第18話 【外】息をする崖
俺の仕事は、見ることだ。
斬るのは、別のやつの仕事だ。
突っこむのも、叫ぶのも、死ぬのも、たいてい別のやつの仕事だ。
俺は見て、覚えて、生きて帰って、報告する。
ザカリア王国軍の斥候というのは、そういう商売だ。
だから、崖の斜面に一晩じゅう腹ばいになっているのも、仕事のうちだ。
寒い。
指の感覚が、とっくにない。
商売を間違えた気がしてきた。
*
命令は、単純だった。
五日前、メルディアの騎士がひとり、この斜面で消えた。
追っていた連中は、谷へ落ちたと言った。
死体を確かめてこい、と言われた。
谷へ落ちた死体を、どうやって確かめろというんだ。
竜牙谷の底は、誰も見たことがない。
石を落としても、音が返ってこないと言われている。
確かめに降りた者は、帰ってこなかったと言われている。
「言われている」ばかりだ。
つまり、誰も確かめていない。
確かめに行かされるのが、俺だ。
*
斜面の途中に、岩の割れ目がひとつあった。
人がやっと一人、横になって入れるかどうかの細さだ。
どこにでもある、ただの裂け目に見える。
最初は、見過ごした。
二度目に通りかかったとき、足もとの枯れ葉が動いた。
風下なのに、割れ目のほうへ、すうっと引かれていった。
俺は、しゃがんだ。
枯れ葉が一枚、割れ目のふちで止まった。
それから、吸いこまれるように、中へ消えた。
この崖は、息を吸っている。
穴が風を吸うのは、奥が広いときだ。
ただの割れ目なら、風は通らない。
下に、でかい空洞がある。
*
夜まで待って、試した。
外套を脱いで、割れ目の口にかぶせた。
ふさいだ瞬間、手の下で、ふっと何かが止まった気がした。
外套を外すと、また風が吸いこまれていく。
次に、小石を一つ、落とした。
からん、と鳴った。
ころころ、ころ、と転がる音がして、止まった。
音が、返ってきた。
底があるということだ。
しかも、石が転がれるくらいの、平らな底だ。
谷の底ではない。
谷の底なら、音は返ってこない。
「……誰か、いるな」
口に出してから、少し後悔した。
外套を脱いだせいで、寒さが倍になっていた。
*
夜明け前に、降りることにした。
縄は、三十歩ぶんある。
斥候の縄としては、長いほうだ。
小石の音からすると、たぶん足りる。
たぶん、というのは、斥候がいちばん使ってはいけない言葉だ。
知っている。
知っていて使った。
寒かったんだ。
割れ目の奥の岩のすき間に、鉄の楔を打ちこんだ。
縄を結んだ。
二度、三度、体重をかけて引いた。
抜けない。
火打ち石と火口の袋が、腰にあるのを確かめた。
ランプは置いていく。
狭すぎて、持って降りられない。
「見るだけだ」
自分に言い聞かせた。
「見て、帰る。手は出さない」
*
割れ目の中は、つるつるだった。
水に削られたのか、風に削られたのか知らないが、手をかける場所がどこにもない。
縄がなければ、一歩も降りられない。
縄があっても、ほとんど腕だけで降りている。
上を見た。
入ってきた口が、灰色の細い線になっていた。
下を見た。
真っ暗だった。
降りても降りても、岩だった。
腕がしびれてきたころ、足の先に、何か違うものが触れた。
岩じゃない。
土だ。
*
割れ目の下のほうが、急に丸くなっていた。
丸い筒だ。
土でできた、人ひとりぶんの、まっすぐな筒。
壁を、手のひらでなでた。
なめらかだった。
ぎゅっと締めてあって、指で押してもへこまない。
これは、自然にできたものじゃない。
誰かが、下から掘り上げたんだ。
この筒を。
手で。
背中が冷えたのは、寒さのせいだけではなかった。
この崖の中に、穴を掘って暮らしている誰かがいる。
しかも、上の割れ目まで、自分で掘り抜いて、息の通り道を作っている。
メルディアの騎士は、谷へ落ちたんじゃない。
ここに、逃げこんだんだ。
いや、待て。
五日やそこらで、この筒は掘れない。
この穴の主は、ずっと前からここにいる。
*
縄が、終わった。
足もとに、まだ筒が続いている。
底は見えない。
三十歩ぶんの縄が、足りなかった。
たぶん足りる、の「たぶん」が外れた。
今年いちばんの外れだ。
まだ冬の入りなのに。
しかたなく、筒の壁に背中と足を突っぱって、体を支えた。
狭い煙突を降りるときのやり方だ。
縄から、そっと手を離した。
いける。
土の壁はよく締まっていて、突っぱっても崩れない。
背中と足を交互にずらして、少しずつ降りていく。
そのとき、頭の上で、かつん、と鳴った。
楔の音だった。
見上げる間もなかった。
縄が、楔ごと、上から降ってきた。
三十歩ぶんの縄が、まとめて顔に落ちてきた。
突っぱっていた足が、すべった。
*
落ちた。
背中で、土の壁をこすりながら落ちた。
そんなに長くなかった。
長くなかったが、じゅうぶん痛かった。
