第4話 風の穴
朝が来たのかどうか、分からなかった。
目は覚めた。
でもそれが眠りから覚めたのか、ただ気を失っていただけなのか、自分でも判断がつかない。
頭の後ろが重い。
起き上がろうとして、一度失敗した。
シュナは寝床の真ん中で丸くなっている。
揺すると薄く目を開けて、また閉じた。
伝わってきたのは、ねむい、だけだった。
「だめだって。それ、寝ちゃだめなやつだって」
僕は毛の中に手を入れて、ぐしゃぐしゃに掻き回した。
「起きて。今日は掘るんだから」
「……ウォフ」
伝わってきたのは、あとで、だった。
あとでじゃない。
*
昨日の場所は、すぐに分かった。
真っ暗でも、シュナが先に立って歩いてくれる。
結局、起きてはくれた。
塞いだ入口の壁から、西へ五歩。
坑道が緩く曲がっている、その内側。
僕は手のひらを上に向けて、天井の下に立った。
しばらく待つと、指先に冷たいものが触れる。
ある。
昨日の気のせいではなかった。
問題は、そこから先だった。
背伸びをしても、天井には届かない。
指の先が空を掻くだけだ。
「……そうだよね」
届かないものは、掘れない。
僕の力は、触っていなければ何も起きない。
離れた場所の土を動かすようなことは、できたためしがない。
できたら土木兵なんかやっていない。
つまり、まず高くならなければいけない。
*
方法はひとつしか思いつかなかった。
床を掘って、その土を、自分の足元に積む。
掘った穴の底が下がって、積んだぶん、立つ場所が上がる。
差し引きで、手が近づく。
「天才じゃないか」
やってみると、思ったより効いた。
両腕いっぱいに抱えて、置く。
足で踏んで、手で押さえて、締める。
三十回ほど繰り返したところで、指先が天井に触れた。
「あ」
触れたところの土は、ひやりとしていた。
湿っている。
柔らかい。
掘れる土だ。
「よし来た」
*
上を掘るのは、横を掘るのとまったく違った。
まず、落ちてくる。
崩した土が、そのまま顔に落ちてくる。
最初の一掴みで目に入って、僕はしばらく何も見えないまま咳き込んだ。
もともと何も見えていないのだけれど、痛いのは別の話だ。
上着を脱いで、顔の下半分に巻いた。
目は、もう諦めた。
シュナが少し離れたところで伏せている。
賢い。
*
掘る。
落ちてくる。
落ちた土を足で踏んで、固める。
踏んだぶん、足元が高くなる。
高くなるから、また上が掘れる。
「……これ、無限にいけるやつだ」
こんなに都合よく進む作業を、僕は今まで知らなかった。
軍にいたころは、掘った土を必ずどこかへ運ばされた。
積み上げれば怒られ、崩せばまた怒られた。
ここには誰もいない。
落としたところに積んで、その上に乗ってしまえばいい。
誰も怒らない。
最高だ。
*
ただし、体は正直だった。
腕が上がらなくなるのが、昨日より早い。
十掴みごとに座り込まないと続かない。
座ると、そのまま眠ってしまいそうになる。
魔力ではなく体力を食う力なのだと、適性検査の担当官は言った。
こんなに疲れるなら魔力のほうがよかった、といつも思う。
いま思っているのは、少し違った。
空気が悪いのだ。
同じ作業が、昨日の半分で苦しくなる。
足元を見ると、シュナがまた寝ていた。
「起きてろって」
「……ウォフ」
*
どのくらい掘ったか、分からない。
気がつくと、僕は自分で作った土の柱の上に立って、肩から上を穴に突っ込んでいた。
天井の穴が、もう筒になっている。
肘を張れば両側の壁に届く。
膝で押さえれば体が支えられる。
人ひとりが、やっと立てる幅だった。
顔の上を掻く。
土が首筋を伝って落ちていく。
その繰り返しの途中で、指が硬いものに当たった。
「……石だ」
押してみる。
動かない。
僕は筒の中で手を伸ばして、その縁を探った。
石の板ではなかった。
岩だ。
この崖そのものの、岩の底。
*
終わった、と思った。
石も、触れば固さを変えられる。
できないことはない。
でも、この厚みを抜くのに何日かかるのか、想像すらできない。
僕にそこまで保つ体力がない。
「……えー」
情けない声が出た。
筒の中なので、よく響いた。
*
僕は岩に手のひらを当てたまま、しばらく動かなかった。
冷たい。
……冷たい?
