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第6話 水場


 苔が光るようになって、部屋が見えるようになった。


 見えるようになると、今度は別のことが気になり出す。


 僕はだいたい、こういう人間だ。


    *


 水の話をしよう。


 いま、うちの飲み水は入口から来ている。


 封鎖した入口の土壁に、雨がしみてきて、ぽたぽた落ちる場所があるのだ。


 その下に顔を持っていって、口を開けて待つ。


 一口ぶん溜まるのに、けっこうかかる。


    *


 しかも、あまりおいしくない。


 土の味がする。

 あと、ちょっと鉄っぽい。


 飲むたびに、口の中がじゃりっとする。


    *


 それでも、文句を言わずに飲んできた。


 ほかに水がないからだ。


 でも、昨日の夜、ふと思ってしまった。


 この水は、雨がしみてきたものだ。

 ということは、雨がやんだら止まる。

 秋の長雨も、いつかは終わる。


 「……まずくない?」


 まずい。


 味の話ではなく、状況が。


    *


 「シュナ」


 僕は寝床の端に座って、横で丸まっている老犬に話しかけた。


 「水の匂いって、分かる?」


 シュナは目を開けなかった。


 「どこかに、ちゃんとした水があると思うんだよ。湧き水とか。シュナなら嗅ぎ当てられるでしょ?」


 耳が片方だけ、ぴくっと動いた。


 それだけだった。


 「……聞こえてるよね?」


 「ウォフ」


 伝わってきたのは、ねむい、だった。


 知ってた。


    *


 しかたがないので、自分で探すことにした。


 壁に鼻をくっつけて、くんくん嗅いでみる。


 土の匂いがする。


 隣の壁も嗅いでみる。


 土の匂いがする。


 当たり前だ。

 ここは土の中だ。


 そもそも水って匂いがするんだっけ、と途中で気がついた。


 壁に鼻をくっつけたまま、僕はしばらく動けなかった。


    *


 結局、見つけたのはシュナだった。


 何時間かして、入口の水を飲みに行ったシュナが、しょんぼりした顔で戻ってきた。


 ぽたぽたの水では、犬の舌には足りなかったらしい。


 シュナは寝床には戻らず、部屋のいちばん奥の隅へ歩いていった。


 そこで、鼻を床すれすれまで下げた。


 くん、くん、と二回嗅いだ。


 それから、前足で土を掻き始めた。


    *


 「え、なに、手伝ってくれるの?」


 「ウォフ」


 伝わってきたのは、のどがかわいた、だった。


 僕のためではなかった。

 完全に自分のためだった。


 でも、それで十分だ。


    *


 シュナが掘るのは、とにかく速い。


 前足が交互に動いて、土がうしろにばらばら飛んでくる。


 あっという間に、頭がすっぽり入るくらいの穴ができた。


 僕が同じだけ掘ろうとしたら、たぶん半日かかる。


 「すごい、すごいよシュナ! そのままいこう!」


 シュナは穴から顔を抜いた。


 鼻の頭に土をつけたまま、僕を見上げた。


 それから、穴の横にごろんと寝そべった。


 「……え、そこまで?」


 「ウォフ」


 伝わってきたのは、つかれた、だった。


 頭ひとつぶんの穴で疲れる犬がいるだろうか。


 いるらしい。

 ここに。


    *


 奥、というのは、つまり西だ。


 入口は谷に面している。

 谷は東だ。

 だから、その反対に掘り進めば西になる。


 ……合ってるよね?


