第1話 泥と、置き去り
雨が四日も降ると、地面は土をやめる。
泥になる。
泥は掘っても形が残らないので、僕のような人間にとっては敵みたいなものだ。
それでも僕は膝まで沈んだまま、塹壕の底に溝を掘っていた。
仕事だからだ。
水が溜まると兵隊が体を冷やす。
冷やすと熱を出す。
熱を出すと立てなくなる。
だから溝を掘る。
地味だけれど、ちゃんと人が死ななくなる仕事だと思っている。
「シュナ、この辺に砂利ないかな。粒の粗いやつ」
足元の泥の塊が、短く鼻を鳴らした。
銀灰色の毛が茶色く染まって、立派な眉毛の下から目だけが覗いている。
仙人みたいな髭の先から、ぽたぽた水が落ちていた。
地中犬のシュナ。
僕の家族だ。
「ウォフ」
伝わってきたのは、腹が減った、だった。
「砂利の話をしてるんだけど」
「ウォフ」
伝わってきたのは、腹が減った、だった。
同じだった。
この子との会話は、だいたい三回に二回はこれで終わる。
*
仕方がないので、砂利は諦めた。
壁に両手をついて、押す。
手のひらの下で、ぐずぐずの泥がきゅっと締まっていく。
「……お」
僕は声に出した。
誰も聞いていないので問題はない。
これが、いい。
さっきまで指がずぶずぶ入っていったものが、急に「そこにある」ものに変わる。
万物クラフト。
僕が持っている、たったひとつの力だ。
触っていないと使えない。
一度に扱えるのは、両腕で抱えられるぶんだけ。
金属にも布にも効かない。
適性検査の日、担当官は書類から顔を上げなかった。
顔を上げないまま「土木」と書いた。
あれ、たぶん僕の顔を見てないと思う。
まあ、文句はない。
溝が掘れて、壁が崩れない。
それでじゅうぶんだ。
東のほうで、地面が跳ねた。
爆音は少し遅れて届く。
泥の水面が細かく震えて、また雨に潰された。
「あー」
いま固めたばかりの壁が、揺れで欠けていた。
「やめてよ、そこ今やったところなんだから」
シュナがこっちを見た。
そこ? という目だった。
*
伝令が走ってきたのは、その少しあとだ。
撤退命令。
塹壕はあっという間に空になった。
兵隊たちが泥を蹴立てて走り、そのたびに僕の溝が踏み潰されていく。
四日ぶんの仕事だった。
「あ、待って。そこ通らないで。そこ、そこ縁だから」
誰も聞いていなかった。
僕も荷物をまとめようとして、腕を掴まれた。
「おい、土木兵」
ガイル百人隊長だった。
鎧に泥が一滴も付いていない。
この四日、ずっと後方の天幕にいた人だ。
「殿を置いていく。お前だ」
殿というのは、要するに「そこで死ね」という意味である。
いや、待ってほしい。
僕、土木兵なんだけど。
これで何をしろと。
穴でも掘れと。
掘るけど。
「土を固める芸があるんだろう。道を塞げ。好きにやれ」
「あの、僕、剣は」
「使えない土木兵は、ここで死ね」
言い終わる前に、もう背を向けていた。
馬に乗って、泥を跳ね上げて西へ消えていく。
最後まで、僕の名前は一度も出てこなかった。
二年いたのだけれど。
いや、二年もいたのに。
*
雨の音だけが残った。
シュナが僕の脛に体を押しつけてくる。
伝わってきたのは、輪郭だけの、真っ黒な怒りだった。
「まったく、しょうがないなぁ」
僕はしゃがんで、その頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「怒っても濡れるだけだよ」
シュナは撫でられながら、まだ西のほうを睨んでいた。
この子のほうが、よっぽど僕のために怒ってくれる。
東の空が、赤く光った。
二拍おいて、地面が下から突き上げた。
泥が一斉に跳ね上がって、視界が茶色くなる。
足止めをしろ、と言われた。
でも僕が泥を固めたところで、あれは止まらない。
止まらないものを止めろというのは、命令としてどうなのだろう。
どっちが勝つのかも、僕は知らない。
知ったところで、溝は掘れない。
シュナが僕のズボンの裾を噛んで、引っ張った。
「グルッ」
伝わってきたのは、こっち、だった。
「わかった。わかったから噛まないで」
*
僕は走った。
武器も鎧もないから、走るのだけは速い。
これは本当だ。
