第10話 ムク
泥色の背中が、もう一度ふくらんで、しぼんだ。
生きている。
「シュナ、これ生きてる。生きてるよ」
シュナは返事をしなかった。
鼻を近づけて、慎重に嗅いでいる。
耳は、まだ前を向いたままだった。
*
苔の皿を、そっと泥の上に置く。
両手を、影の下へ差し入れた。
泥が重い。
影も重い。
ずぶっ、と音を立てて、泥から抜けた。
*
腕の中で、ぐったりしている。
猫くらいの大きさだと思っていたけど、抱えてみると、もっと重い。
泥をたっぷり吸っているせいかもしれない。
全身が泥だらけで、どこが顔なのかも分からない。
「……なんなの、きみ」
*
とりあえず、泥の中にいさせるのはよくない気がした。
僕は影を抱えて、段のほうへ引き返した。
足を抜くたびに、泥がぬぽっと鳴る。
行きより歩きにくい。
両手がふさがっていると、苔の皿が持てない。
*
「シュナ、皿」
シュナが、苔の皿を口にくわえた。
くわえて、先に段を上がっていった。
緑の光が、ぽつんと前を進んでいく。
僕はその光を追いかけた。
*
四十いくつの段を、抱えたまま上がる。
段が低いのが、今日はありがたかった。
膝の高さの段だったら、両手がふさがった状態では上がれない。
作り直しておいてよかった。
シュナのために低くしたんだけど。
*
主坑道に出て、そのまま寝室へ運んだ。
うちでいちばんあったかいのは、ここだ。
苔の壁があって、ぼんやり緑に光っている。
寝床の横に、そっと下ろす。
下ろしたところで、初めてちゃんと見えた。
*
まず、泥がすごい。
泥の塊から、短い手足が四本生えている、という状態だ。
しっぽがある。
太くて、根元のほうがどっしりしている。
背中に、ぼこぼこした出っぱりが並んでいる。
顔のあたりに、泥にふさがれた鼻の穴が二つ。
*
「……とかげ?」
いや、違う。
とかげの手足は、横へ張り出している。
この子の手足は、体の下にまっすぐ生えている。
しかも、太い。
そして、なにより。
*
背中の泥の下から、折りたたまれた、うすい膜みたいなものがはみ出していた。
羽根だ。
「……竜?」
言ってみたけど、実感がない。
竜は、物語に出てくるやつだ。
空を飛んで、火を吐いて、お姫様をさらっていく。
目の前にいるのは、泥のかたまりだ。
*
シュナが横に来て、泥だらけの背中を嗅いだ。
それから、僕を見上げた。
「グルル」
伝わってきたのは、ちいさい、だった。
「うん。小さいね」
それと、もうひとつ来た。
おなじ、だった。
「……おなじ?」
*
なにと同じなのかは、分からなかった。
シュナの言葉は、いつも半分しか届かない。
でも、たぶん、こういうことだと思う。
シュナも獣魔だ。
この子も、たぶん獣魔だ。
だから、おなじ。
合っているかは、知らない。
*
とにかく、今は泥だ。
この泥をどうにかしないと、鼻も口もふさがったままだ。
「洗おう」
湧き水の間へ運んでいって、水場に入れようとした。
入れようとして、手が止まった。
*
水場は、うちの飲み水だ。
ここに泥の塊を沈めたら、水が全部泥水になる。
そうしたら、僕もシュナも飲む水がなくなる。
あの粘土張り、けっこう苦労したのに。
「……だめだ。ここじゃない」
*
しかたがないので、お椀を使うことにした。
水場からお椀で水を汲んで、通路に出る。
そこで、泥だらけの体にかける。
汚れた水は、床を伝って排水路のほうへ落ちていく。
落ちていくはずだ。
排水路にふたをしたから、上からはよく見えない。
*
お椀一杯では、ぜんぜん落ちなかった。
二杯目。
三杯目。
泥が、思っていたよりずっとしつこい。
水をかけても、表面がぬらっとするだけで、流れない。
指でこすると、すこしだけ薄くなる。
*
四杯目を汲みに行って、気がついた。
水場の水が、半分くらいになっている。
「……あ」
