第4話 あなたが、処刑人だったんですね
次の週、ロゼリアは何も持ってこなかった。
籠もなく、猫の肉もなく、白い日傘だけを差して、いつもの時間に門をくぐってきた。
「こんにちは」
「ああ」
俺は二段目を見た。
ロゼリアも見た。
でも、座らなかった。
「今日は、ないのか」
「何がです?」
「……猫の肉」
「その言い方、まだ直らないのですね」
「菓子も」
「ありません」
「そうか」
風が強くて、処刑台の床板がどこかで小さく鳴った。
ロゼリアは日傘の柄を両手で握ったまま、しばらく黙っていた。
「管理人さん」
「なんだ」
「もう、来ないでください」
「どこに」
「ここへ」
「俺の仕事場なんだが」
「では、私が来ません」
そっちか。
「なんで」
「来る必要が、なくなりましたので」
「先週まではあったのか」
「慣れておこうと、思っていました」
「死ぬ場所にか」
「はい」
「慣れたか」
「だいぶ」
「嘘つけ」
ロゼリアが、少しだけ目を伏せた。
当たったらしい。
「何があった」
「何も」
「その返し、前にも聞いた」
「便利なので」
「お前の便利は、だいたい嘘だ」
ロゼリアは笑わなかった。
こっちも、笑えなかった。
今度は、少し長く黙った。
灰色の猫は、今日は来ていなかった。
「私の言葉を信じた人は、みんな罰を受けました」
ようやく、それだけ言った。
「ハンナの鞭のことか」
口に出してから、しまったと思った。
鞭打ちのことを、ロゼリアは一度も言っていない。
ロゼリアの顔が上がった。
「……ご存じだったのですね」
「帳簿で見た」
「刑場の」
「ああ」
「証言書を持ってきたときには、もう」
「ああ」
短く答えるたびに、ロゼリアの顔から、何かが一枚ずつ剥がれていった。
「やめてください」
「もう遅い」
「遅くありません」
「遅い」
「やめてください」
今度は、少し強かった。
風で揺れた日傘を、ロゼリアは握り直した。
「ハンナは、私を信じてくれました。私が毒など知らないと、裁判で言ってくれました」
「知ってる」
「そのせいで、鞭を打たれました」
「ああ」
「追い出されました」
「ああ」
「ですから、私のことはもう、調べないでください。あなたまで」
「もう巻き込まれてる」
ロゼリアの口が止まった。
「執行官が、判決に疑いありって正式に出した。俺の名前で」
「……誰が」
「知り合いの執行官が。頼まれてもいないのに。ずいぶん前に」
嘘の上に、もう一枚嘘を重ねた。
中身だけは本当だった。
「その方は、どうなるのです」
「戴冠が終わったら、たぶん何かある」
「それなのに」
「それでも出した。もう取り下げられない」
ロゼリアは何も言わなくなった。
「だから、お前が今さら来るなって言っても、遅い」
「……私が頼んだわけでは、ありません」
「知ってる」
「私は、誰も巻き込みたくありません」
「知ってる。でも、あいつが自分で決めた」
ロゼリアが、初めて返す言葉をなくした。
少しだけ勝った気がして、勝ってどうするんだ、とすぐに思った。
「お前のせいじゃない」
「それでも」
「それでも?」
「怖いです」
聞き間違えそうなくらい、小さな声だった。
「私を信じた人が、また、いなくなるのは」
この女が怖がっているのは、首を落とされることではなかった。
少なくとも、それより先に、別のものを怖がっていた。
「ならない」
「どうして、言い切れるのです」
「言い切ってない」
「今、言いました」
「願望だ」
「最低です」
「よく言われる」
「私しか、言っていません」
「じゃあ、お前によく言われる」
ロゼリアは泣かなかったし、笑いもしなかった。
ただ、日傘を少しだけ下げた。
「……それまでは、来てもよいですか」
「お前が来る場所だろ」
「そうでした」
「忘れるな」
「忘れません」
少し間を置いて、ロゼリアは門のほうへ向き直った。
「また来週」
「また来週」
次の週、ロゼリアが来る前に、トマが一人で刑場の門をくぐってきた。
「話がある」
「酒なら飲まないぞ」
「誰がお前と飲むか」
老兵はあたりを見回してから、俺を刑場の裏へ引っぱっていった。
「お前、疑義を出したな」
「どこで聞いた」
