第9話 下へ
山芋のことが、ずっと頭から離れなかった。
正確に言うと、山芋の残り半分のことだ。
*
貯蔵室の上の段に置いた山芋は、三日で食べ終わった。
大事に食べた。
本当に大事に食べた。
それでも、三日だった。
「……先っぽ、まだ土の中にあるんだよね」
*
シュナが、僕の肩に前足をかけて折った、あの先っぽだ。
山芋は、下へ下へまっすぐ伸びる芋だ。
ということは、残りは今も、あの壁の下のほうに埋まっている。
誰にも食べられずに。
僕たちを待っている。
……と思うと、いてもたってもいられなくなった。
*
「シュナ、山芋の続き、掘りに行こう」
シュナは寝床の上で、耳だけこっちに向けた。
「ほら、シュナが折ったやつ」
耳が、ぱたんと倒れた。
聞こえないふりをする犬を、僕は初めて見た。
*
貯蔵室の前まで行って、壁の穴をのぞきこむ。
山芋が出てきた穴は、奥で斜め下へ続いている。
腕を突っこんでみた。
届かない。
肩まで入れても、指の先に何も当たらない。
「……ここからじゃ無理か」
*
横からがだめなら、上から行けばいい。
山芋が斜め下へ潜っているなら、手前の床を掘り下げていけば、いつか横っ腹にぶつかるはずだ。
貯蔵室の入口の、すぐ前の床。
主坑道のまんなかより、少し北寄りのところだ。
ここを掘る。
*
そう決めて、手のひらを床に当てたときだった。
後ろから、シュナがとことこやって来た。
僕の手の横に鼻をつけて、くん、と一回嗅いだ。
それから、ものすごい勢いで掘り始めた。
「え、手伝ってくれるの?」
「ウォフ」
伝わってきたのは、いも、だった。
聞こえないふりは、どこへ行ったんだろう。
*
シュナが掘ると、とにかく速い。
あっという間に、シュナの体がすっぽり入るくらいの穴になった。
しっぽしか見えない。
しっぽが見えなくなった。
穴の底から、がりがり、と音だけ聞こえてくる。
「シュナ? ちょっと深すぎない?」
*
がりがりが、止まった。
しばらく静かになった。
それから、穴の底から、ウォフ、と一回だけ鳴き声がした。
穴をのぞきこむ。
シュナが、底からこっちを見上げていた。
前足で、口に何かをくわえている。
いや、前足でくわえるのは無理だ。
口にくわえて、前足で押さえている。
*
山芋の先っぽだった。
細い。
僕の指くらいの太さしかない。
でも、長い。
穴の底から、にょろっと上まで届くくらい長い。
「すごい! シュナ、すごいよ! 本当にあった!」
シュナはくわえたまま、ふん、と鼻を鳴らした。
鼻を鳴らしたはずみで、山芋が穴の外へ落ちてきた。
僕が拾った。
*
さて。
ここで一つ、問題が起きた。
シュナが上がってこない。
*
シュナは穴の底で、前足を壁にかけた。
ずり落ちた。
もう一回かけた。
ずり落ちた。
それから、じっと僕を見上げた。
この顔は知っている。
入口の堀に飛び降りたときの顔だ。
あの日の顔だ。
*
僕は腹ばいになって、穴の中へ腕を伸ばした。
シュナの前足の付け根をつかんで、よいしょと引っぱり上げる。
シュナは、見た目よりずっと重い。
「……シュナ、太った?」
腕の中で、グルル、と唸られた。
伝わってきたのは、ぶれい、だった。
今のは、たぶん合っている。
*
山芋は、湧き水の間で洗って、二人で分けた。
細いぶん、しゃりしゃり感が強い。
甘い。
かゆい。
今回はちゃんと、食べ終わってすぐ口を洗った。
僕は学ぶ男だ。
シュナは洗わなかった。
しばらく、前足で口のまわりをこすっていた。
*
お腹が落ち着いたところで、穴を埋めようとした。
主坑道のまんなかに、深い縦穴が開いているのは危ない。
夜中に水を飲みに行って、落ちる自信がある。
ところが、土を運んでいると、シュナが穴のふちに座りこんだ。
穴の底を見下ろして、動かない。
*
「シュナ、どいて。埋めるから」
動かない。
「山芋はもうないよ。さっき食べたでしょ」
動かない。
鼻だけが、ひくひく動いている。
穴の底から来るなにかを、ずっと嗅いでいる。
「……まだ、なにかあるの?」
「ウォフ」
伝わってきたのは、いきたい、だった。
*
シュナが「いきたい」と言うのは、珍しい。
だいたいは「ねむい」か「おなかすいた」だ。
湧き水を見つけたときも、山芋を見つけたときも、シュナの鼻は当たっていた。
しかも、たぶん、自分のためだった。
今度もたぶん、自分のためだろう。
でも、この犬の鼻には、今のところ外れがない。
*
ただ、このままだと、シュナはまた穴に飛び降りる。
飛び降りて、上がれなくなる。
僕が引っぱり上げる。
シュナは重い。
これを毎回やるのは、僕の腕がもたない。
「……じゃあ、階段を作ろうか」
シュナが自分で行って、自分で帰ってこられるように。
*
縦穴の片側を削って、斜めの坂にする。
坂に、段を刻んでいく。
段の上を手のひらで押して、ぎゅっと締める。
踏んでも崩れないくらいに固くする。
竪坑の下の三段と、同じやり方だ。
あれより、ずっと数が多いけど。
*
五段作ったところで、シュナに試してもらった。
シュナは一段目に前足をかけた。
かけたまま、止まった。
後ろ足が、上がらない。
「……あ」