軍で唯一、僕が一番だったのが「装備がないので速い」だった。
褒められたことは一度もない。
シュナが先を行き、時々振り返って待ってくれる。
北へ。
部隊が下がった西とは、逆の方角だ。
斜面を登りきったところで、僕は足を止めた。
地面が、なくなっていた。
巨大な裂け目だった。
縁には黒い岩が並んで突き出していて、雨に濡れて鈍く光っている。
牙みたいだ、と思った。
竜牙谷。
名前だけは聞いたことがある。
底は見えない。
雨がそのまま吸い込まれていって、落ちる音がどこからもしなかった。
僕は腹ばいになって、下を覗いた。
そして、声が出た。
「うわ」
崖の断面が、きれいに層になっていた。
黒い岩。
その下に赤茶けた帯。
さらに下に、しっとりした土の層。
何百年もかけて積もったものが、そのまま切り取られて並んでいる。
「すごいなこれ。見てよシュナ、こんなの教本でしか見たことない」
シュナは見なかった。
もう縁のぎりぎりまで進んで、前脚で岩を掻いている。
振り返って、短く吠えた。
「ウォフ」
降りろ、ということらしい。
「え、ここ降りるの?」
背後で、また地面が揺れた。
「……降りるか」
*
最初の三歩で、体重が支えられなくなった。
落ちる、と思った瞬間に岩壁へ手をつく。
触れたところの土が、手のひらの下で締まっていく。
爪先ぶんの足場ができた。
それだけだ。
両腕で抱えられるぶんしか固められないのだから、それ以上は望めない。
右手をついて、足場を作る。
左手をついて、次の足場を作る。
五つ目で、失敗した。
急いだせいで締まりが甘く、乗った瞬間にぼろりと崩れた。
「うわっ、わっ、わっ」
片手だけで岩にぶら下がって、足が空を掻く。
肩が抜けるかと思った。
どうにか次の足場を作って乗り移り、僕は壁に額をつけて息を整えた。
「……ちゃんと固めてから乗る。うん。学んだ」
下を見ると、シュナは遥か下にいた。
岩の出っ張りをするすると伝って、こっちを見上げている。
伝わってきたのは、おそい、だった。
「手伝ってよ」
「ウォフ」
伝わってきたのは、むり、だった。
たぶん本当に無理なのだと思う。
思うけれど、言い方があると思う。
*
二十を数えたあたりで、腕が笑い始めた。
魔力ではなく、体力を食う力なのだ。
働きすぎればただ疲れて、眠くなる。
こんなところで眠ったら死ぬな、と他人事みたいに考えた。
雨と泥で目が開かない。
腕の感覚もない。
それでも、手をつくのだけは続いた。
シュナの声が、すぐ横で聞こえた。
「ウォフッ」
顔を上げると、岩壁に黒い口が開いていた。
横穴だった。
人がかがめば入れるくらいの高さで、奥がどこまで続いているのか分からない。
僕は最後の足場を固めて、そこへ転がり込んだ。
*
音が、遠くなった。
雨が洞穴の外側だけを流れていく。
爆音も、叫び声も、届かない。
僕は泥の床にひっくり返って、しばらく天井を見ていた。
それから、起き上がって壁を触った。
「……あ」
声が出た。
湿っている。
粒が細かくて、握ると指の形がそのまま残る。
なのに、べたつかない。
塹壕のあの泥とは、まるで違う。
「シュナ。シュナちょっと来て、これ触って」
「ウォフ」
「いい土だよこれ。すごくいい」
僕は両手で壁を押した。
ちゃんと締まる。
抵抗が均一で、変な抜け方をしない。
水を足す必要もない。
砂を混ぜる必要もない。
混ぜるとしたらむしろ、もう少し粗いのを足して……いや、待って、足さなくていい。
このままでいい。
このままで完成している。
「二年だよ。二年探してもこんな土なかった。それがこんなところに」
僕は一人で喋り続けた。
振り返ると、シュナはもう洞穴の奥の乾いたところに移動していた。
三回まわって、丸くなっている。
「……聞いてた?」
返事はなかった。
伝わってきたのは、ねむい、だけだった。
*
外では、まだ戦争が続いているのだろう。
誰かが勝って、誰かが負けて、また泥の上に線を引き直すのだろう。
どうでもよかった。
僕の手のひらの下には、二年ぶんの塹壕より上等な土がある。
「よし。明日、掘ろう」
シュナは、もう寝ていた。