「兵の詰所だ。名前が回っとる」
「誰のところに」
「王太子殿下のほうにだ。余計なことをする執行官、としてな」
トマは声を落とした。
「戴冠が済んだら、洗われる」
「そうか」
「そうか、じゃない」
「今すぐ捕まるわけじゃない」
「今はな」
言われなくても分かっていた。
王都の公開処刑を執れるのは世襲の執行官だけで、それを替えられるのは王だけだ。
王は病床にいて、王太子はまだ王ではない。
王太子は、もうすぐ王になる。だが、戴冠の朝までは、まだ王ではない。
だから俺を外すのは、終わってからになる。
「処刑は、予定どおりだ」
「ああ」
「お前が振る」
「ああ」
「それでも、やるのか」
「何を」
「知らん。お前が何を考えとるかなんぞ、昔から分からん」
トマは一度だけ処刑台を見上げた。
「ただ、やるなら、しくじるな」
「縁起でもない」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
ロゼリアが門をくぐってきたのは、その少しあとだった。
「こんにちは」
「ああ」
「トマさんと、何か?」
「酒の話」
「嘘ですね」
「最近、すぐ分かるな」
「長く見ておりますので」
どこかの爺さんと、同じことを言う。
ロゼリアは二段目に座ったが、すぐには籠を開けなかった。
「ジークさん」
「なんだ」
「その、知り合いの執行官の方は」
「ああ」
「疑義を、取り下げられないのですか」
「無理だな」
「そうですか」
「取り下げる気もないだろうし」
「そこまでは、伺っていません」
「顔に書いてあった」
「書いていません」
「見れば分かる」
「便利ですね」
そこで、少しだけ笑った。
次の瞬間には、消えていた。
「その方は、怖くないのでしょうか」
「怖いだろ」
ロゼリアが目を上げた。
「怖いのですか」
「そりゃな」
「では、なぜ」
「さあな」
「ジークさんは、なぜだと思います」
俺は籠に手を伸ばして、勝手に一つ取った。
「お前が死ぬのが、嫌なんだろ」
言ってから、ロゼリアの手が止まっているのに気づいた。
知り合いの執行官の話を、していたはずだった。
どこで主語が抜けたのかは、自分でも分からない。
「……それは」
「嫌なんだよ」
「理由として、十分ですか」
「俺には」
「私には」
「知らん」
「ひどいですね」
「知ってる」
ロゼリアはしばらく黙っていた。
それから籠から一つ取って、自分でかじった。
自分の焼き菓子を自分で食べるのを、初めて見た気がした。
「……甘いですね」
「蜂蜜入りだからな」
「そうでした」
それきりだった。
残りの週は、早かった。
雨が一度あって、猫の来ない週が一度あって、焼き菓子が二度焦げた。
どの週も、最後は同じ言葉で別れた。
最後の週は、よく晴れていた。
ロゼリアは、いつもの時間に、いつもの日傘と籠を持って来た。
門のところで、一度だけ足が止まった。
「今日は、ここまでにします」
「なんで」
「来週は、ここへ来られませんから」
「だから今日、来たんだろ」
「はい」
「なら、座れ」
ロゼリアは少し迷ってから、いつもの二段目に座った。
俺は一段下に座った。
「最後なので、うまくいったのを持ってきました」
「最後とか言うな」
「管理人さんが、それをおっしゃいます?」
「言う」
一つ食べた。
今までで、いちばんうまかった。
そう言いかけて、やめた。
「処刑の日も、ここに?」
「いる」
「見に来ます?」
「……仕事だから」
「刑場の管理人ですものね」
「そうだな」
同じ嘘を、またついた。
初めてついたときより、ずっと重かった。
ロゼリアは日傘の先で、石畳の隙間をなぞっていた。
「怖いか」
今度は、俺から訊いた。
「何がでしょう」
「処刑」
「今さらですね」
「今だから訊いてる」
「最初の日にも、訊きかけていらっしゃいませんでした?」
「よく見てるな」
「見ておりましたので」
「……で、怖いか」
「怖くない、と言ったら」
「嘘だと思う」
「では」
ロゼリアは、処刑台の上の空のほうを見た。
「少し」
「少しか」
「それくらいに、しておきます」
それ以上は、訊かなかった。
酒場の戸が開いて、トマが出てきた。