どすん、と何かの上に落ちた。
石の床じゃなかった。
段のついた、土の台だった。
落ちたところが少し崩れて、俺の体を受け止めた。
息ができなかった。
しばらくして、できるようになった。
骨は、たぶん折れていない。
今日、二つめの「たぶん」だ。
*
縄の山の下から、はい出した。
暗い。
でも、真っ暗ではなかった。
西のほうに、坑道が続いている。
ゆるく曲がった、その先の、ずっと奥のほうが、ぼんやり緑に光っていた。
火の色じゃない。
煙のにおいもしない。
あれは、なんだ。
東を振り向いた。
五歩ほど先で、坑道が行き止まりになっていた。
土の壁だ。
触ると、かちかちに締めてある。
積んで、固めて、ふさいだ跡だ。
入口を、内側から埋めたのか。
外から入れないように。
そして、自分たちも外へ出られないように。
出口は、今落ちてきた筒だけだ。
縄は、俺の足もとにある。
楔も、ある。
つまり、上へは、もう戻れない。
一方通行の穴だ。
入れるが、出られない。
この段は、落ちてきた者を殺さないためのものだ。
生かして、捕まえるためのものだ。
俺は、罠の底にいる。
*
そこで、気づいた。
段の上に、誰か座っていた。
心臓が、一回止まった。
たぶん止まった。
今日、三つめだ。
男だった。
シャツ一枚で、背筋をまっすぐ伸ばして、段のいちばん下に座っている。
左腕を、土で固めてある。
右手に、小さな器を持っている。
取っ手のついた、土の器だ。
目を、閉じていた。
寝ている。
この姿勢で。
俺がすぐ横に落ちてきて、縄の山の下で転げ回っていたのに。
顔を、見た。
知っている顔だった。
五日前、この斜面で追い詰められた、メルディアの騎士だ。
*
生きている。
しかも、手当てされている。
腕を、土で継いである。
そんなやり方、見たことがない。
この騎士が、穴の主なのか。
いや、違う。
五日前に落ちてきたやつが、ずっと前から掘られていた穴の主のはずがない。
穴の主は、別にいる。
この騎士は、ここで番をしている。
寝ているが。
腰の短剣に、手をやりかけて、やめた。
見るだけだ。
手は出さない。
斥候が手を出したら、それはもう斥候じゃない。
ただの、帰ってこない兵隊だ。
*
そのとき、西の暗がりから、音がした。
ぺた、ぺた、ぺた。
小さい足音だった。
犬か何かだと思った。
それから、ごん、と鳴った。
金物が、壁にぶつかる音だった。
「きゅる?」
暗がりから、何かが顔を出した。
膝の高さくらいの、小さいやつだった。
全身、泥まみれで、頭に兜をかぶっている。
大きさが合っていなくて、兜がぐらぐらしている。
兜の下から、金色の目がのぞいていた。
瞳が、縦に細い。
背中には、しわしわにたたんだ羽根。
泥の下に、鱗が見える。
竜だった。
子どもだが、竜だった。
*
兜の額に、紋章が打ってあった。
鳥とも、木ともつかない形。
メルディアの紋章だ。
メルディアの兜をかぶった竜が、メルディアの騎士の番する穴の中を、走り回っている。
頭の中で、何かがつながった。
つながってはいけない気がする形で、つながった。
メルディアは、この崖の中に、竜を飼っている。
*
竜の子が、俺を見た。
首をかしげた。
それから、とことこ近づいてきた。
俺は、動けなかった。
動いたら、何が起きるか分からなかった。
竜の子どもの近くには、竜の親がいる。
そういうものだと、昔から言われている。
また「言われている」だ。
竜の子が、俺の顔の前まで来た。
泥だらけの口を、開けた。
べろん、と舐められた。
頬から、額まで。
泥の味がした。
*
「きゅあー!」
竜の子は、とても楽しそうだった。
俺は、はじかれたように立ち上がった。
東は、行き止まりだ。
上へは、戻れない。
西の光のほうには、穴の主がいる。
残っているのは、真ん中だけだった。
坑道の途中の床に、穴があいていた。
ふちを、低い土手がぐるりと囲んでいる。
下へ降りる口だ。
俺は土手をまたいで、穴へ飛びこんだ。
*
段だった。
下へ続く、土の段だった。
ただ、低かった。
異様に低かった。
一段が、指を二本重ねたくらいしかない。
しかも、ふちが丸く削ってある。
駆け下りようとすると、足がどこにも引っかからない。
大股で下りると、つんのめる。
転がり落ちようにも、段が低すぎて、うまく転がれない。
結局、俺は、半歩ずつ下りるしかなかった。
敵の砦の奥へ逃げこむ斥候が、半歩ずつ。
ザカリア軍の歴史で、いちばん遅い逃走だと思う。
十、二十と数えた。
四十を越えたあたりで、数えるのをやめた。
背後から、兜の鳴る音が、ぺたぺたとついてきた。
「きゅる!」
楽しそうだった。
ずっと、楽しそうだった。
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