僕の膝の高さで作ってしまった。
僕にはちょうどいい。
シュナの足は、短い。
*
シュナは、一段目にあごを乗せたまま、横目で僕を見た。
ものすごく、見た。
「ごめん。作り直す」
段を全部崩して、低く刻み直した。
一段の高さは、シュナの前足の半分くらい。
そのかわり、段の数が倍になった。
下りきるまでの長さも、倍になる。
僕の仕事も、倍になる。
まあ、いいか。
家族の足に合わせるのが、階段というものだ。
*
作り直した段を、シュナはとことこ下りていった。
とことこ上がってきた。
上がりきったところで、ふん、と鼻を鳴らした。
合格らしい。
*
それから、穴のふちには、ぐるりと土を盛って低い土手を作った。
主坑道の床にこぼれた水は、ゆるい坂を下って寝室のほうへ流れていく。
穴に落ちてくることはないと思う。
でも、あの夜のことを思い出すと、念には念を入れたくなる。
寝床が水びたしになった、あの夜。
水は低いほうへ流れる。
僕は学ぶ男だ。
*
次の日から、シュナの後ろについて、階段を下へ伸ばしていった。
シュナが先に、少しだけ掘る。
くん、と嗅いで、向きを決める。
僕が後から広げて、段を刻む。
向きは、だいたい北だ。
たぶん北だ。
貯蔵室の下をくぐって、斜めに下へ潜っていく。
*
下へ行くほど、暗くなった。
当たり前だ。
苔の光は、主坑道までしか届かない。
手さぐりで段を刻んでいたら、二回、自分で刻んだ段を踏み外した。
三回目で、明かりを作ることにした。
*
粘土で、平たい皿を作る。
皿に、湿った土を敷く。
寝室の苔の壁から、苔を土ごと、手のひら一枚ぶん削り取ってくる。
土の上に、そっと乗せる。
苔が乾かないように、ときどき水をかける。
*
持ち歩ける、明かりだ。
皿を段の上に置くと、足もとだけ、ぼんやり緑に見えるようになった。
顔の近くに持ってくると、シュナの眉毛がうっすら見えた。
「わあ。……わあ、見える。シュナの眉毛が見える」
シュナは迷惑そうに顔をそむけた。
照らされたくないらしい。
*
苔の皿を持って、段を刻む。
段が進んだら、皿を一段先へ置く。
また刻む。
これのおかげで、踏み外すのは一日一回くらいに減った。
ゼロにはならなかった。
*
三日目の途中から、土が変わってきた。
湿っている。
湧き水の間の粘土とは、少し違う。
あっちは灰色で、ひんやり重かった。
こっちは、黒っぽくて、やわらかくて、手のひらにまとわりついてくる。
それに、においがする。
雨上がりの田んぼみたいな、なまぬるいにおいだ。
「泥だ」
*
泥を手のひらでゆるめると、ふわっと、指のあいだから逃げていく。
固めようとすると、手のひらの下で、ほんの少しだけ締まる。
ほんの少しだけだ。
粘土より、ずっと言うことを聞かない。
あと、なんだか、あったかい。
泥のくせに。
「……変な泥だなあ」
シュナが、僕の手もとを嗅いだ。
それから、なぜかしばらく黙って、その泥をじっと見ていた。
*
段は、四十を越えたあたりで数えるのをやめた。
五日目。
シュナが急に、掘るのをやめた。
前足を止めて、耳をぴんと立てて、鼻を前に突き出している。
*
「どうしたの」
答えない。
かわりに、前足で一回だけ、泥の壁を強く押した。
壁が、ずるっと向こうへ崩れた。
崩れた先に、なにもなかった。
土も、泥も、壁もない。
ぽっかりと、暗い空間が開いていた。
*
苔の皿を、穴の向こうへ差し出してみる。
光が、ほとんど届かない。
広い。
たぶん、寝室よりずっと広い。
下のほうで、ぬらっとしたものが、苔の光を鈍く返している。
一面の、泥だった。
「……うわ」
声が、向こう側で、ぼわんと鈍く響いた。
「シュナ、なにこれ。すごい。泥の部屋だ」
*
穴をもう少し広げて、泥の上に下りられるように段を二つ足した。
最後の段から、足をそっと下ろしてみる。
泥が、足首まで沈んだ。
あったかい。
やっぱり、あったかい。
「……温泉? いや、泥だ。泥の温泉?」
そんなものがあるのかは知らない。
*
シュナは、段の上から下りてこなかった。
最後の段に立ったまま、泥の部屋の奥を、じっと見つめている。
しっぽが、下がっていた。
耳は、前を向いたままだ。
「シュナ?」
グルル、と、低く唸った。
でも、伝わってきたのは、こわい、ではなかった。
なにか、もっとあいまいな。
しんぱい、に近いなにかだった。
*
僕は苔の皿を掲げて、シュナが見ている方へ、泥の中を一歩ずつ進んだ。
足を抜くたびに、泥がぬぽっと鳴る。
三歩。
四歩。
五歩目で、苔の光の端に、なにかが引っかかった。
*
泥の中に、小さな影が倒れていた。
丸まっている。
猫くらいの大きさだ。
泥と同じ色をしていて、泥と見分けがつかない。
でも、丸まった背中のはしに、しっぽみたいなものが、ちょこんと出ていた。
「……え」
*
僕は皿を近づけた。
影は、動かない。
もう少し近づけた。
動かない。
後ろで、シュナが最後の段を下りてくる音がした。
泥をぬぽぬぽ踏んで、僕の横に並んだ。
鼻を、影のほうへ伸ばした。
*
そのとき。
泥色の背中が、ほんの少しだけ、ふくらんで、しぼんだ。
「……息、してる」




