第12話 柵
朝のうちに、ムクを洗った。
洗った、といっても水は使わない。
乾いた土をふりかけて、待って、落とす。
三日連続で同じことをしている。
「もう、ぼくのしごと、これだけかもしれない」
「きゅる」
たのしい、が入ってきた。
こっちは全然たのしくない。
*
竪坑から降りてくる風が、冷たくなってきた。
上は、そろそろ冬らしい。
地下はあまり変わらないけど、朝だけ少しだけ寒い。
シュナが、以前より僕の足もとで丸くなる時間が増えた。
*
朝ごはんのあと、ムクが下降通路の前に座った。
じっと僕を見る。
しっぽが床をぱたぱた叩いている。
「……行きたいんだ」
「きゅあー!」
あそぶ、だった。
返事が早い。
*
苔の皿を持って、二人で降りた。
段の下り方は、相変わらず転がるみたいだ。
遊び場の泥は、昨日のまま、たいらだった。
ムクは着いた瞬間に腹から滑った。
ずざーっといった。
*
しばらくは、ずっとそれを見ていた。
僕は囲いに座って、にやにやしていた。
問題が起きたのは、そのあとだ。
ムクが、遊び場から出た。
*
苔の皿の光は、足もとと目の前しか照らさない。
遊び場の外は、真っ暗だ。
泥溜まりがどこまで広いのか、僕はまだ知らない。
ぺたぺたという足音が、遠ざかっていった。
「ムク?」
「……ムクー?」
*
返事がない。
声だけじゃなくて、感じるほうも、ない。
あそぶも、たのしいも、来ない。
ふっつり切れていた。
*
立ち上がったとき、自分の心臓の音がうるさかった。
苔の皿を掲げて、暗いほうへ歩いた。
足がずぶずぶ沈む。
「ムク!」
名前を呼びながら、十歩ほど進んだところで、泥の中から顔だけ出てきた。
*
「きゅる!」
入ってきた。
たのしい。
この子は、ずっとたのしい。
僕は膝から力が抜けて、その場にへたりこんだ。
泥だらけになった。
もういい。どうせ毎日泥だらけだ。
*
抱えて戻りながら、考えた。
暗いのは、まあ、明かりを増やせばいい。
でも、それより気になったことがある。
離れたら、この子の気持ちが、ぜんぜん届かなかった。
*
いつもは、少し離れても分かる。
うれしいとか、おなかすいたとか、輪郭みたいなものが来る。
それが、暗いほうへ行った途端、消えた。
「……変だな」
まあ、考えても分からない。
考えても分からないことは、だいたい考えても無駄だ。
僕は毎日これを言っている気がする。
*
分からないなら、対処すればいい。
あっちへ行かせなければ、いいだけの話だ。
「柵を作ろう」
「きゅ?」
*
遊び場の奥、暗いほうへ抜ける口は、僕が両手を広げたくらいの幅しかない。
そこを塞げばいい。
全部塞ぐと僕も通れないから、またげる高さで止める。
ムクの背より少し高く。
僕の腰より低く。
うちの中で、僕のほうが背が高い唯一の利点だ。
*
土を運んだ。
下降通路の壁を削って、両腕で抱えて、口のところへ積む。
押して、固める。
手が言うことを聞かせられる相手は、やっぱり土だ。
夕方には、それらしいものができた。
*
「よし。ムク、これより向こうは——」
説明している途中で、ムクが登った。
爪を引っかけて、ぐいぐい、ぺたん。
向こう側に落ちて、こっちを見上げた。
「きゅる!」
できた、だった。
僕もできたと思っていた。
*
次の日、高くした。
僕の腰の高さまで積んで、表面もならした。
ムクは登れなかった。
登れなかったので、掘った。
*
前足でざくざく掘って、下に穴を開けて、腹ばいでくぐった。
向こう側で、しっぽを振っていた。
「……きみ、頭いいな」
よくない。
いや、いいのか。
どっちでもいいけど、僕の二日が消えた。
*
土は、登れる。
土は、掘れる。
つまり土では駄目だ。
登れなくて、掘れなくて、ぶつかっても痛くないもの。
そんな都合のいいものは——ある。
すぐそこに、一面にある。
*
泥だ。
ただ、泥は積み上がらない。
試しに手で盛ってみたけど、しばらくすると、ゆっくり崩れて広がっていく。
あの、ゆっくり押すと沈むやつだ。
時間をかけると、泥はどこまでも柔らかい。
*
だったら、芯を土にすればいい。