 正直に言うと、僕は方角というものに自信がない。


 穴の中にいると、なおさら分からない。


 でも、シュナが掻いた穴の向きは覚えている。


 あれを信じて、まっすぐ掘ればいい。


    *


 僕は、シュナの穴の続きを掘り始めた。


 手のひらで触れて、土をゆるめる。

 両腕で抱えられるぶんだけ掻き出して、主坑道の壁際に積みに行く。

 戻って、またゆるめる。


 その繰り返しだ。


    *


 ときどき、シュナが起きてきて、穴の具合を見に来た。


 あるとき、シュナは僕の横をすり抜けて、突き当たりの左側を、前足でかりっと一回だけ掻いた。


 それから、また寝に戻った。


 「……左?」


 振り返ってみると、掘ってきた穴が、ゆるく右へ曲がっていた。


 まっすぐ掘っていたつもりだった。


 本当に、つもりだけだった。


 僕は、曲がったところから左へ向きを直した。


    *


 二日目の途中から、土の手ざわりが変わってきた。


 湿っている。


 握ると、指のあいだがじっとり濡れる。


 さらに進むと、色が変わった。


 茶色だった土が、だんだん灰色になっていく。


 触ると、ぬるっと重い。


 指で押すと、押した形のまま戻ってこない。


 「……これ、粘土だ」


    *


 粘土だ。


 ただの土とは、ぜんぜん違う。


 土は乾くと、ぼろぼろになる。

 粘土は乾くと、かちかちになる。

 水を通さないし、形を覚えてくれる。


 軍にいたころ、水路の底に粘土を張る仕事をやらされたことがある。


 張るのは大変だったけれど、張り終えた水路は本当にきれいだった。


 水がすーっと流れていくのを見て、僕はちょっと感動した。


 ……周りの兵隊は、誰も感動していなかった。


    *


 「いい粘土だよ、シュナ。これ、すごくいい」


 シュナはいつの間にか後ろに来ていて、灰色の壁の匂いを嗅いでいた。


 「ウォフ」


 伝わってきたのは、のどがかわいた、だった。


 そうだった。


 水を探していたんだった。


    *


 三日目。


 寝室の隅から十歩ほど進んだところで、指先が硬いものに当たった。


 灰色の粘土の向こうから、黒っぽい岩の面が出てきた。


 ここから先は、たぶん山の芯だ。


 石も触ればほんの少しは柔らかくなるけれど、岩盤を掘り抜けるほどじゃない。


 僕の手では、どうにもならない。


 でも、掘る必要はなかった。


    *


 岩の面に、細い割れ目が一本、斜めに走っていた。


 膝くらいの高さだ。


 そこから、水が出ていた。


 ちょろちょろ、というほどもない。


 割れ目に沿って水の粒がふくらんで、重くなって、つうっと下に落ちる。


 落ちた先の粘土に、手のひらくらいの水たまりができていた。


 「……あった」


 声が裏返った。


    *


 シュナが僕を押しのけて、水たまりに顔を突っこんだ。


 ぴちゃぴちゃ飲んで、顔を上げた。


 髭から、灰色の水がしたたっている。


 ものすごく微妙な顔をしていた。


 「……泥、入っちゃうよね」


 水たまりの底は、粘土がむき出しだ。


 そこを舌でなめたら、そりゃ濁る。


    *


 水を受ける場所を作ろう、と思った。


 水場だ。


 割れ目の真下の床を掘り下げて、くぼみを作る。


 ここに水が溜まれば、あとは汲むだけでいい。


 簡単な話だ。


 ……前にもそう思った気がする。


    *


 くぼみを掘って、一晩待った。


 溜まった水は、茶色く濁っていた。


 底の土が水を吸って、ゆるんで、ぜんぶ混ざってしまっていた。


 ふちも崩れて、半分くらい埋まっている。


 これでは、ただの泥の穴だ。


 「……泥水、作っちゃった」


 シュナが覗きこんで、ふん、と鼻を鳴らした。


 今のは、翻訳しなくても分かった。


    *


 でも、材料はそこにある。


 目の前の壁が、ぜんぶ粘土だ。


 灰色の粘土を、両腕で抱えられるだけ掻き取る。


 手のひらで押して、こねる。


 小石が混ざっていたら取りのぞく。

 空気が入ったら叩き出す。


 こねているうちに、だんだん手に吸いつくようになってくる。


 この感じが、たまらない。


 ずっとこねていたい。


 いや、目的はこねることではない。


 分かってはいる。


    *


 ゆるんだくぼみの土を全部かき出して、底を平らにした。


 そこに、こねた粘土を張っていく。


