第11話 ぼよん
目が覚めたら、膝が軽かった。
「……ムク?」
寝床のくぼみは空っぽだった。
僕は跳ね起きた。
*
昨日までぐったりしていた子が、朝いない。
考えられることは、あまりいい方向にいかない。
どこかで倒れているとか。
排水路のふたを踏み抜いて落ちたとか。
竪坑の下の段から転げたとか。
「シュナ! ムクが——」
シュナは、寝床にいなかった。
*
主坑道を、裸足でばたばた走った。
貯蔵室の前に、シュナが座っていた。
いつもの、入口を見張る姿勢で。
その向こうで、なにか小さいものが動いている。
*
乾かしてあった細長いキノコを、一本くわえていた。
もぐもぐしていた。
僕と目が合った。
金色の目が、まんまるになった。
そして——もう一本くわえた。
*
「待って待って待って」
「きゅる!」
うれしい、が入ってきた。
こっちは全然うれしくない。
三日ぶんの食料が、朝いちばんで半分になった。
*
「シュナ、なんで止めないの」
シュナは、僕を見上げた。
それから、鼻先で下の棚の右のほうを示した。
白く丸いキノコと、茶色く平たいキノコが、そこにある。
そっちには手をつけさせていない、ということらしい。
「……そこは守ったんだ」
ウォフ。
得意そうだった。
そこじゃない。
*
ムクは、食べ終わると走り出した。
これがまた、速い。
昨日まで目も開かなかった子が、主坑道を端から端まで往復している。
短い手足が、ぱたぱた動く。
しっぽが振り子みたいに左右に揺れる。
背中の羽根は、しわしわのまま畳まれている。
飛ぶ気配は、まったくない。
*
「元気になったのは、いいんだけど」
僕がそう言った直後だった。
ムクが、曲がり角でつるっといった。
ぺたん、と腹から落ちる。
「わ」
*
駆け寄った。
ムクは、床にへばりついたまま、ぱちぱちまばたきをしていた。
鼻の先に、土がついている。
「痛くない? ねえ、痛くない?」
「きゅあー」
入ってきたのは、びっくりした、だった。
痛い、ではなかったので、ちょっと安心した。
*
でも、起こしてやってから、僕は床を見た。
主坑道の床は、僕が固めた土だ。
人が歩くから、しっかり締めてある。
つまり、硬い。
僕は第7話——じゃない、寝床を固めすぎて背中が痛かった夜のことを、まだ覚えている。
あれを、毎日この子がやるわけだ。
*
「柔らかくするか」
しゃがんで、床に手をついた。
ゆるめる。
ゆるんだ。
ムクが走った。
今度は、めり込んだ。
*
足が沈んで抜けなくなって、ムクは、じたばたした。
しっぽで床を叩いている。
「ごめん、ごめん、今出すから」
引っこ抜いて、抱え上げる。
ゆるい土は、ただの落とし穴だった。
硬いと痛い。
柔らかいとはまる。
その中間が、どうしても出てこない。
*
しばらく座って考えた。
考えていたら、膝にムクが乗ってきた。
乗ってきて、僕の顎を頭でぐいぐい押した。
「……なに」
「きゅる」
あそぶ、だった。
*
「うちには遊ぶところがないんだよ」
言いながら、自分で気づいた。
ないなら、作ればいい。
僕は家を作る人間だ。
部屋を作るのは、得意なほうだと思う。
問題は、床に敷くものだ。
硬くなくて、はまらなくて、転んでも痛くないもの。
そんな都合のいい土は、知らない。
*
膝の上のムクを見た。
ムクは、僕のシャツの裾を噛んでいた。
やめさせた。
昨日、この子を引っぱり上げた場所のことを、思い出していた。
*
下の泥だ。
あれは柔らかいのに、手を突っこんでも足を取られる感じがしなかった。
変な泥だとは思ったけど、感触は悪くなかった。
試してみる価値はある。
「ムク、ちょっと行こうか」
「きゅ?」
*
苔の皿を持って、下降通路へ降りた。
段の上で、ムクは一瞬止まった。
鼻をひくひくさせた。
それから、ものすごい勢いで降りていった。
「あっ、ちょ、待っ」
ぽてぽてぽてぽて。
四十いくつの段を、あの短い足で、転がるみたいに下っていく。
僕のほうが遅かった。
*
降りきったところで、盛大な水音——じゃない、泥の音がした。
ぼちゃん。
苔の皿を掲げると、泥の中でムクが伸びていた。
仰向けで、手足を広げて、しっぽをぱたぱたさせている。
「きゅああああー」
しあわせ、が、洪水みたいに入ってきた。
*
「よかったね」
よくない。
昨日、半日かけて泥を落としたばかりだ。
あの乾いた土をふりかけて、待って、落として、また待つやつを、半日やった。
それが十秒で振り出しに戻った。
「……まあ、うん」
元気ならいい。
元気じゃないよりは、ずっといい。
*
泥溜まりの入口の近く、南側に、わりと平らな場所がある。
壁ぎわで、天井も低くない。
ここを遊び場にしよう、と決めた。
上まで泥を運んで第1層に作る案は、三往復で捨てた。
両腕で抱えられるぶんしか持てないうえに、段を上がる途中でぼたぼた落ちる。
運ぶより、こっちへ来るほうが早い。
*
まず、床をならそうと思った。
泥の表面に手をついて、平らにする。
