第7話 水の通り道
朝になっても、寝床は湿ったままだった。
手のひらで押すと、じわっと冷たい。
土のベッドは、水を吸うとただの泥のかたまりになる。
当たり前だ。
土だもの。
*
「シュナ、見てよこれ。寝床がびしょびしょ」
シュナは乾いた壁ぎわで丸まったまま、片目だけ開けた。
知ってる、という顔だった。
知ってたなら、言ってほしかった。
*
まずは、水の通り道をたどってみた。
湧き水の間の水場から、あふれた水がふちを越える。
くの字の通路を、床の上をつたってちょろちょろ流れてくる。
寝室のまんなかあたりで広がって、寝床の下にしみこむ。
つまり、寝室が水の終点になっている。
「……うち、水の行き止まりに寝てたんだ」
*
水はおいしい。
湧いてくれるのはありがたい。
でも、飲みきれないぶんは、どこかへ行ってもらわないと困る。
水場のふちを高くすれば、あふれるのは止まる。
でも、それは一日か二日の話だ。
水は毎晩ちゃんと湧くから、いつかはまたあふれる。
入口のぽたぽたであれだけ苦労したのに、せっかくの湧き水を止めるなんて、もったいない。
だったら、流すしかない。
*
問題は、どこへ流すかだ。
水は低いほうへ流れる。
うちでいちばん低いのは、この寝室だ。
ここより低いところは、家の中にない。
となると、外だ。
外で、ここより低いところといえば。
「……谷だ」
入口の向こうは崖で、崖の下は谷だ。
底が見えないくらい深い。
あそこなら、どれだけ流しても、いっぱいになることはないだろう。
たぶん。
*
谷は東だ。
入口のほうだ。
これは自信がある。
主坑道をまっすぐ戻ればいいだけだから。
さすがの僕でも、一本道では迷わない。
……迷わないはずだ。
*
ただ、ひとつ困ったことがある。
主坑道は、入口に向かってゆるい上り坂になっている。
寝室がいちばん低いのだから、そうなるのは当たり前だ。
入口の床は、寝室の床より、僕の腰くらい高い。
そして、水は坂を上らない。
床に溝を掘っただけでは、水は寝室に戻ってくるだけだ。
*
じゃあ、どうするか。
溝の底を、入口に近づくほど深くしていけばいい。
床は上り坂でも、溝の底だけは下り坂にする。
そうすれば、水は溝の中を東へ下っていく。
入口に着くころには、溝はかなり深くなっている計算だ。
……計算、というほどのことはしていない。
なんとなくだ。
*
水路の傾きというのは、奥が深い。
下げすぎると、水が走りすぎて溝の底を削る。
下げなさすぎると、水が途中で止まって、そこに溜まる。
ちょうどいいのは、「なんとなく流れていく」くらいの傾きだ。
軍にいたころ、これを目で見て分かる人がいた。
溝をひと目見ただけで、「そこ、指一本ぶん高い」とか言う。
僕には、さっぱり分からなかった。
*
だから僕は、水を流して確かめることにしている。
目で分からないなら、水に聞けばいい。
水は正直だ。
高いところでは、ちゃんと止まってくれる。
止まってほしくないんだけど。
*
掘っているあいだに水場があふれたら、また寝床が濡れる。
だから、まずは水場のふちを粘土で高くした。
ふちを高くするのは一日二日しかもたない、とさっき言った。
でも、今はその一日二日がほしい。
それでも足りないぶんは、毎朝お椀でくみ出すことにした。
くみ出した水は、苔の壁にかけてやった。
苔は、心なしか嬉しそうだった。
たぶん気のせいだ。
*
溝は、水場の東側のふちから始める。
ふちの一か所を、あとで指二本ぶんだけ低く削る。
水は、そこからだけあふれるようになる。
その下から、通路の壁ぎわに沿って溝を掘っていく。
手のひらで土をゆるめる。
両腕で抱えられるぶんだけ掻き出す。
底には、湧き水の間の壁から取った粘土を張って、ぎゅっと締める。
*
水場のときと、同じやり方だ。
溝の底から水がしみたら、結局どこかの床がじっとり濡れる。
水は、決めた道だけを通ってもらう。
