第96話 幸せに満ちた世界が出来たなら
秋の高く澄んだ空を見上げながら、僕は公園から自分の家へと全力で走り出していた。
頭の中で、花穂が言ってくれた言葉が、何度も何度もリフレインしている。
『いろんな音を重ねて隠すんじゃなくて、一番聴かせたい音だけを残すの』
『例えば、最初はピアノ一つだけで静かに始まるとかさ』
『その声とピアノだけで勝負するくらいのシンプルさがあってもいいと思う』
その言葉たちが、僕の中でバラバラになっていたピースを、劇的な速度で一つに繋ぎ合わせていく。
……そうだ。
なぜ、こんな単純なことに気づかなかったのだろう。
ラブソングだからといって、無理にお花畑のようなキラキラとしたシンセサイザーや、過剰に華やかなストリングスで飾り立てる必要なんて、どこにもなかったのだ。
僕が本当に聴かせたいのは、僕の隣で、僕のために不器用な鼻歌を歌ってくれた凛の真っ直ぐな想いと、それを支えたいと願う僕の愛情だけだ。
それ以外の音は、すべて不必要だ。
脳内に、落雷のような閃きが走った。
この閃きが消えてしまう前に、一秒でも早く形にしなければならない。
僕は弾かれたように足を速め、息を切らしながら自分の家の玄関を飛び開けた。
「ただいま!」
一階のリビングから驚く妹の声が聞こえた気がしたが、それに返事をする余裕すらなかった。
靴を脱ぎ捨て、階段を一段飛ばしで駆け上がり、二階の部屋へと飛び込む。
部屋に入るなり、僕は荒い息を整えることもせず、獲物に飛びかかる獣のようにパソコンの前に座り込み、電源ボタンを叩き込んだ。
急げ……忘れる前に‼
OSが立ち上がるまでの数秒間すらもどかしく感じられ、無意識のうちに机を指先でトントンと叩き続ける。
画面が表示されるや否や、音楽編集ソフトのプロジェクトファイルを開いた。
よし……行くぞ。
画面には、二週間以上も迷走し、無駄に音を足し続けてきた数え切れないほどのトラックが並んでいる。
煌びやかなシンセサイザー、華やかなストリングス、リズムを刻むための過剰なパーカッションなどなど。
僕はマウスを握りしめ、それらのトラックのミュートボタンを、次々と、一切の躊躇なくクリックしていった。
消して、消して、削ぎ落としていく。
やがて、画面にアクティブな状態で残ったのは、メロディラインと基本的なコード進行を示すピアノのトラック、そして、あの日、凛が僕の膝の上で歌ってくれたハミングの仮録音データだけになった。
「……よし。ここからだ」
僕はキーボードに両手を乗せ、深く息を吸い込んだ。
目を閉じると、凛の真っ直ぐな言葉が蘇ってくる。
『私のこの想いに、あなたの音を重ねてみて』
そうだ。
僕が音に込めるべきなのは、過剰な装飾なんかじゃない。
僕の腕の中で、狂おしいほどの心拍数を伝えてくれた彼女への、重たくて、甘い愛情。
ただ、僕が好きな冬峰 凛を音に乗せるだけだ。
僕は鍵盤に指を落とし、静かに、そして一音一音に心を込めてピアノを弾き始めた。
ポロロン……と、温かく優しい和音が部屋に響く。
これまでの痛切な不協和音とは全く違う、素直で真っ直ぐなメジャーコード。
そのピアノの旋律に合わせて、凛のハミングのデータを再生する。
「んん〜、ん〜……♪」
スピーカーから流れてくる凛の透き通るような歌声が、僕の弾くピアノの音と重なり合った瞬間。
僕は全身に鳥肌が立つような衝撃を受けた。
「……これだ」
余計な音がすべてなくなったことで、凛の声の微かな震え、息遣い、そして僕のピアノに込めた『好きだ』という感情が、痛いほどにダイレクトに伝わってくる。
互いの音だけを頼りに、互いを優しく包み込み合うような、完全なる調和。
僕たちは、音の海の中で二人きりの世界を歩いている。
ピアノの音色の細かな強弱を調整し、凛の仮歌が最も美しく響くように音のバランスを整えていく。
時間はあっという間に過ぎ去り、窓の外が完全に夜の闇に包まれた頃。
ついに、僕たちの三曲目となる極上のラブソングの、完成版デモ音源が出来上がった。
「……できた」
僕はマウスから手を離し、深く、長い安堵の溜息を吐き出した。
背もたれに深く寄りかかり、完成したばかりの音源をもう一度最初から最後まで通して聴く。
……よし、完璧だ。
派手さはない。
けれど、この音には、僕と凛の嘘偽りのない感情のすべてが結晶化して詰まっている。
僕はすぐにスマートフォンを手に取り、メッセージアプリを開いた。
結城さんも入っているグループチャットに送るべきか迷ったが、この曲だけは、誰よりも先に聴かせたかった。
『奏多:デモ音源、完成したよ。今から聴ける?』
送信ボタンを押してから、わずか数秒後。
『凛:できたの⁉ 今すぐ行くわ!』
相変わらずの速さに苦笑しながら、僕は部屋を少しだけ片付け、凛の到着を待つことにした。
それから十分も経たないうちに、一階から玄関のチャイムが激しく鳴り響いた。
どうやら、妹が対応するよりも早く僕が迎えに出た方が良さそうだ。
僕は階段を駆け下り、玄関の扉を開けた。
「いらっしゃい……って、凛⁉」
そこに立っていたのは、少し息を切らし、肩で息をしている凛だった。
秋の夜風で冷えたのか、少しだけ頬を赤くしている。
普段の整った服装とは違い、急いで家を出てきたのがわかるような、少し大きめのパーカーにデニムというラフな格好だった。
「はぁ……はぁ……奏多、遅くなってごめんなさい。走ってきたわ」
「いや、十分も経ってないから全然遅くないけど……そんなに急がなくても逃げないよ」
「だって、早く聴きたかったんだもの」
凛は黒縁眼鏡の奥の瞳をキラキラと輝かせ、僕の顔を見つめてくる。
そのひたむきな姿が愛おしくて、僕は自然と笑みをこぼした。
「上がって。部屋で聴こう」
「ええ‼」
二階の僕の部屋に入ると、凛はいつものように迷うことなく僕のデスクの隣にあるキャスター付きの椅子を引き寄せた。
「さあ、聴かせてちょうだい。奏多が二週間も悩み抜いた、私たちのラブソングを」
凛がヘッドホンを耳に当てる。
僕は小さく頷き、再生ボタンをクリックした。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




