、要りません」
「いいのか」
「はい」
「ずいぶん、あっさりだな」
「三年、考えましたので」
そう言って、鍋をかき混ぜる。
「ロゼリアは?」
「それは、使います」
「家の名は」
「要りません」
「そうか」
それで終わった。
この女はときどき、大きなことを、パンの焼き時間みたいに決める。
「それより、明日からジークさんは?」
「何が」
「再審が終わったのでしょう。もう王都へ行く用事も、ありませんよね」
「たぶんな」
「では」
木べらの先が、こっちを向いた。
「皿洗いです」
「俺が?」
「ほかに、どなたが」
「もと王都の執行官だぞ」
「今は、無職です」
「三年ここで働いてる」
「お給金なしで」
「その給金の話をしてるんだが」
「出ません」
「なんで」
ロゼリアは、何でもない顔で言った。
「夫婦なら、出ないでしょう」
しばらく、意味が分からなかった。
「……今、何て言った」
ロゼリアの手が、少しだけ止まった。
「忘れてください」
「無理だ」
「忘れてください」
「二回言っても無理だ」
「では、聞き間違いです」
「聞き間違えてない」
「忙しいので、お皿を洗ってください」
「ロゼリア」
「お皿」
「今の」
「お皿」
「夫婦って」
「ジークさん」
「はい」
「お皿」
「……はい」
勝てなかった。
厨房の奥で、誰かが笑った。
「ほら、言ったでしょう」
振り返ると、白髪の女が焼き菓子の盆を持って立っていた。
ハンナだ。
偽証の罪は、再審の途中で取り消された。それから、いつの間にかこの店の厨房にいる。
「何の話だ」
「さあ」
ハンナは答えない。
ロゼリアも、こっちを見ない。
二人だけが分かっている顔をしている。腹が立つ。
「これ、出してきますね」
ハンナが盆を持って、店のほうへ出ていった。
蜂蜜入りだ。
三年前から、味はほとんど変わっていない。
少しだけ、うまくなった。
店を閉めて、最後の客を送り出してから、二人で裏庭に出た。
裏庭には、二人掛けの長椅子が一つある。
処刑台だった板で、俺が作った。
背もたれの一か所に、釘の穴が一つだけ残っている。
初めて見たとき、ロゼリアは、趣味が悪いですね、と言った。
俺も、そう思う。
でも、捨てなかった。
昼間、通りがかりの旅人が、この椅子を見て訊いたことがある。
「変わった椅子ですね」
「昔、待ち合わせに使っていた場所の一部なんです」
「説明するな」
「素敵な思い出でしょう」
「場所が場所だ」
旅人は、何のことか分からずに笑っていた。
今夜も、そこに座る。
ロゼリアが、残った焼き菓子を一つ持ってきた。
「余りましたので」
「一つしかないぞ」
「余りました」
「そうか」
半分に割って、片方を渡された。
「今日は、全部召し上がらないのですか」
「二人いるからな」
「そうでした」
ロゼリアがかじる。
俺もかじる。
蜂蜜の味がして、端が少しだけ焦げていた。
「焦げてる」
「明日は、うまく焼きます」
「明日も作るのか」
「店ですから」
「そうか」
遠くの町で、鐘が鳴った。
三年前なら、次に会える日を数えていた。
あと十三回。あと十回。あと一回。
もう、数えなくていい。
明日の朝には、同じ店にいる。
俺は立ち上がった。
「じゃあ、また来――」
「明日です」
ロゼリアが言った。
口を閉じて、言い直した。
「……また明日」
「はい。また明日」
店の煙突から、夕飯の残り火の煙が、細く上がっていた。