寄り道は許さない。
*
溝が寝室に入ったら、壁ぎわをぐるっと回して、寝床から遠いほうを通した。
寝室の隅には、床にこぼれた水を落とせる口もひとつあけておいた。
そこから先は、主坑道の壁ぎわを東へ進む。
入口に近づくほど、少しずつ深く掘っていく。
*
ときどき、お椀で水を運んできて、溝に流してみる。
ちょろちょろ流れていけば、よし。
途中で止まったら、そこだけ底を削る。
お椀を作っておいて、本当によかった。
この前の僕、えらい。
*
二日目の夜のことだ。
寝室の中の溝は、もうできあがっていた。
寝床の下の水たまりも、隅の口から溝へ落としてある。
床は、少しずつ乾き始めていた。
「これで今夜は、乾いた床で——」
ずぼっ。
暗がりの向こうで、変な音がした。
*
シュナが、溝に前足を突っこんでいた。
水を飲みに湧き水の間へ行こうとして、踏み外したらしい。
シュナは、ゆっくり前足を持ち上げた。
ぶるぶるっと振った。
それから、僕を見た。
すごく、見た。
「……ごめん」
「グルル……」
伝わってきたのは、びっくりした、だった。
それと、ふまん、だった。
*
そうだった。
溝というのは、足をひっかけるためにあるようなものだ。
明るいところならまだしも、うちは薄暗い。
シュナが突っこむなら、僕もそのうち突っこむ。
絶対に突っこむ。
ふたをしよう、と思った。
*
湧き水の間の粘土を、薄く、平たくのばす。
手のひら二枚ぶんくらいの板にして、思いきり締める。
それを、溝の上に一枚ずつ渡していく。
板の上に、掘った土をかぶせて、踏んで固める。
*
これで、溝は床の下に隠れた。
水は床の下を流れていって、上はふつうの床になる。
軍では、こういうのを「あんきょ」と呼んでいた。
見えない水路、という意味らしい。
当時は、どうせ見えなくなるのに丁寧に作る意味が分からなかった。
今なら分かる。
見えないから、足を突っこまないのだ。
*
ふたの上を、シュナがとことこ歩いていく。
途中で一度だけ足を止めて、くん、と床を嗅いだ。
それから、何も言わずに通っていった。
合格らしい。
*
三日目と四日目は、主坑道の溝を掘った。
入口に近づくにつれて、溝はどんどん深くなる。
最後のほうは、溝というより細い堀だった。
僕は堀の中に立って、足もとを掘り下げた。
掘った土は、あとで上からかぶせるので、堀のふちに積んでおく。
*
途中、換気竪坑の下を通る。
竪坑の真下には、土の三段がある。
風を確かめるための、大事な台だ。
あれを崩すわけにはいかない。
溝は三段をよけて、反対側の壁ぎわを通した。
*
五日目、入口の壁の前に着いた。
僕が四日かけて積んだ、あの土の壁だ。
堀の底は、もう僕の胸くらいの深さになっていた。
ここから先は、東の壁を抜くことになる。
*
東の壁の向こうは、崖だ。
崖の向こうは、谷だ。
うっかり大きな穴をあけたら、風も雨もびゅうびゅう入ってくる。
せっかく入口をふさいだ意味がなくなる。
それに、足もとが抜けたら、僕が谷に落ちる。
それは困る。
すごく困る。
*
だから、穴は小さくする。
水が通れればいい。
お椀ひとつぶんくらいの穴で、十分だ。
「シュナ、このへんの土って、どのくらい厚いか分かる?」
*
シュナは堀のふちまで来て、下をのぞきこんだ。
それから、ひょいっと堀の底に飛び降りた。
東の壁に鼻を当てて、あちこち嗅いで回る。
壁の足もと、床よりずっと下の一点で止まった。
前足で、かり、と一回だけ掻いた。
*
「……ここ?」
シュナは返事をしないで、堀のふちに前足をかけた。
じたばたした。
もう一回、じたばたした。
出られないらしい。
*
僕が抱えて、上に出してあげた。
シュナは何事もなかったような顔で、寝室のほうへ帰っていった。
飛び降りる前に、帰りのことを考えてほしい。
僕も人のことは言えないけれど。
*
シュナが掻いたところを、手のひらで少しずつゆるめていく。