ならなかった。
この泥は、相変わらず言うことを聞かない。
ゆるめようとすると指の間から逃げていく。
固めようとしても、しれっとしている。
「……なんなんだ、きみたちは」
*
二十回くらいやって、僕はあきらめた。
手で押して、体重をかけて、物理的にならすことにした。
万物クラフトが効かないなら、ただの人力だ。
土木兵の本業に戻っただけとも言える。
*
押していると、ムクが寄ってきた。
僕の真似をして、前足で泥をぺたぺた叩きだした。
「そう、そうやって——」
言い終わる前に、ムクは腹ばいになった。
そのまま、泥の上を滑った。
ずざーっといった。
*
滑ったあとが、きれいに平らになっていた。
僕が三十分かけたところより、平らだった。
「…………」
「きゅる!」
もういっかい、が入ってきた。
もういっかい、どころではない。
*
「ムク、そっちも。そっちも滑って」
「きゅあー!」
滑った。
「こっちも」
滑った。
転げた。
転がった。
ぐるぐる回った。
僕は端に座って、指示を出すだけの人になった。
*
半日後、南の壁ぎわに、たいらな泥の床ができていた。
僕は最後に、ふちのところだけ土を盛って囲いをつけた。
ここは僕の仕事だ。
土なら、ちゃんと言うことを聞く。
少しは働いた気分になれた。
*
問題は、ここからだった。
できあがった泥の床が、なんだか、おかしい。
ムクが転んでも、ぺたんと音がしない。
ぼよん、と鳴る。
*
手をついてみた。
ゆっくり押すと、指がずぶっと沈んでいく。
やわらかい。
そのまま、ぱん、と手のひらで叩いてみた。
かちん、と硬かった。
*
「……え?」
もう一回。
ゆっくり。沈む。
速く。硬い。
もう一回。
ゆっくり。沈む。
速く。硬い。
「シュナ! シュナ見て、これ見て!」
*
シュナは段の途中に座っていた。
降りてこない。
「これ、押すと沈むのに、叩くと石なんだよ」
ウォフ。
伝わってきたのは、そう、だった。
まったく興味がなかった。
*
十回くらいやって、まだ飽きなかった。
粘土ではこうならない。
土でもならない。
砂を混ぜても、こうはならない。
つまり、この泥がそういう泥だということだ。
「変な泥だなあ」
それ以上は、考えなかった。
考えてもわからないことは、だいたい考えても無駄だ。
*
とにかく、ムクにとっては都合がいい。
走って、転んで、ぼよん。
跳ねて、落ちて、ぼよん。
何回転んでも、痛がらない。
しっぽから落ちても、頭から突っこんでも、けろっとしている。
*
「痛くない?」
「きゅる!」
たのしい。
ずっと、たのしいしか入ってこない。
僕は囲いに座って、それを眺めていた。
顔がにやにやしているのが、自分でもわかった。
*
暗いのだけが、まだ困る。
苔の皿ひとつでは、ムクがどこにいるか見失う。
声と音でしか位置がわからない。
泥だらけの子は、泥の中ではほとんど見えない。
「明かり、いるな」
*
壁を触ってみた。
湿っている。
というか、この部屋は全体がじっとり湿っている。
苔には、たぶん向いている。
第一居室の苔壁から、土ごと二か所ぶん削って運んできて、南の壁に塗りつけた。
締めすぎないように、そっと。
これは失敗して学んだことだ。
*
もちろん、すぐには光らない。
育つまで、しばらくかかる。
それまでは、苔の皿を置いておくことにした。
囲いの上に、ひとつ。
ぽつんとした緑の光の下で、泥まみれの竜が跳ねている。
悪くない眺めだと思った。
*
「よし。帰ろうか」
声をかけたら、ムクが走ってきた。
走ってきて、そのまま僕に飛びついた。
全身泥だらけの子が、である。
「わーっ、待って、待って待って待って」
遅かった。
*
僕らは二人とも泥まみれで段を上がった。
シュナが、僕を見て、そのあと僕の足跡を見た。
主坑道に、泥の足跡が点々とついている。
僕が拭くことになるやつだ。
*
水は、使えない。
水場は昨日から、まだ半分しか戻っていない。
だから今日も、乾いた土だ。
ふりかけて、待って、落として、またふりかける。
ムクは途中で寝た。
僕は寝られなかった。
*
「……ねえ、シュナ」
ウォフ。
「これ、毎日やるのかな」
シュナは答えなかった。
僕の膝の泥を、一回だけべろっとなめた。
まずかったらしく、すぐに顔をそむけた。
*
ようやく落とし終えたころには、体じゅうが痛かった。
半日押して、半日落として、一日が終わった。
部屋はひとつも増えていない。
増えたのは、泥の床ひとつだけだ。
*
それでも、ムクは明日も転ぶ。
転んで、ぼよんと跳ね返って、けろっと起き上がる。
痛くないなら、それでいい。
僕が作ったものが役に立つのは、だいたいそういうときだ。
*
寝床に戻ったら、シュナがいなかった。
探しにいって、見つけた。
下降通路を降りて、南の壁ぎわ。
弾力のある泥の床の、まんなかで。
*
いびきをかいて、寝ていた。
「……きみか」
いちばん気に入ったのは、この家でいちばん年上の犬だった。