もともとの土の柵を、そのまま骨にする。
その表面に、泥を塗る。
厚く、指の三本ぶんくらい。
「ムク、手伝って」
「きゅあー!」
*
手伝いというか、ムクは泥を運ぶのが好きなだけだった。
前足で泥をすくって、走ってきて、柵にぺたっと叩きつける。
それを繰り返す。
途中で自分が滑って転ぶ。
転んでぼよんと跳ね返って、けろっと起きて、また泥を取りに行く。
*
半日で、柵は泥をかぶった。
黒くて、つるつるしていて、見た目はあんまり良くない。
僕が作ったものにしては、不格好だ。
でも、たぶん、これでいい。
*
ムクが助走をつけた。
「あっ」
ぼよん。
跳ね返って、尻もちをついて、ころんと転がった。
*
駆け寄ったけど、ムクはもう立ち上がっていた。
鼻の頭に泥がついている。
「痛くない?」
「きゅる!」
もういっかい、だった。
もういっかいやった。
ぼよん。
*
爪を立てても、つるっと滑って登れない。
掘ろうとしても、泥が指の間から逃げて穴にならない。
ぶつかると跳ね返されて、痛くない。
柵として、ちょっと出来すぎている。
「泥って、便利だなあ」
それ以上は、考えなかった。
*
シュナが降りてきた。
柵を見た。
ちょっと匂いを嗅いで、それから、ひょい、とまたいだ。
「……きみは越えられるんだ」
ウォフ。
当たり前だろう、という顔だった。
まあ、この家で迷子になる心配があるのは、ムクと僕だけだ。
*
そのシュナが、向こう側で動かなくなった。
柵の先ではなく、降り口のそばの北の壁。
鼻先を壁に押しつけて、かりかりやっている。
「なに、どうしたの」
苔の皿を近づけた。
*
壁から、太い根が出ていた。
貯蔵室の奥に埋まっているのと、同じやつだ。
あの木の根が、下まで伸びてきている。
そして根のまわりに、キノコが生えていた。
細長いやつ。
ムクが四本食べて、何ともなかったやつだ。
*
上の貯蔵室の根に生えている量とは、比べものにならない。
根が太いからか、泥が湿って温かいからか。
しゃがんで、苔の皿をぐるっと回した。
光の届く範囲だけで、両手いっぱいはある。
光の外にも、たぶん、まだある。
*
「……シュナ」
ウォフ。
「これ、しばらく食べていける?」
シュナは、もう食べていた。
聞くまでもなかった。
*
その日のうちに、根を残してキノコだけ採った。
根は壊さない。貯蔵室のときに決めたことだ。
また生えてくるほうが、ずっといい。
*
持って上がって、貯蔵室に並べた。
並べる前に、やることがあった。
下の棚を空にして、全部、上の棚に移した。
ムクの手が届かない段だ。
*
ついでに、気になっていたところを直した。
下降通路の入口の土手を、ムクの腹がつかえる高さまで盛った。
第一居室の隅の落とし口には、粘土の板でふたをした。
段のふちも、丸く削り直した。
*
ムクは走る。よく転ぶ。
だったら、転んでも困らない家にすればいい。
部屋を増やすより、こういうことのほうが、最近は多い。
これはこれで、嫌いじゃない。
*
夜、寝る前に、シュナが上の棚を見上げていた。
じっと見上げていた。
「きみも届かないよ」
ウォフ。
知っとる、という感じの声だった。
不服そうだった。
*
一つだけ、まだ引っかかっていることがある。
柵を塗り終えたあと、僕は向こう側に立ってみた。
ムクはこっち側で泥を叩いて遊んでいた。
音は聞こえる。
でも、たのしいが、来なかった。
*
柵から顔を出すと、また来た。
引っこむと、消える。
出す。来る。
引っこむ。消える。
五回やった。
*
この泥、厚く塗ると、気持ちが通らなくなるらしい。
なんでだろう。
壁が厚いからかな。
土の壁では、こうならなかった気がする。
*
「ねえシュナ、これ、なんでだと思う?」
シュナは答えなかった。
しばらく僕を見て、それから鼻を鳴らして、段のほうへ歩いていった。
「……わかんないか」
ウォフ、とだけ返ってきた。
そのあと、なぜか一度だけ、柵を振り返った
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