土を掻き出して、腕を突っこむ。
また掻き出して、もっと奥まで突っこむ。
肘まで入った。
肩まで入った。
指の先から、急に土がなくなった。
*
指の先が、冷たい。
濡れている。
風が、指のあいだを抜けていく。
「……外だ」
外は、まだ雨が降っていた。
入口をふさいでから、外の雨に触ったのはこれが初めてだ。
*
遠くで、どーん、と何かが鳴った。
雷かな。
雷だろう。
どっちでもいい。
それより、今は水だ。
*
僕は腕を抜いて、堀の底をならした。
穴に向かって、最後のひと傾きをつける。
底には粘土を張って締める。
それから、湧き水の間まで走った。
水場のふちの一か所を、指二本ぶんだけ削る。
水が、そこからすうっとあふれ出した。
*
あふれた水は、溝に落ちて、ふたの下に消えていった。
僕は主坑道を、入口のほうへ走った。
堀のふちにしゃがんで、じっと待つ。
しばらく、何も来なかった。
途中で止まったのかな、と思ったころ。
ふたの切れ目から、ちょろっと水が顔を出した。
*
水は、堀の底の粘土の上を、ちょろちょろ下っていく。
迷わない。
寄り道もしない。
穴の前まで来て、吸いこまれるみたいに、すっと消えた。
穴の向こうで、谷に落ちていったのだ。
「……流れた」
もう一回、水が来て、また消えた。
「流れた! シュナ! 流れたよ!」
*
寝室のほうから返事はなかった。
かわりに、ふわあ、と大きなあくびが聞こえた。
寝てたらしい。
この感動を分かち合える相手が、うちにはいない。
*
堀に、残りの粘土の板をかけていく。
上から土をかぶせて、踏んで固める。
入口の前も、ほかと同じふつうの床になった。
その夜は、久しぶりに気分よく眠れた。
ただし、夜中までだった。
*
ひゅうううう。
変な音で目が覚めた。
寝室の隅の、床の水を落とす口から、冷たい風が吹き出していた。
シュナの眉毛が、風でぱたぱた揺れている。
シュナは起きていた。
目を細めて、じっと僕を見ていた。
*
考えてみれば、当たり前だ。
水が外へ出られる穴は、風が中へ入れる穴でもある。
僕は、入口をふさいで風を止めた。
それから五日かけて、床の下に、外へ続く細い穴を掘った。
「……僕、入口を作り直しちゃったんだ」
*
でも、この直し方は知っている。
軍で教わった。
誰に教わったかは、忘れた。
水路の出口の手前は、一度くぼませて、水が溜まるようにしておけ。
水が栓になって、風も虫もにおいも上がってこない。
ようするに、水でふたをするのだ。
*
次の日、入口の前の床をもう一度掘り返した。
穴の手前で、水路の底を一度ぐっと下げて、また上げる。
そこに、いつも水が溜まっているようにする。
溜まった水は、湧き水が来るたびに押し出されて、少しずつ穴から出ていく。
でも、くぼみは空っぽにならない。
半日かかった。
*
その夜、寝室の隅に手をかざしてみた。
風は来なかった。
耳を近づけると、ずっと遠くで、ちょろ、ちょろ、と水が動く音がした。
ちゃんと流れている。
風だけ、止まっている。
「……よし」
*
最後に、寝床を直した。
濡れて泥になった表面を、ぜんぶ削り取る。
主坑道の壁ぎわに積んである乾いた土を、両腕で抱えて運んでくる。
寝床に盛って、手のひらでならして、ほどよく固める。
固めすぎると、背中が痛い。
これは第一居室を作ったときに学んだ。
*
新しい寝床は、ふかっとして、乾いていて、ほんのりあたたかかった。
「できた。やっと寝られる」
僕は湧き水の間で手を洗って、顔を洗って、ついでに水を三杯飲んだ。
うまい。
やっぱりうまい。
それから、寝室に戻った。
*
シュナが、新しい寝床のまんなかで寝ていた。
四本の足を投げ出して、お腹を上に向けて、完全に熟睡している。
「……そこ、僕のなんだけど」
ウォフ、と寝言みたいに鳴いた。
伝わってきたのは、かわいてる、だった。
知ってる。
僕が乾かしたんだから。