うちの水は、岩の割れ目からぽつぽつ落ちてくるぶんだけだ。
一晩かけて、やっと満ちる。
じゃばじゃば使えるような量じゃなかった。
*
僕は、しばらく水場の前で考えた。
水は、足りない。
でも、この子の鼻はふさがっている。
全身をきれいにするのは無理でも、顔だけならどうにかなるはずだ。
お椀に半分だけ水を汲んだ。
*
顔に少しずつかけて、指で泥をぬぐう。
鼻の穴のまわりを、そっと。
目のあたりを、そっと。
こすりすぎないように気をつけた。
相手は、たぶん子供だ。
子供の肌をごしごしやったら、かわいそうだ。
*
泥が落ちて、鼻の穴が二つ、ちゃんと見えた。
ふす。
鼻から、息が出た。
「……通った! シュナ、通ったよ!」
シュナは、すぐ後ろに座っていた。
しっぽが、ゆっくり一回だけ動いた。
*
顔の泥が落ちると、鱗が見えてきた。
泥色だと思っていたけど、違った。
ほんのり灰色がかった、薄い青だ。
苔の光の下で、しっとり濡れて光っている。
目はまだ閉じている。
まつげみたいなものはない。
かわりに、まぶたのふちが、少し盛り上がっている。
*
「……かわいいな、これ」
言ってから、自分でちょっと驚いた。
泥のかたまりだと思っていたのに。
*
体のほうは、もう水が使えない。
考えた末に、乾いた土を使うことにした。
主坑道の壁ぎわに積んである、掘削のときの土だ。
乾いてさらさらしている。
これを泥の上にふりかけて、しばらく置く。
*
土は、泥の水気を吸ってくれる。
吸ったところで、手でぽろぽろ落としていく。
軍で、雨の日に泥だらけになったとき、こうやって落とした。
水がないときの、泥の落とし方だ。
ろくでもない知識ばかり増える人生だった。
今は役に立っている。
*
土をふりかけて、待つ。
落とす。
またふりかけて、待つ。
落とす。
半日くらい、それを繰り返した。
*
途中で、シュナが手伝ってくれた。
といっても、背中の泥をべろべろなめただけだ。
「シュナ、それ汚いよ」
シュナは気にしていなかった。
なめて、ちょっと顔をしかめて、またなめた。
まずいらしい。
でも、やめないらしい。
*
夕方ごろ——たぶん夕方だ、地下だから分からない——泥はだいたい落ちた。
あらわれたのは、薄い青の、小さな竜だった。
背中のぼこぼこは、小さな棘だった。
まだ丸くて、やわらかい。
羽根は、僕の手のひらくらいの大きさで、しわしわに折りたたまれている。
*
でも、目は開かなかった。
息はしている。
ゆっくりだけど、している。
触ると、あったかい。
あったかすぎる気もする。
それが熱なのか、もともとなのか、僕には分からない。
*
僕には、治す力がない。
薬もない。
医者でもない。
できるのは、土をいじることだけだ。
「……寝床、作ろうか」
土をいじることだけなら、できる。
*
寝床の横に、もうひとつ小さい寝床を作った。
乾いた土を運んできて、盛る。
手のひらでならして、ほどよく固める。
固めすぎない。
背中が痛いから。
これは僕が学んだことだ。
*
まんなかを、少しくぼませた。
この子は丸まって寝ていた。
泥の中でも、丸まっていた。
だったら、くぼんでいるほうが落ち着くと思う。
ふちを、ぐるっと高くする。
巣みたいな形になった。
*
そこに、そっと寝かせた。
小さな竜は、くぼみの中で、自然と丸まった。
しっぽを、体のまわりにくるんと巻きつける。
さっきより、すこし楽そうに見えた。
気のせいかもしれない。
でも、そう見えた。
*
それから、僕はやることがなくなった。
やることがないのは、久しぶりだった。
ここへ来てから、ずっと何かを掘っていた気がする。
寝床の横に座って、小さな竜を見ていた。
*
シュナが、僕の足に体を寄せて伏せた。
三人で並んでいる格好になる。
三人でいいのかな。
二人と一匹?
