第16話 うちの案内
朝、起きたら、ライルがもう起きていた。
寝床の上で、正座している。
折れた腕を膝にのせて、じっと僕を見ている。
怖い。
「……おはよう」
「おはようございます、レオ殿」
「いつから起きてたの」
「夜明け前より」
夜明けもなにも、ここはずっと薄暗い。
どうやって分かったんだろう。
この人、体の中に鶏でも飼ってるのかな。
「レオ殿。本日より、この身にできることを、なんなりと」
「まだ腕、くっついてないでしょ」
「片腕は、残っております」
「残ってるほうの腕で、寝ててほしいんだけど」
ライルは引かなかった。
正座のまま、ぴくりとも動かない。
この人は、たぶん、何かしてないと落ち着かないんだな。
軍にもこういう人はいた。
休めと言われると、かえって具合が悪くなる人だ。
「……じゃあ、家の中、見て回る?」
「は」
「どこに何があるか分かんないと、困るでしょ。案内するよ」
ライルの背筋が、さらに伸びた。
まだ伸びるのか。
「……拝見、つかまつります」
「見るだけだよ?」
*
まずは、この部屋からだ。
「ここが寝るところ。で、あれが明かり」
僕は、寝床の向かいの壁を指さした。
壁いちめんに苔が生えていて、ぼんやり緑に光っている。
「入口のところに生えてた苔を、土ごと持ってきたんだよ」
「土ごと」
「最初は苔だけはがして貼ったんだけど、二日で枯れちゃってさ」
あれはへこんだ。
二日ぶん暗かったし、シュナに三回ぶつかった。
三回目は、さすがに噛まれるかと思った。
「苔って、生えてた土がないとだめなんだよ。あと、壁は湿らせとくの」
話しているうちに、だんだん楽しくなってきた。
壁の土を、指で押してみる。
ほどよく、しっとりしている。
うん、今日もいい感じだ。
「でもね、固めすぎちゃだめなんだ。固めると水が動かなくなって、表から乾いちゃう。握ったら指のあとがうっすら残るくらいが、ちょうどいいの」
「……火を、使われぬのですな」
「火? うん、使ってない」
「煙が上がれば、谷の上から所在が知れる。ゆえに火を捨て、苔の光を……」
「火打ち石、持ってないんだよね」
ライルが、黙った。
「あと、せっかく通した空気を燃やすのも、もったいないし」
「……空気まで、お読みになる」
読んでない。
吸ってるだけだ。
そのとき、部屋の隅で、何かが光った。
「……あれ?」
落とし口のふたのそばだ。
壁のいちばん下に、小指の先くらいの、緑の点がある。
しゃがんで、顔を近づけた。
苔だった。
僕が植えた覚えのない場所に、苔が生えている。
「わあ……増えてる。増えてるよ、これ!」
たぶん、落とし口のまわりの壁が、いつも湿っているからだ。
苔壁から、勝手にこっちへ移ってきたんだ。
誰にも頼まれてないのに。
「シュナ、見て! 苔が自分で引っ越してきた!」
シュナは寝床で丸まったまま、片目だけ開けた。
開けて、閉じた。
「……興味ないな?」
ウォフ。
小さく鳴いた。
たぶん「うるさい」だ。
ライルは、僕のうしろで固まっていた。
「光が……自ら、殖えて……」
「ね、すごいよね。苔、えらいよね」
「……尽きぬ灯とは、このことか」
尽きるよ。
乾いたら普通に枯れるよ。
言おうとしたけど、ライルがあまりに真剣な顔をしていたので、面倒になってやめた。
*
次は、湧き水の間だ。
寝室の西の奥の隅から、短い通路がのびている。
「こっち。十歩くらいだから」
歩き出してすぐ、ライルが立ち止まった。
「レオ殿。この道、曲がっておりますな」
「ああ、うん」
通路は途中で、ちょっとだけくの字に折れている。
「まっすぐに通せば、奥まで見通される。あえて折ることで――」
「まっすぐ掘ったつもりだったんだよ」
「……は」
「気づいたら右に曲がってて、シュナに直されたの」
僕は方向がよく分からない。
自分の家の中でも、シュナがいないとたまに迷う。
十歩しかない通路で、なんで曲がるのかは、僕にも分からない。
ライルは、深く、深くうなずいた。
「……ご謙遜を」
してない。
湧き水の間は、小さい部屋だ。
僕とシュナが並んで座ると、それでいっぱいになる。