ロゼリアは立ち上がって、裾を払った。
門まで行って、振り返る。
「また来週」
「また来週」
ロゼリアが、少しだけ困った顔をした。
「……来週は、ありません」
「ある」
「ありません」
「ある」
「処刑されるのに?」
「ああ」
「変なことを、おっしゃいますね」
「知ってる」
ロゼリアはしばらく俺の顔を見ていた。
それから日傘を開いた。
「では、また来週」
今度は、少し笑っていた。
「……また来週」
それが、処刑台の下で交わした最後の言葉になった。
前の晩、刑場は静かだった。
広場には見物人を仕切る柵が組まれ、王家の旗が等間隔に並んでいる。
明日の朝、新しい王が冠をかぶる前に、王都中の前で悪女を裁く。
作業小屋で、刃を三本並べた。
普段使う一本と、その予備と、布をかけた古い一本。
王家にかかわる罪だから、明日はこれを使う。
布を外す。
根元のひびは、雨の日に見たときより、また少し伸びていた。
いつもなら、とっくに替えている。
普段の二本だけを、研いだ。
水を打って、砥石に当てて、同じ角度で同じ音を繰り返す。
一度で終わらせるために、何百回もやってきた仕事だ。
古い刃には、触らなかった。
布をかけ直すとき、手が少し震えた。
「……情けないな」
誰もいない小屋で、言った。
うまくいかなければ、ロゼリアは死ぬ。
うまくいっても、俺がどうなるかは分からない。
俺のほうは、あとでいい。
小屋を出て、処刑台を見上げた。
明日、あそこに彼女が立つ。
朝の広場は、人で埋まっていた。
窓という窓、屋根という屋根、露店の台の上まで、見える場所にはどこにでも人がいる。
罵声と笑い声が混ざって、悪女を見物に来た人間の熱が、石畳から立ちのぼっていた。
台の端には、立会人のバルドが、いつもの黒い祭服で立っている。その隣で、刑法院の記録官が帳面を開いていた。
鐘が鳴った。
ロゼリアが、引き立てられてきた。
白い処刑衣で、髪は結ばれておらず、首元には何もない。
日傘も、籠もない。
別人のようだった。
歩き方だけは、同じだった。
王太子アルフォンスが、一段高い席から立ち上がった。
このあと冠をかぶる男の顔で、罪状を読み上げる。
国家反逆。
王太子暗殺未遂。
王家の食卓への毒の混入。
敵国との内通。
侍女への虐待。
罵声が飛んだ。
ロゼリアは何も言わず、顔も上げず、十二段を上った。
最初の日と、同じ段数を。
俺は、黒い覆面をかぶっていた。
処刑人は、顔を覚えられないほうがいい。
ロゼリアが首枷の前に進み、膝をつく。
俺はその横に立った。
ここで、口をきく必要はない。
本来なら。
「前を向け」
ロゼリアの肩が、止まった。
ゆっくりと、顔がこちらを向いた。
「……あなた?」
声だけで、分かったらしい。
半年、処刑台の下で聞いてきた声だ。
「前を向け」
「どうして」
「今はいい」
「管理人さん」
「前」
ロゼリアの顔から、血の気が引いていった。
「……あなたが」
続きが、出てこない。
「そうだ」
「処刑人、だったのですね」
広場のざわめきは大きくて、誰もこっちの声までは聞いていない。
ロゼリアは首枷を見て、俺を見て、もう一度首枷を見た。
「知り合いの執行官、というのも」
「俺だ」
「ずっと、知っていたのですか」
「ああ」
「半年後に」
「ああ」
「私を、殺すことを」
「ああ」
しばらく、何も言わなかった。
「最低です」
「知ってる」
ロゼリアは前を向いて、首枷に首を置いた。
髪が、肩から落ちた。
「怖いか」
最後の週に、少し、と答えた問いだった。
今度は、逃がさなかった。
ロゼリアの喉が、動いた。
「……はい」
広場のどこかで、早くしろ、と誰かが叫んでいる。
王太子が手を上げた。
鐘を待つあいだに、ロゼリアが小さく息を吸った。
「死にたくありません」
その一言だけが、広場中の音より近くに聞こえた。
「それでいい」
鐘が鳴った。
古い刃を持ち上げる。
祖父の、その前の代から、この家の腕が覚えてきた重さだった。
狙うのは、首ではない。
首枷の端の、鉄の金具。
髪一本ぶん、外せば終わる。
振り下ろした。
鉄と鉄のぶつかる音が、広場に響いた。
刃が、折れた。




