第2話 土のベッド
目が覚めて、最初に思ったのは「寒い」だった。
次に思ったのは「これはまずい」だった。
濡れた服のまま、濡れた岩の上で寝た。
軍にいたころ、これで熱を出した兵隊を何人も見ている。
寝床が冷えて、朝に鼻をすすって、三日目に立てなくなる。
その一段目に、僕はいま乗っている。
溝を掘ってそれを防ぐのが僕の仕事だったのに、自分がやっていたら世話がない。
シュナは僕の脇腹にぴったりくっついて眠っていた。
毛が半分乾いて、泥がぱらぱら剥がれている。
この子だけ暖かい。
僕の体温で暖まったのだと思うと、少し腹が立った。
*
起こさないように立って、洞穴の口まで歩いた。
外は白かった。
雨が谷の空洞をまっすぐ落ちていく。
僕は下を覗いて、それから上を見上げた。
昨日、必死になって作った足場が、なくなっていた。
ひとつも残っていない。
「……あ」
考えてみれば当たり前だった。
土を固めただけの、爪先ぶんの出っ張りだ。
一晩雨に打たれれば、そんなものは流れて元の斜面に戻る。
つまり、登れない。
ここから上へ戻る手段が、昨日のうちに消えていたことになる。
僕はしばらく雨を見ていた。
特に何も湧いてこなかった。
戻ったところで、部隊はもう西の街道の向こうだ。
僕を置いていった人たちが、僕を探しに来ることもないだろう。
名前も覚えられていなかったのだから、探しようがない。
「……まあ、いいか」
それより、寒いのが問題だった。
*
洞穴の奥は、外より少しだけ暖かかった。
風がわずかに動いている。
どこかへ抜けているのだと思うけれど、暗くて確かめようがない。
僕は壁を伝って奥へ進んでみた。
十歩ほどで天井が低くなって、そこから先は行き止まりに見える。
ただし、手のひらの感触が変わった。
岩じゃない。
土だ。
しっとりして、粒が細かくて、握ると指の形が残る。
昨日と同じ、あのいい土だ。
「シュナ。シュナ、ちょっと来て」
起きてきたシュナが、僕の横で鼻を鳴らした。
しばらく地面の匂いを嗅いでいたかと思うと、突然、前脚で掻き始めた。
土が後ろへ飛んでくる。
ほとんど僕の顔にかかった。
「ちょ、待って、待って」
「ウォフ」
止まらない。
あっという間に、犬一匹ぶんの窪みができていた。
この子は、こういうことに関しては僕の百倍賢い。
どこが掘れてどこが掘れないのか、鼻で分かるらしい。
僕は二年かけて教本を読んだ。
シュナは三秒で嗅ぎ当てた。
まあ、そういうこともある。
*
そこからは、単純な作業だった。
シュナが掘る。
僕が壁を固める。
両手で触れているところしか固まらないから、一度に手のひら二枚ぶんだ。
右手をついて、締める。
左手をついて、締める。
昨日、崖でやったのと同じことを、横向きにやっているだけだった。
三日かかった。
間に一度、天井の締めが甘くて肩に土が落ちてきたので、その日は早めに寝た。
シュナは掘るのは手伝うけれど、固めるのは手伝わない。
というより、手伝いようがない。
僕が壁を押している間、ずっと後ろで伏せて見ていた。
時々、あくびをした。
*
三日目に、シュナが奥で吠えた。
「ウォフッ、ウォフッ」
行ってみると、天井が急に高くなっていた。
土の層が広がっている場所らしい。
両手を広げても壁に届かない。
「わあ」
声が出た。
部屋だ。
誰かが掘ったわけでもないのに、部屋の形をしている。
僕は膝をついて、床を押した。
柔らかい。
冷たい。
このままでは、また昨日と同じように体を冷やす。
つまり、寝床を作らないといけない。
つまり、これから僕は土をこねられる。
「……よし」
僕は袖をまくった。
*
床の土を掻き集めて、両腕で抱えられるぶんだけ持ち上げる。
こねる。
冷たい泥が指の間から溢れて、手首を伝って落ちていく。
冷たいのに、こうしていると手だけ温かくなるから不思議だ。
粘りを出す。
水を少し抜く。
形にする。
置いて、また掻き集めて、こねて、置く。
軍にいたころ、僕はこの作業が嫌いではなかった。
命令で掘っていたけれど、掘っている間だけは誰も話しかけてこない。
泥は文句を言わないし、名前も呼ばない。
こねればこねただけ、形になる。
「……できた」
できあがったのは、床から一段だけ盛り上がった台だった。
人ひとりが横になれる大きさ。
縁を少し立ち上げて、寝返りを打っても落ちないようにしてある。
我ながら悪くない。
「シュナ、見て。見てこれ」
シュナは台に前脚をかけて、匂いを嗅いだ。
「乗っていいよ」
「ウォフ」
言い終わる前に飛び乗って、三回まわって丸くなった。
「早い」
「ウォフ」
伝わってきたのは、いいところ、だった。
褒められたと思っておく。
*
最後にひとつ、やることがあった。
部屋が、暗い。
真っ暗ではない。
入口のほうから、わずかに白い光が届いている。
でも、自分の手のひらも見えないくらいには暗かった。
僕は入口のほうへ戻って、壁を探した。
昨日から気になっていたものがある。
水の滲んだ岩肌に、うっすら緑の光があった。
苔だ。
軍でも見た。
湿った坑道の壁に生える、ぼんやり光るやつ。
誰も気にとめない、ただの苔だ。
僕は指の先でそっと剥がして、両手に載せた。
崩さないように奥まで運ぶ。
寝床のそばの壁を少し荒らして、湿り気が抜けないように締めた。
その窪みに、苔を押し当てる。
待った。
……待った。
何も起きなかった。
「……そうだよね」
苔は苔のペースでしか育たない。
僕がこねられるのは土であって、生きているものは僕の手ではどうにもならない。
しばらくこの部屋は暗いままだろう。
それでも、押し当てた場所だけが、爪の先ほどの緑で光っていた。
じっと見ていると、だんだん目が慣れてきて、少し明るく見えてくる。
気のせいだと思う。
気のせいでも、そっちのほうが嬉しい。
*
僕は台の上に横になった。
土の匂いがする。
背中が沈んで、そこで止まった。
脇でシュナが伸びをして、また丸くなる。
毛の中に手を差し込むと、驚くほど熱い。
伝わってきたのは、ねむい、だった。
「うん。僕も」
目を閉じた。
音が、ない。
雨の音は、洞穴の入口の、そのまた向こう側にある。
爆音も、伝令の声も、点呼も、号令もない。
起きろと言う人がいない。
掘れと言う人もいない。
四日間ずっと地面が揺れていたことを、僕はいま思い出した。
思い出しただけだった。
*
寝心地は、最高だった。
ただし、二時間で目が覚めた。
背中が痛い。
僕は暗闇の中で起き上がって、自分の作った台を指で押した。
固い。
固すぎる。
しっかり作ろうとしすぎた。
「……明日、やり直しか」
シュナは僕の隣で、すやすや寝ていた。
この子だけ、毛皮があるから関係ないのだった。