ライルが入ると、ちょっと窮屈だった。
奥の黒い岩の、膝くらいの高さに、細い割れ目が一本ある。
そこから水の粒がふくらんで、ぽつん、と落ちる。
「これが、うちの水。昨日、飲んだでしょ」
「……これが」
ライルは膝をついて、割れ目を見た。
ぽつん、と水が落ちるのを、ずっと見ていた。
「岩から、水を……」
「もともと出てたんだよ。見つけたのはシュナ」
「神獣様が」
「神獣じゃなくて犬だけどね。たぶん、自分が飲みたくて探したんだと思う」
それより、見てほしいのは水場のほうだ。
ここは自慢したい。
最初は、掘ったくぼみにそのまま水をためた。
一晩で泥水になった。
飲めたもんじゃなかった。
だから、この部屋の壁の灰色の粘土を、指の厚さで張った。
強く、強く締めた。
そうしたら、水がちゃんと澄んだまま残るようになった。
苔の壁とは、やることが逆なんだよ。
苔の土は締めすぎちゃだめで、水場の粘土は締めなきゃだめ。
同じ土の仲間なのに、扱いが真逆なんだ。
これが面白いんだよなあ。
「で、水が落ちるところに、平たい石を置いてあるの。底がえぐれないように」
「……一滴も、漏らさぬ造り」
「漏れると、床が濡れるからね」
「籠城において、最も尊ぶべきは水。兵糧は削れても、水だけは削れませぬ。それを、この岩の奥に……」
難しい言葉が並んだので、聞き流した。
それより、粘土のふちに小さなひびが入っていないかのほうが気になる。
……うん、大丈夫そうだ。
そのとき、うしろから、ぺたぺたと足音がした。
「きゅる!」
ムクだ。
ライルの兜を頭にかぶって、走ってくる。
前が見えていないらしく、通路の曲がり角で、一回、壁にぶつかった。
ごん、と鳴った。
兜が。
「きゅあー!」
痛くないらしい。
むしろ楽しそうだ。
兜って、そういう使い方をするものだったっけ。
ムクはそのまま、水場へ一直線に向かってきた。
泥だらけの顔で。
「待って待って待って!」
僕はムクを抱きとめた。
水場のふちの、手のひら一枚ぶん手前だった。
危なかった。
この水場に泥の顔を突っこまれたら、今日の水がなくなる。
なくなるどころか、泥水になる。
「きゅる……」
「だめ。ここは飲むところ。遊ぶのは、下の、ぼよんってするとこ」
ムクは兜の中で、不満そうに鳴いた。
抱えた腕から、伝わってくるものがある。
「のどかわいた」だ。
なんだ、遊びたかったんじゃないのか。
僕はお椀で水をすくって、ムクの口もとに近づけた。
ムクは兜をかぶったまま、器用にぺろぺろと飲んだ。
ライルが、それをじっと見ていた。
「……神獣様に、御手ずから」
「のど乾いてたみたい」
*
寝室に戻って、隅の落とし口に寄った。
粘土の板のふたをずらす。
床に、お椀ひとつぶんくらいの、暗い穴があいている。
「あと、これ。床にこぼした水は、ここに捨てるの」
「……この下は」
「溝。床の下に、水の通り道を掘ってあるんだよ。水場からあふれた水も、この下を通って、ずーっと東へ行って、外に出る」
「床の下に、水の道を」
「うん。上からは見えないよ」
「……外の者には、水の行方すら知れませぬな」
「シュナが、開いてた溝に足を突っこんだんだよ。だから、ふたをしただけ」
ライルは、寝床のシュナを見た。
シュナは、寝たふりをしていた。
たぶん、あの話はされたくないんだと思う。
それより、見せたくなった。
こういうのは、見てもらうのがいちばんだ。
「ほら、聞いてて」
僕は、手に持っていたお椀の水を、穴にそそいだ。
ちょろろろ、と音がした。
少しして、ずっと下のほうで、こぽ、と鳴った。
「ね! ちゃんと流れてる!」
「……おお」
ライルが、穴に耳を寄せた。
僕も、耳を寄せた。
大人が二人、床に這いつくばって、穴の音を聞いている。
こぽ。
「ね?」
「……は」
それから、僕は、空になったお椀を見た。
「……あ」
「レオ殿?」
「今の、僕が飲むぶんだった」
水場は、一晩で半分ちょっとしか戻らない。
ムクに飲ませて、ライルのぶんを残したら、さっきの一杯が今日の僕の水だった。
やってしまった。
溝の音を聞かせるために、飲み水を一杯、捨てた。