 指の厚さくらいで、底と、ふちと、ぐるりと全部。


 張り終わったら、手のひらで押して締める。


 今度は、思いきり締める。


 力をこめると、粘土がきゅっと縮んで、表面がつるりとなめらかになった。


    *


 苔の壁のときとは、逆だ。


 あのときは、水を動かしたかった。


 今回は、水を一滴も逃がしたくない。


 同じ土いじりなのに、やることが正反対になる。


 これだから、土は面白い。


    *


 最後に、割れ目の真下に平たい石を一枚置いた。


 粘土を掘ったときに出てきた石だ。


 水がいつも同じ場所に落ちると、そこだけ底がえぐれる。


 石で受ければ、えぐれない。


 これも水路の仕事で覚えた。


 ……土木兵をやっていてよかったと思ったのは、たぶん初めてだ。


    *


 今度は寝床に戻らず、水場の横で待つことにした。


 待っているうちに、いつの間にか寝ていた。


 目が覚めると、水場がいっぱいになっていた。


 寝室の苔の光が、ここまでかすかに届いている。


 水の面が、うっすら緑に光って見えた。


    *


 手を入れてみる。


 冷たい。


 指の先から手首まで、一気に冷たい。


 すくい上げても、指のあいだに土のざらつきが残らない。


 両手ですくって、口に運んだ。


 「……」


 もう一口飲んだ。


 「……うま」


 もう一口。


 「やば。なにこれ。うまい」


    *


 土の味がしない。


 鉄っぽくもない。


 冷たくて、喉の奥をすうっと通っていく。


 あとから、ほんのり甘い気がする。


 水って、甘かったんだっけ。


 入口のぽたぽたばかり飲んでいたせいで、すっかり忘れていた。


 「シュナ! シュナ、飲んで! これ飲んで!」


    *


 シュナは僕の横に来て、水場のふちに前足をかけた。


 ぴちゃ、と一回なめた。


 それから、止まらなくなった。


 ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ、と、ずっと飲んでいる。


 しっぽが、左右にゆっくり動いていた。


 「ね? おいしいでしょ?」


 「ウォフ」


 伝わってきたのは、うまい、だった。


 初めて、意見が一致した。


    *


 シュナは満足するまで飲むと、顔を上げて、ぶるぶるっと頭を振った。


 髭にたっぷり含んだ水が、ぜんぶ僕の顔に飛んできた。


 「……冷たっ」


 シュナはもう、こっちを見ていなかった。


 僕の顔のことは、どうでもいいらしい。


    *


 それから二日かけて、水場のまわりを広げた。


 僕とシュナが並んで座れるくらいの、小さな部屋だ。


 湧き水の間、と呼ぶことにした。


 そのままだけど、分かりやすいのがいちばんだ。


 壁は放っておいても湿っているから、そのうち苔も植えられるかもしれない。


    *


 余った粘土で、お椀もひとつ作った。


 手のひらを二つ合わせたくらいの、ぶかっこうなお椀だ。


 ぎゅっと締めて固めたら、水を入れてもしばらくは漏れなかった。


 これで、苔の壁にも水を運べる。


 前は、桶ひとつなくて困っていた。


 桶は、まだない。


 でも、お椀はある。


 大進歩だ。


    *


 その夜、僕は上機嫌で寝床に入った。


 飲み水の心配がなくなった。


 お椀もある。


 苔も元気だ。


 今日は、いい夢が見られそうだ。


    *


 夜中に、背中が冷たくて目が覚めた。


 寝床に手をつくと、しっとりしている。


 床に手を伸ばすと、もっとしっとりしている。


 寝ぼけたまま、湿り気をたどって奥のほうへ手を這わせていった。


 細い筋が、湧き水の間の方から、ずっと続いていた。


 水場からあふれた水が、床をつたって、ここまで流れてきていたのだ。


    *


 水は、低いほうへ流れる。


 うちでいちばん低いところは、どうやらこの寝室だったらしい。


 誰だ、こんな作りにしたのは。


 僕だ。


    *


 シュナは、いつの間にか寝床を下りていた。


 乾いた壁際で、ひとりで丸くなっている。


 先に気づいていたらしい。


 ちょっとくらい、起こしてくれてもよかったと思う。


    *


 水はおいしい。


 ただし、寝床が冷たい。


 「……これ、どこかに流さないとなあ」





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