第5話 明かり
空気が通るようになって、三日が過ぎた。
息が苦しくない。
頭も痛くない。
そうなると、次の不満が出てくる。
人間というのは勝手なものだと思う。
暗い。
*
とにかく、何も見えない。
自分の家なのに、壁がどこにあるのか分からない。
寝床から立ち上がって三歩歩くと、だいたい何かにぶつかる。
昨日は壁だった。
今日はシュナだった。
「ごめん」
「グルッ」
伝わってきたのは、怒り、だった。
まったくもって正当な怒りなので、何も言い返せない。
*
火を使う手もある。
でも、やめておくことにした。
やっと空気が通るようになったところだ。
軍にいたころ、狭い坑道で火を焚いて叱られている兵隊を見た。
火は人と同じ空気を吸う、と言われていた。
せっかく通した風を、燃やして減らすのは馬鹿らしい。
それに、そもそも僕は火打ち石を持っていない。
考えるまでもなかった。
*
というわけで、苔だ。
入口の近く、水の滲んだ岩肌に、うっすら緑に光るやつが生えている。
第一居室にも少し移してある。
爪の先ほどの、点みたいな光だ。
あれをもっと持ってくればいい。
簡単な話に思えた。
*
思えたのだけれど。
*
移した苔は、二日で光らなくなった。
僕は暗闇の中で、壁に顔を近づけて確かめた。
枯れている。
指でこすると、ぱさぱさと剥がれた。
「……なんで」
考えた。
考えながら、移した場所の壁を撫でた。
乾いていた。
*
そうか、と思った。
入口の近くの壁は、いつも濡れている。
雨が滲んでくるからだ。
僕はその濡れた壁から苔を剥がして、乾いた奥の壁に貼り付けた。
人間でいえば、水の中の魚を掴んで机の上に置いたようなものだ。
そりゃ死ぬ。
「……僕がやったやつだ、これ」
少し落ち込んだ。
*
だが、原因が分かったなら話は早い。
壁を、濡れたままにしておけばいい。
*
問題は、奥に水がないことだった。
入口の壁は滲む。
寝室の壁は乾いている。
その間を、どうやって水に運ばせるか。
運ぶ、と言っても僕には桶もない。
両手で掬っても、歩いているうちに指の間から落ちる。
しばらく考えて、結局、土で運ぶことにした。
*
入口近くの、いちばん湿ったところの土を掻き集める。
両腕で抱えられるぶんだけ。
これを奥へ運んで、寝床のそばの壁に塗り込む。
塗ったあとで、押して、締める。
ただし、締めすぎない。
固めすぎると水が動かなくなって、表面から先に乾く。
寝床の失敗で学んだ。
あのときは背中が痛かっただけで済んだけれど、今回は苔が死ぬ。
*
運んで、塗って、また運ぶ。
二十往復したあたりで、腕が痛くなってきた。
「シュナ、手伝って」
シュナは寝床にいた。
真ん中にいた。
顔を上げて、こっちを見て、また下ろした。
「いま見たよね。目、合ったよね」
「ウォフ」
伝わってきたのは、がんばれ、だった。
応援されている。
*
三日かけて、壁の一面を湿った土で覆った。
触ると、ひんやりする。
押すと、じわりと指先が濡れる。
いい感じだ。
僕は入口へ戻って、苔を取りに行った。
今度は、剥がさなかった。
苔だけを剥がすと死ぬ。
だから、苔が乗っている土ごと、そっと削り取った。
根元の土が付いたままなら、まだ生きた場所にいるつもりでいてくれるかもしれない。
これは完全に勘だ。
でも、他に思いつかなかった。
*
両手で運ぶ。
崩さないように、揺らさないように、すり足で歩く。
途中でシュナが足元を横切った。
「わっ」
僕は片膝をついて、辛うじて苔を守った。
「あぶない。いま落としたら三日ぶんが無駄になるところだった」
「ウォフ」
伝わってきたのは、腹が減った、だった。
この子、本当に話を聞いていない。
*
湿った壁に、苔ごと押し当てる。
周りを土で囲って、乾かないようにする。
これを何度も繰り返した。
運ぶのは片手に載るくらいの量で、一往復にけっこう時間がかかる。
何日やったか、数えていない。
外が見えないので、どのみち日付は分からなかった。
*
そして、ある朝。
起きて、僕は目をこすった。
*
寝床の向こうの壁が、ぼんやり緑に光っていた。
点ではない。
帯だ。
僕が塗った湿った土の上を、緑の光が薄く広がっている。
まだ弱い。
本を読める明るさではまったくない。
でも。
「……見える」
僕は起き上がった。
*
天井があった。
当たり前の話なのだけれど、僕は初めてそれを見た。
思っていたより、ずっと高い。
三日かけて掘った壁が、両側に見えた。
右の壁は、まっすぐ削れている。
左の壁は、途中でふくらんでいる。
あそこは急いだ日だ。
覚えている。
肩に土が落ちてきた日だ。
僕は壁に触れた。
自分の手の跡が、そのまま残っていた。
何十個も、何百個も、押した順番に並んでいる。
「……全部、僕がやったんだな」
声が少し変になった。
*
振り返ると、シュナがいた。
寝床の真ん中で丸くなって、顔だけこっちに向けている。
緑の光の中で、髭の先が光っていた。
眉毛の下の目が、はっきり見える。
こんな顔をしていたのか、と思った。
いや、知ってはいた。
でも、この家の中で見るのは初めてだった。
「シュナ」
「ウォフ」
「見える。顔、見えるよ」
シュナはしばらく僕を見て、それから伸びをした。
寝床の端に、少しだけ寄った。
ほんの少しだけだった。
でも、確かに寄った。
*
僕は部屋の真ん中に立って、ぐるりと見回した。
土の壁。
土の床。
土のベッド。
ぜんぶ土だ。
置いてあるものは何もない。
外から持ってきたものは、服とシュナだけだ。
それでも、ちゃんと部屋の形をしていた。
雨が入らない。
風が顔に当たらない。
息ができる。
そして、見える。
*
僕はもう一度、壁を撫でた。
湿っている。
この調子なら、苔はもっと広がる。
そうしたら、もっと明るくなる。
明るくなったら、次は何をしよう。
水だ。
いま、飲み水は入口の壁から滴るのを受けている。
あれは正直、あまりおいしくない。
どこかに、もっとちゃんとした水があるはずだ。
シュナなら、たぶん嗅ぎ当てる。
*
「シュナ!」
僕は振り返って、大声を出した。
「見てよこれ、光ってる! ちゃんと光ってる! 昨日より広がってる!」
シュナが跳ね起きて、寝床から転がり落ちた。
「あ、ごめん」
「ウォフッ!」
伝わってきたのは、猛烈な抗議だった。