土木兵として、いちばんやっちゃいけないやつだ。
「わ、私の分を」
「いいよ。怪我人は飲んで」
「しかし」
「夜にはまた溜まるから。一晩くらい平気平気」
平気ではない。
喉が、もう乾いてきている。
人間って、飲めないと分かった瞬間に喉が乾くのは、なんでなんだろう。
*
最後に、主坑道を東へ歩いた。
坑道は、入口へ向かってゆるい上り坂になっている。
ライルは脇腹を押さえながら、ゆっくりついてきた。
「この下も、溝が通ってるんだよ。南の壁ぎわ」
ライルは、南の壁ぎわの床をじっと見た。
踏み固めた土しか見えないはずだ。
貯蔵室の前を過ぎて、竪坑の下を過ぎた。
上から降りてくる風が、首のうしろに当たる。
冷たい。
すっかり冬の風だ。
突き当たりが、入口の壁だ。
「ここが、昔の入口。雨が吹きこむから、ふさいだの」
「……存じております」
ああ、そうか。
この人、一昨日、自分で見て回ったんだった。
「で、この壁の足もとの、ずっと下。胸くらいの深さのとこに、溝の出口があるの。お椀ひとつぶんの穴で、崖の外に抜けてる」
「外へ」
「うん。水は谷に落ちていく」
ライルの顔が、少し険しくなった。
「……レオ殿。その穴から、外の風は」
「あ、それそれ!」
つい、声が大きくなった。
そこを聞いてくれるとは思わなかった。
「穴をあけた晩にさ、寝室の落とし口から、ぴゅーって風が吹いてきたんだよ。寒くて寒くて」
「は」
「だから、出口の手前で、溝の底をいっぺん下げて、また上げたの。そうすると、そこにいつも水がたまるでしょ。水がたまってると、風が通れないんだよ」
「……水で」
「そう、水でふたをするの。軍で教わったんだ。誰に教わったかは忘れたけど」
「水をもって、外界との門を閉ざす……」
「寒かったんだよ」
「風のみならず、虫も、においも、あるいは――」
「うん、虫も来ないし、においも上がってこない。いいでしょ」
ライルは、また壁の足もとを見つめた。
見えるのは、土の床だけだ。
穴も溝も水たまりも、ぜんぶ土の下にある。
「……何ひとつ、目に見えぬ」
「うん。上からはね」
「見えぬものを、見えぬまま、ここまで……」
ライルが、ぶるっと震えた。
竪坑の風が、冷たかったのかもしれない。
このへんは寒いから。
*
寝室へ戻る途中、ライルが竪坑の真下で足を止めた。
土の三段を見ている。
自分が落ちてきた場所だ。
「レオ殿。お役目を、ひとつ思いつきました」
「え、なに」
「ここに、座らせていただきたい」
「……ここに?」
「上より降りるものを、この身が最初に」
上から降りるもの。
風のことかな。
あとは、たまに雨粒くらいだ。
「寒いよ、ここ」
「構いませぬ」
まあ、風に当たりたい日ってあるよね。
寝てばかりだと、頭がぼんやりするし。
「じゃあ、寒くなったら戻ってきてね」
「は」
夕方、様子を見に行った。
ライルは、土の三段のいちばん下に座って、竪坑を見上げていた。
背筋が、ぴんと伸びている。
その膝の上で、兜をかぶったムクが、丸くなって寝ていた。
ライルは、片腕でそっとムクの背中を押さえている。
どうやら、動けなくなっているらしい。
「……レオ殿」
「うん」
「この身、動けませぬ」
「うん。見れば分かる」
結局、ムクが起きるまで、ライルはそこから一歩も動かなかった。
見張りって、たぶんこういうことじゃないと思う。
*
夜、水場の水は、半分ちょっと戻っていた。
お椀にすくって、ライルに渡した。
ライルはひと口だけ飲んで、黙ってお椀を僕のほうへ押してきた。
「もっと飲んでいいのに」
「十分にいただきました」
嘘だと思う。
でも、僕の喉はからからだったので、ありがたく飲んだ。
冷たくて、ほのかに甘かった。
今日いちばん、おいしいものだった。
寝ようとして、寝床のほうを見た。
シュナが、ライルの寝床のまんなかで、もう寝ていた。
「……シュナ、そこ、ライルの」
ウォフ。
どく気は、ないらしい。
ライルは寝床の端っこに、正座のまま収まった。
そして、そのまま寝た。
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