指をずらす。
もう一度。
岩と岩の継ぎ目に、爪の先ほどの隙間があった。
そこから、細い風が降りてきている。
「……え、ちょっと待って」
僕は隙間に指を突っ込んだ。
土だ。
岩の裂け目に、上から落ちてきた土や砂が詰まっている。
長い時間をかけて、そこで固まったものらしい。
岩ではない。
「掘れる」
声が裏返った。
「掘れる掘れる掘れる、これ掘れるやつだ」
下から、ウォフ、と眠そうな声がした。
*
詰まっていたものは、思ったより深かった。
腕を伸ばして掻き出しては、下に落とす。
落とす、と言っても真下に自分の顔があるので、半分は僕が浴びている。
息が続かない。
顔に巻いた布が濡れて、いよいよ苦しい。
何度か、腕を下ろして休んだ。
そのたびに、隙間からの風が少しずつ強くなっているのが分かった。
*
抜けたのは、唐突だった。
指が土を掻いて、その先に何もなかった。
ごそり、と音がして、握っていた塊が上へ吸われていくように動く。
*
風が、降ってきた。
顔に当たって、布を押し上げて、首の中まで入ってくる。
冷たい。
痛いくらい冷たい。
僕は目を開けた。
*
遠くに、灰色の点があった。
光と呼ぶには、あまりにも小さい。
星ほどの大きさで、白でもなく、黄でもなく、ただ濁った灰色をしている。
でもそれは、間違いなく空だった。
僕の頭の、ずっと、ずっと上。
どれだけ離れているのか見当もつかない。
ただ、そこまで岩の裂け目が続いていることだけが分かった。
*
力が抜けて、僕は筒の中をずるずる滑り落ちた。
積んだ土の上に尻から落ちて、ひっくり返る。
痛かった。
でも、そのまま起き上がれなかった。
息を吸った。
吸った。
もう一度、吸った。
頭の後ろの重さが、少しずつ薄れていく。
指の痺れが、いつの間にかなくなっていた。
顔の布を外して、僕は仰向けのまま叫んだ。
「シュナ! シュナ、通った! 通ったよこれ!」
*
シュナが跳ね起きた。
鼻を高く上げて、何度も鳴らしている。
それから僕の腹に前脚を乗せて、顔を舐めてきた。
「うわ、待って、土が、土がついてる」
「ウォフッ、ウォフッ」
うるさい。
伝わってきたのは、うれしい、だった。
それだけなのに、こっちまで笑えてくる。
「見てよ、上。空が見える。ほんとに小さいけど見える」
シュナは見なかった。
鼻を上げて、風の匂いを嗅いでいる。
どうやら見るより嗅ぐほうが好きらしい。
*
起き上がって、僕は穴を見上げた。
筒の幅は、人がやっと通れるくらいだ。
もう少し広げようかとも思った。
やめた。
広げれば、そのぶん雨が入ってくる。
せっかく塞いだ入口と同じことになる。
床が濡れて、寝床が冷える。
それに、そもそも登れない。
手が届くのは自分の背丈の倍までで、その上は、つるりとした岩の裂け目が続いているだけだった。
登る理由も、ない。
「息ができればいいんだよ、これは」
*
最後に、足元を整えた。
掘り出した土が、穴の下に山になっている。
このままでは歩くたび崩れて転ぶので、踏んで、押して、段の形に固めた。
三段ぶん。
上に立つと、ちょうど手のひらが筒の中に入る。
風の様子を確かめるのに、これが一番いい。
「うん。使いやすい」
*
その夜、僕は寝床で丸くなった。
上から降りてくる空気が、頬を撫でていく。
雨の匂いがした。
濡れた岩と、土と、遠くの草。
少しだけ、冷たくなっている気がする。
外はまだ降っているのだろう。
そのうち、降らなくなるのだろう。
僕には関係のない話だった。
「……おやすみ」
シュナはもう寝床の真ん中にいた。
今日くらい端に寄ってくれてもいいと思う。