一人と二匹か。
どうでもいいことを考えていた。
どうでもよくないことを考えるのが、こわかったんだと思う。
*
どのくらいそうしていたか、分からない。
小さな竜の鼻が、ひくっと動いた。
僕は姿勢を正した。
もう一回、ひくっと動いた。
まぶたのふちが、ふるえた。
*
目が開いた。
金色だった。
まんまるで、大きくて、瞳が縦に細い。
その目が、僕を見た。
*
小さな竜は、しばらく僕を見つめていた。
ぱち、とまばたきをした。
もう一回、ぱち、とした。
それから、急に体を起こそうとして——
ぺたん、とひっくり返った。
*
「わ、わ、大丈夫、無理しないで」
僕はあわてて手を出した。
小さな竜は、ひっくり返ったまま、じたばたした。
しっぽが僕の腕をぺしぺし叩いた。
しっぽ、けっこう力が強い。
*
起こしてやると、今度はちゃんと座った。
座って、また僕を見た。
それから、口を開けた。
「きゅ」
*
「……きゅ?」
「きゅるー」
鳴いた。
小さくて、かすれていて、ちょっと情けない声だった。
そして、僕の中に、ふわっと何かが入ってきた。
*
おなかすいた。
「……ごはん?」
起きて一言目がそれか。
いや、いい。
むしろいい。
おなかがすくのは、元気になった証拠だ。
*
問題は、うちにごはんがないことだった。
山芋は、昨日ぜんぶ食べてしまった。
キノコは、食べられるか分からない。
貯蔵室の棚は、見事に空っぽだ。
「……えーと」
*
小さな竜が、僕をじっと見ている。
金色の目が、まんまるだ。
しっぽが、期待でぱたぱた動いている。
これは、まずい。
この目を、がっかりさせるのは、まずい。
*
「シュナ」
「ウォフ」
「なにか、食べられるもの、ある?」
シュナは、ゆっくり立ち上がった。
小さな竜を一回嗅いで、それから、主坑道のほうへ歩いていった。
貯蔵室の前で止まった。
奥の壁の、キノコのところだ。
*
「キノコ? でも、食べられるか分からないよ」
シュナは、細長いキノコの前で鼻をひくつかせた。
それから、僕を振り返った。
「ウォフ」
伝わってきたのは、たべる、だった。
「シュナが? それとも、あの子が?」
返事はなかった。
これだから、言葉が通じないのは困る。
*
でも、確かめる方法はあった。
細長いキノコを一本だけ取って、寝室へ持って帰る。
小さな竜の鼻先に、そっと出してみた。
*
小さな竜は、鼻をひくひくさせた。
それから、ぱくっといった。
早い。
止める間もなかった。
「あ、ちょっ」
もぐもぐもぐ。
*
ごくん。
「きゅあー!」
ふわっと入ってきた。
おいしい、だった。
*
僕は、しばらく固まっていた。
それから、そーっと様子をうかがった。
苦しがらない。
吐かない。
むしろ、もっとくれという顔をしている。
「……だいじょうぶ、なのかな」
*
念のため、しばらく待った。
それでも、何も起きなかった。
小さな竜は、寝床のくぼみでごろごろしながら、しっぽを振っている。
完全に元気だ。
さっきまで泥の中で伸びていた子とは思えない。
*
「……じゃあ、そのキノコは食べられるやつってことか」
少なくとも、この子は食べられる。
僕が食べられるかは、まだ分からない。
でも、手がかりだ。
ずっと分からなかったことに、一つ答えが出た。
シュナが、僕の横で、得意そうに鼻を鳴らした。
*
キノコを、もう三本取ってきた。
全部なくなった。
小さな竜は、食べ終わると、僕の膝によじ登ってきた。
重い。
そして、あったかい。
*
膝の上で、丸まった。
しっぽを、くるんと巻く。
それから、動かなくなった。
「……寝た?」
寝ていた。
*
「シュナ。この子、寝ちゃったんだけど」
シュナは寝床の上から、ちらっとこっちを見た。
見ただけだった。
自分は快適な寝床にいるから、他人事なのだ。
僕は膝の上の重さを、どうすることもできなかった。
*
寝ている顔を、上から見下ろす。
鼻の穴が、ふくらんで、しぼむ。
時々、足がぴくっと動く。
夢を見ているらしい。
どんな夢を見るんだろう。
泥の夢かな。
*
「……名前、いるよね」
ずっと「この子」と呼んでいるのは、落ち着かない。
シュナのときは、どうやって決めたんだっけ。
覚えていない。
気がついたら、シュナだった。
*
膝の上の重さを、そっと撫でてみる。
鱗のあいだが、やわらかい。
ふにっとする。
というか、全体的にふにゃふにゃしている。
泥から出てきたときも、ふにゃふにゃだった。
「……むくむくしてるなあ」
*
言ってから、あ、と思った。
「ムク」
膝の上で、耳——耳があるのかは分からないけど、その辺が、ぴくっと動いた。
「ムク?」
「きゅ」
寝ながら返事をした。
*
「決まりだね」
僕は、膝の上のムクを見下ろした。
ムクは、すやすや寝ている。
寝ながら、しっぽで僕の腕をぺしぺし叩いている。
なんでだろう。
嬉しいのかもしれない。
*
「シュナ、この子、ムクにした」
シュナは寝床から、ふん、と鼻を鳴らした。
伝わってきたのは、しらん、だった。
「そんなこと言って、さっきキノコ探してくれたくせに」
シュナは、こっちに背を向けて丸まった。
耳だけが、こっちを向いていた。
*
その夜、僕は自分の寝床で寝られなかった。
ムクが膝から下りなかったからだ。
しかたがないので、床に背中をつけて、そのまま寝た。
背中が痛い。
膝はあたたかい。
*
夜中に、一度だけ目が覚めた。
膝の上のムクが、もぞもぞ動いていた。
寝返りを打ったらしい。
それから、ふわっと何かが伝わってきた。
*
あったかい。
それだけだった。
「……うん。あったかいね」
僕はまた目を閉じた。




